112『光秀、本能寺の変までの日々』
○明智光秀、本能寺の変までのダイジェスト
織田信長から指示を受け、徳川家康の饗応役を解かれた明智光秀は、
五月十七日、本拠地の一つ坂本城に移ったあと――
二六日、居城の丹波亀山城に入った。
二七日、光秀は亀山の北に位置する愛宕山に登って愛宕神社に参拝した。
愛宕神社は山城・丹波国境の愛宕山(標高924m)山頂にある。
古くより信仰を集め、戦国時代は――
本殿には愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵が、
奥の院に愛宕山の天狗の太郎坊が祀られていた。
『信長公記』には、光秀は思うところあってか太郎坊の前で二度、三度とおみくじを引いたとある。
その日は神社に宿泊した。
二八日、光秀は愛宕山西之坊威徳院で連歌の会(愛宕百韻)を催し、当日中に亀山に帰城した。
二九日、織田信長は安土から、当日中に京の本能寺に入る。
ちなみに旧暦六月は、二九日までである。
六月一日(夜) 光秀、本能寺襲撃のため出陣する。
二日(早朝) 本能寺の変
――この明智光秀の『本能寺の変』までの流れを見ていくと、
二八日の連歌師・里村紹巴らと行った連歌会が後に――
何故、『愛宕百韻』と特記されるほどに注目されているのがよく解る。
通説では、羽柴秀吉の援軍として中国に出陣前の光秀が、いつ本能寺襲撃を考えたのか?
その光秀の心境を推察できるヒントが、
光秀の詠んだ連歌には表されているとも言われているからです。
そして実はこの連歌会は――
当時においてもかなり注目されており、
なんと羽柴秀吉は光秀を討取った後、連歌会の内容を聞いて怒って、紹巴を呼んで問い詰めたという話が『常山記談』に残されているくらいである。
ちなみにこの連歌師里村紹巴、本能寺の変の重大局面でまた、史実登場しますので、覚えておいてください。
そう、リアルタイム執筆中になんと《エヴァンゲリオン計画》に、この連歌師が関係している可能性が出てきましたので、現在執筆予定を変更して鋭意調査中です!
では、秀吉が激怒したという連歌会『愛宕百韻』で――
光秀の詠んだ連歌とはいったい?
そしてその言葉の真意とは……
今度こそ、
次回『愛宕百韻』
乞う、ご期待!




