111『最後の晩餐と安土饗応』(信長)
○安土饗応
天正十年(1582)
五月十一日
織田信長の誕生日に、多くの民衆が総見寺に参拝に押し寄せた。
『イエズス会日本年報』
五月十五日
織田信長は、武田勝頼を倒し武田氏滅ぼした時に協力してくれた御礼として、徳川家康を安土城に招待した。
そしてその饗応役として仰せつかったのが――
明智光秀であった。
ちなみに饗応とは接待の事である。
当時光秀は、天下の中枢である近畿の最高責任者に信長から任命されており、当然信長からの信任は随一。
しかも徳川家康は光秀の主君信長の義弟であり、
若き日から『清洲同盟』を結び戦国の世を共に生き抜いて来た大盟友である。
そして、今回の武田攻めでも功績を立てたため、織田信長か家康に感謝の気持ちを伝えるための饗応なのである。
そう信長政権にとって最重要人物である家康の接待という、大役を光秀は任されているのだ。
ここでも、信長の光秀に対する信任の厚さが解る。
ここで講談では――
光秀が準備していた魚が、腐った臭いがすると言って信長が激怒し光秀を折檻、
それを恨みに思った光秀が謀反を決意した。
……となるが、これは史実研究等で否定されている。
しかし、通説ではこの接待中に、備中高松の毛利軍を攻めている羽柴秀吉からの救援要請を受けて、
信長は光秀の接待役を解き、光秀を秀吉の援軍に行くよう指示したといわれる。
こうして、自領である亀山城に戻った光秀は軍を整えて――
本能寺の変を起こすのである。
……もし、
……もし、信長が自ら命を捨てる決意をしていたのであるならぱ――
実はこの時イエスとユダの様に、光秀にも信長から――
『福音書』計画の実行命令が出ていた可能性が高いであろう。
読者方は、「そんな話聞いたこと無い」
「そんな話、証拠あるの?」
と感じるのが当然だと思います。
――が、実はあるのだ、
織田信長が明智光秀に裏切りを指示した証拠が!
そう、もっと詳しく延べると、
エヴァンゲリオン計画に対する、
明智光秀の《決意表明》が――
実は、後世に残っているのだ!
次回予告
明智光秀はその日、何を感じ何を思ったのであろうか?
そして、その選ばれた、その言葉こそ真実か?……
次回『愛宕百韻』
この日、明智光秀は決意する。
――乞う、ご期待!




