第74話 血飛沫
幼い頃の、ある記憶───。
隔離された部屋の数々には白い病衣を着た子供達が収容されていた。
そして、そこには自分はいた。定かな年齢かどうか分からないが、恐らく十二歳程だろう。
周りを見れば人形で遊ぶ子供がいた、絵本を読んでいる子供もいた、勉強をしている子供も、仲良くお喋りしている子供も、俯き顔を見せない子供も───。
「ソラ!」
『ソラ』という名の幼い少年は名前を呼ばれ後ろに振り向くと、そこには一人の少年がサッカーボールを手に笑っていた。
「一緒にサッカーやろーぜ!」
「……うん、しよう」
ソラは少年に誘われ頷くと、その少年の後ろから一人の少女が抱き着いてきた。
「おにいちゃん! セラもサッカーするー!」
腰まで伸びる美しい長髪を靡かせながら近づいてきた少女はそう言うと、兄である少年は笑顔で少女の頭を撫でた。
「ああ、一緒にやろう!」
ソラと少年と少女、三人でサッカーをするとは言っても、やる事と言えばボールを三人でパスをし合うだけの事。
それでも三人は楽しそうにボールを蹴り、部屋の中で延々にパスだけを繰り返していく。
楽しい一時を過ごす三人、しかしその楽しい時間もそう長くは続かない。
別室ではその部屋の中に仕掛けてある監視カメラの映像が十を越えるモニターで監視されており、その部屋にいた一人の女性が舌なめずりをする。
「六番と七番を呼んでちょうだい」
その女性の指示の元、ソラ達のいた部屋に放送が鳴り響く。
『ソラ、リク。至急部屋から出なさい』
放送が部屋中に聞こえた途端、その部屋にいた幼い少年少女達は皆体を震わせた。
そしてボールを蹴り合いパスをしていたソラとリクもまた動きが止まると、転がっていくボールなど目もくれず部屋に一つだけある出口に顔を向けた。
「行くか」
「うん」
ソラと遊んでいたリクはそう呟き慣れた足取りで部屋の出口まで歩いていくと、ソラもまた特に動揺する様子もなく歩き始める。
そして出口の扉を前にした瞬間、リクは大きな溜め息を吐いた。
「セラ~……」
それは何時ものこと、まるで行かせないかのようにセラがリクに抱きつき離そうとしないのだ。
「前に言っただろー? 大丈夫だって」
「やだ! おにいちゃんまたおくすりさされるもん!」
「注射、別に痛くないから気にしてないんだけどなぁ……っと」
隙を狙い、リクはすかさずセラの両脇に手を挟み擽り始める。
擽られたセラは体を過剰に反応させながら笑ってしまいリクを抱きしめていた腕の力が抜けてしまうと、それを見ていたソラがセラを後ろから抱き上げる。
「あ~! んんーっ!!」
兄から離された事にセラは不満を爆発させ暴れ始めるが、ソラはセラを持ち上げたまま放そうとしない。
「それじゃセラ、良い子でお留守番してるんだぞ!」
それだけ言い残しリクが足早に部屋から出て行くと、それを見ていたセラは観念したのか暴れるのを止めて落ち込んでしまう。
少々悪い気もするが仕方が無い。ソラは優しくセラを下ろした後、寂しそうに俯くセラを横目に部屋から出て行く。
部屋の外には長い通路が伸びており、その通路の入り口近くには壁に凭れ掛かったリクが立っていた。
「悪いな、いつもいつも」
「ううん、リクも大変だね」
「平気平気! それじゃさっさと行って済ませてこよーぜ!」
リクは特に気にした様子もなく壁から体を放し歩き始めるが、ソラはそんなリクの背中を見ながらふと考えてしまう。
何時もセラを置いていかなければならないという不安な気持ちが有るというのに、それを見せないリクにソラは少なからず尊敬していた。
「今日は何するんだろーなー。昨日は散々広い部屋の中を走らされたし、ソラは昨日は何してたんだっけ?」
「僕も殆ど同じだよ、部屋一面に点滅するパネルがあって、それをひたすら触るだけなんだけどね」
「なにそれゲームみたいで面白そうじゃん、俺なんてただ走らされるだけだったのに」
どうやら昨日二人に行われた『テスト』の内容には違いがあり、二人は互いのテスト内容を話し合っていると、通路の最後にある一枚の扉の前に立った。
扉は自動的に開き、そこには真っ白な部屋が広がっていたが、その部屋の中央に一人の女性が立っていた。
「っ……」
その女性を見た途端、二人は警戒しながらゆっくりと部屋の中に入っていく。
珍しいのだ、この施設で人間、それも『大人』見る事など早々無い。
いつも音声に案内されながら実験を行う為の部屋に向かい、薬物投与や身体能力のテストを機械が自動的に行うのだ。
「はじめまして、私はエルフェル・ファフニール。今日からこの施設と計画の全権限を持ち、統括する事になった者よ」
唐突な自己紹介と説明に、リクもソラも互いに顔を見合わせ困惑してしまう。
「……お偉いさん?」
「みたいだね、そんな人が僕達に何の用だろう……?」
こんな事は今まで無かった為、二人は不思議そうな態度でエルフェルを見つめていると、エルフェルは再び唐突に話し始める。
「質問よ、貴方達はここで何をしているのか答えてみなさい」
その質問の意図が分からずソラは立ち尽くしたままだったが、隣に立っていたリクが簡単に話し始めた。
「俺達、ここで『実験』の為に色々なテストを受けてる。データっていうのがほしいんだろ?」
「ええ、そうね。薬物投与、戦闘訓練、脳波修正、肉体強化にレジスタルの改良……軽く百を超える実験・テストを行っているわ。そのデータの代償としてこの組織は貴方達に屋根のある部屋、柔らかいベッド、温かい食事を与えてあげてる……その結果、どうなったと思う?」
再び質問をされた二人は互いに顔を見合わせ言葉に詰まるが、エルフェルは二人の返答など最初から聞く気もなかったかのように説明しはじめる。
「破産したのよ。莫大な資金と時間を与えてきたにも関わらずロクな研究データも上げられない、貴方達のような孤児を拾ってくるだけ拾っては資金が足りないとほざき追加費用を要求。施設はより巨大になり、数が増していくものの、その代償にあった成果は微々たるもの。まるで裕福な孤児院ね……よって、これより選別を始めるわ」
突如、白い壁に映像が映し出されると、ソラとリクはその映像を見るよりも早く、聞こえてきた音声に戦慄した。
『い゛やぁぁぁぁああああッ!!』
少女の絶叫に二人の心が張り裂けそうになる。
それは本当に人間が発せられるのかと疑問を抱く程醜く酷い悲鳴だった。
鼓動が早まり、食い入るように映像を見つめていく二人。
そして二人が見たものは、血塗れの部屋である存在に一方的に殺されていく子供達の姿だった。
人間のような形をし、尚且つ機械のような外見の化物。
黒い包帯を巻かれ、その隙間から見える皮膚は腐敗しているかのように紫色に変色していた。
それは生物なのかすらも怪しいものだったが、その存在は異様に発達し巨大化した右腕を振り上げ、泣き叫ぶ少女の顔面目掛け右手から伸びる鋭利な爪を突き出した。
少女の顔面は貫かれるというよりは潰れてしまい血飛沫を吹き出すと、糞尿を垂れ流しながら痙攣しはじめる。
その光景を見ていた周りの子供達はその存在から逃れようとするが、部屋の出口が開くことはなくただただ部屋の四隅へと固まり震えていた。
そしてその震える子供達の中に、先程まで一緒にいたセラがいる事に二人は気付いた。
「セラ……っ!」
ソラが咄嗟にセラの名を呼ぶと、リクはエルフェルを睨みつけながら迫った。
「なん、だよ……なんなんだよ、あれはッ!?」
「出来損ないの始末を出来損ないにさせてるのよ、あの部屋に残っている子達には価値が無いのよね……ほら、見なさい。命の危機に瀕しても戦おうともせず、ただただ恐怖に震え殺されるのを待つだけ。滑稽ね」
殺戮されていく子供達を見て微笑むエルフェルをソラは正気だとは思えず足を震わせてしまう。
すると、そんなエルフェルの言葉を聞いたリクは拳を握り締めると、自分達が入ってきた扉の前まで走り扉を開けようとする。
「くっ……!!」
だが扉が開くことはなく、何度も扉を殴ろうともビクともしない。
「おい! 今直ぐこの扉を開けろッ!! セラがッ、セラがぁっ……!」
「妹を助けたいのね。ふふっ、いいわよ、開けてあげる」
意外にもエルフェルはリクを止めようとせず、右手を振り上げ魔法陣を展開させはじめた。
「ライセンス認証、レジスタルの使用を認可、及び強制解放を発動」
魔法陣がエルフェルの言葉を聞き光りを発し部屋の扉が開かれると、その時既にリクの両手には手甲、ソラの両手には双剣が握り締められていた。
「さぁ、自分達の価値を上げてきなさい、結果を出せばそれなりの扱いをしてあげるわよ」
リクは何度か掌を開き、閉じる動作を行い初めて見る自分のレジスタルである手甲を馴染ませると、後ろに振り返りエルフェルを睨みつけた。
「お前だけは……ぜってぇ殺す」
「ふふっ、良い眼ね」
今にも飛び掛ってきそうな気配、殺気にエルフェルは笑みを浮かべリクを見送ると、ソラもまた双剣を握り締めリクの後を追うように走り始めた。
「ソラ!? 来なくていい! 死ぬかもしれないんだぞ!?」
「ううん、僕も戦うよ。セラや、皆を救いたいから……!」
今でも足は震え、体もその場から逃げたがっている。
しかしリクやセラ、部屋にいた皆を見捨てることなどソラには出来なかった。
押し寄せる恐怖もリクと一緒にいれば緩和され、ソラはより一層足を速めセラ達のいる部屋へと向かう。
そして部屋の扉が開き二人が辿り着いた直後、血生臭い匂いが漂う赤い部屋に二人は絶望した。
二十人以上いたはずの子供達の数が既に半数以上減っており、今もなおその数を減らし続ける。
部屋の辺りには子供達の手足や首が転り血溜りが作られ、ふとソラが足元に視線下げると指や眼球、脳味噌であろうピンク色の肉片が散らばっているのが見えた直後、その場に跪き嘔吐してしまう。
「うぷっ……ぅヴォぇえええっ!!」
その想像を絶する光景にソラの心は一瞬にして砕かれ、恐怖で足が竦み立ち上がる事すら出来なかった。
それは至極当然の出来事、この地獄のような光景を前に正気を保てる人間などいない───はずだったが、この少年、リクは違った。
「許さねえ……」
その場の残酷な光景を見ても尚……いや、見たからこそ更に殺気が増し、昂ぶる心に体が武者震いしはじめていた。
「やめろぉおおおおッ!」
今にも子供達を襲おうとしていた化物に向かってリクは叫びながら右腕を振り上げ飛び掛ると、化物の顔面目掛け拳を振り下ろす。
だが、化物も同様に右腕を振り上げ薙ぎ払うように振り下ろすと、リクの肉体を軽々と吹き飛ばし壁に打ち付けてしまう。
「がはっ!?」
全身に伝わる重い衝撃にリクの意識が一瞬飛びそうになるが、化物が自分から再び泣き叫ぶ子供達の方を向いた途端、歯を食い縛りその場に着地すると再び手甲を構え怖気づくことなく戦いを挑んだ。
「くっそぉおおお!」
目の前で次々に殺されていく子供達、助けを求め逃げ惑うその姿と声にリクは目に涙を浮かべ、再び化物目掛け拳を振り下ろす。
しかし、化物はリクの振り下ろした拳を左手で鷲掴みにすると、右腕の鋭利な爪をリクの顔面へと向けた。
「あっ───」
その刹那、血飛沫が上がり辺りを赤い血で染めていく。
血はリクを染め、化物を染め───ソラを染める。
赤い血はリクのものではなく、左腕を切り落とされた化物のものであり、ソラは過呼吸になりながらも双剣を構え化物を見つめていた。
(今のはまぐれだっ、もう僕の攻撃は通じない、後は避ける、避けて避けて避けて、時間を稼ぐ……!)
「リク! 僕達が入ってきた扉はまだ開いてる! セラと皆を連れて逃げるんだ!!」
それは絶望の淵に残された僅かな希望、リクとソラが入ってきた時に開いた一つの扉はまだ開いたままであり、逃げようと思えば逃げられる状況だった。
ソラはもう化物に勝とうとも戦おうとも思っていない、左腕を切り落とされた化物はソラを睨みつけると右腕を高速で振り回しソラを切り刻もうと襲い掛かる。
(見える!)
それは今までテストを行ってきたソラだからこそ相手の動き・スピードに対応する事が出来た。
一撃目を寸前で交わし、二撃目を予想し余裕をもって避け、三撃目も回避に成功───。
(───えっ?)
直後、いや同時と言える程の速さでソラに『四撃目』が振り下ろされる。
それは全く予想する事が出来なかった、何故ならその四撃目は化物の右腕からではなく、切り落としたはずの左腕から向けられた攻撃だったのだから。
(傷が、治ってる───)
相手の脅威的な再生能力を前に、ソラは成す術無く木の葉のように吹き飛ばされる。
「がァッ!?」
化物の繰り出した左拳はソラの腹部を抉るように殴り、ソラは吐血しながら腸が飛散している血溜りの中に落ちた。
「あっ、う゛……う……ぁっ……」
勝手に目が見開き体がビクビクと痙攣し震えが止まらない。
口から垂れ流れる血は血溜りへと滴り、ソラの着ていた衣服に血が染み込み赤く染まり始めていた。
何も出来ない、殺される、でも、それでいい───。
何故なら自分はあくまでも時間稼ぎの為に行動しただけ、自分の犠牲で皆が助かるのならそれでもよかった。
ソラは薄れ行く意識の中でこちらを睨んでくる化物を見つめ続けていた、しかし化物は何も出来ないソラを見た後直ぐに視線を別の子供達に向けると、ソラに止めを刺さず別の子供達を襲い始める。
(なんっ、で……!?)
最早死に底無いなど眼中にないのだろうか、無慈悲にも子供達は残虐され続け、今では五名程しか残っていない。
「たす、けて……」
その中にセラはいた。
「おにい、ちゃん゛っ……!」
大粒の涙を零しながら迫り来る化物に怯え、助けを求めて兄を呼ぶ。
その救いを求める声に応えるかのようにリクはセラの元まで駆けつける。
すぐ目の前にまで来た兄を見たセラは腕を伸ばし抱きしめてもらおうとしたが、リクは両腕を伸ばしセラの肩を掴むと、周りの子供達を見渡しながら口を開いた。
「いいか! よく聞くんだ、今からお兄ちゃん達があの化け物をやっつける。その間に皆は出口まで走るんだ! いいな!?」
そう言ってリクが唯一扉が開いている部屋の出口に指を指すと、子供達は一斉に出口へと走り始める。
しかしセラはリクの腕を掴んだまま決してその場から逃げようとしなかった。
「やだ! おにいちゃんといっしょにいる!!」
せっかく、ようやく会えたというのに、また離れるなんてセラには考えられない。
震える腕、力が入らない指先で必死にリクの腕掴んでいたが、リクはセラを睨みながら声を荒げた。
「わがままを言うなッ! 行け!!」
今まで見た事のないその形相にセラは一瞬泣き止んでしまう。
「ひっ……くぅ、……ぅぇえ……ん……」
だが、次第にまた目から涙が零れ落ち始めると、今度は腕ではなく自らリクに抱きつくように両手を広げ体にしがみついた。
「やぁ~だぁ~っ!! おにいちゃんと、いっしょに゛いるぅ~~!!」
わがままでもいい、おこられてもいい、それでもセラはずっと兄と一緒にいたかった。
「っ……セラぁ……」
助かる事より兄と離れる事の方が怖い、それが分かったリクはセラの頭に優しく右手を置くと、ゆっくりと頭を撫ではじめる。
「……ったく、セラはいつまでたっても甘えん坊なんだから」
その感触にセラは顔を上げると、そこにはもう怖い顔をした兄はいない。いつものように優しく接してくれる心強い兄だけがそこにはいた。
「リクゥ゛! 後ろおぉッ!!」
渾身の力を振り絞りながら危機を知らせようとしてくれるソラの声。
ああ、聞かずとも分かっている、今まさに自分達を狩ろうと化物が迫ってきている事を。
守る為には戦うしかない。相手を、徹底的に、何度再生しようと、何度立ち向かってこようとも───。
化物が右腕を振り上げ指先を揃えると、その鋭利な爪はまるで巨大な一枚の刃のように不気味に輝き、セラを抱きしめるリクの背中へ突き出した。
突き飛ばされるセラ、必死に抱きしめていたはずなのに、もう絶対放さないつもりだったのに、自分の腕から離れる兄は最後までセラに安らかな笑みを見せていた。
拳を握り締め体を捻り一瞬でその場に振り返るリク。
敵は眼前、予想通り相手の武器は強靭に発達した右腕、狙いは自分。
「……っぁああああああああ゛ッ!!」
ならば自分も同じ、ありたっけの力を右腕の手甲に注ぎ込む、右腕を相手の顔面目掛け突き出す。
その一人と一体の戦いを見ていたソラは、リクが勝利する事を心から願い、信じ続ける。
もうあの化物を倒せるのはリクしかいない、つまりリクしか皆を守る事しか出来ない。
リクが死ねば皆助からない、待っているのは確定した『死』だけだ───。
そしてその確定しようとしていた『死』は、一人の力によって振り払われる。
リクの繰り出した拳は化物の顔面に直撃、頭蓋骨が砕け散る鈍い音が響き渡り、化物は血を吐き散らしながら体を回転させ壁に叩きつけられた。
壁は大きな亀裂を走らせながら凹み、化物は痙攣しながら俯き身動きが取れない。
「はぁ……はぁっ……」
勝った、倒した……緊張が張り詰めた空気の中でリクはそう確信すると、思わず膝の力が抜けその場に座り込んでしまう。
静かだった。
先程まで殺すか殺されるかの死闘を繰り広げていたにも関わらず、部屋は静寂に包まれていた。
聞こえてくるのはリクの激しい呼吸音だけ、ソラは血溜りから立ち上がり覚束ない足取りでリクへと近づいていく。
リクもまた落ち着きを取り戻そうと呼吸を整えると、突き飛ばしたセラの方に振り返ってみせた。
「セラ……!」
突き飛ばして悪かった、痛くなかったか? ごめん、セラを守る為に仕方のなかったことなんだ。
そんな事を言わなくともセラにはリクの思いの全てが分かっている。
早く触れ合いたい、抱きしめあいたい、セラは両手を伸ばし兄を待つ。
リクもまたそれに応えるように両手を広げ、セラに一歩近づいた。
セラにとってリクは光。
両親に捨てられ孤児となり、スラム街でボロボロの衣服を一枚着るだけの生活。
時に暑く、寒い、いつも空腹で動く気力すら湧いてこない。
そんな時、いつも自分の為に衣服や食べ物を取って来てくれた兄。
寒い時は抱きしめあい、暑い時は冷たい水を来れる、お腹が空いた時は柔らかいパンや、甘い果物をくれた。
兄の体や顔にはしょっちゅう痣や傷が有ったものの、セラの前ではいつも笑顔を浮かべ優しく接してくれる。
この施設に来てもそれは変わらない。
セラは、自分が不幸だと思った事などない。
何故なら自分の側にはいつも兄がいるからだ、優しく、励まし、勇気付けてくれる兄がいれば、セラは何もいらない。
その光を前にしたセラに、温かく、大量の───血飛沫が掛かった。
セラの笑顔が真っ赤に染まる。
リクは笑顔を浮かべたまま、口から血を吹き出す。
倒れ、伏せ、這い蹲るリクの背中には巨大な刃物……『爪』が突き刺さっていた。
セラの笑顔は徐々に、見る見る変貌していく。
「おにい、ちゃん……?」
光りは消えた、 最早闇しか残っていない。
リクへと近づこうとしていたソラもまた足を止めると、その顔から血の気が引いていた。
「リク……?」
確かにリクは化物の攻撃を避け無事だった、無傷だった、なのにどうして……。
その答えは化物を見れば分かった、化物は意識を取り戻し、右腕をリクに伸ばしていた。
その右手から鋭利な爪の一本が無くなっている、そこでようやくソラはこの化物の攻撃を理解した。
気付くはずもなく、気付けるはずもない、爪を射出し遠距離攻撃を行うとはまさに生物兵器と言えるだろう、そのような能力は人工的作り出さなければ生まれるはずもない。
化物はゆっくりと立ち上がると、リク達ではなく部屋の外へと逃げていった子供達が向かった通路へと一瞬で入っていく。
「やめてぇえ゛! いやぁっ! いやあああ゛!!!」
「ママ゛ぁ! パパァ゛!! だずげでぇぇッ、だずぃギィィィィィッッッ!!」
目に見えない殺戮。
それは通路から聞こえてくる子供達の断末魔を聞けば容易に理解できる。
暫くして、通路に逃げ込んだ全ての子供を潰し、刻み、捻り殺した化物が部屋へと戻ってくる。
そして死に底無いのリクを見た後、化物はやけに慎重に、ゆっくりとリクへと近づき始めた。
「なんで……どうしてっ……」
余りにも理不尽な死の数々に、ソラは虚ろな目で化物を見つめていた。
今まで辛くとも楽しく、平穏に暮らしていたというのに、どうしてここにいた子供達がこのような目に遭わなければならないのか、幼いソラには理解出来ない。
もう直ぐリクは死ぬ。
もう直ぐセラが死ぬ。
もう直ぐ自分も死ぬ。
殺されるのだ、一方的な暴力の前に、理不尽な世界のせいで───。
風が吹いた。
窓も無い密室で、確かに感じた風の感触。
化物がその風の感触に足を止めると、風が吹いてくる方へと顔を向けた。
許せない。
それは化物だけではない、この世の全て、全てだ。
どうして罪の無い子供達が殺されなければならない。
どうして? 過酷なテストに耐え、親もいない子供達は今まで身勝手な大人達の為に協力してきた。
生きる為とはいえ、協力してきたのだ。それなのに何故、今になってこうも簡単に、残酷に、身勝手に捨てる事が出来るのだろうか。
最早子供と思っていない、人間と思っていない、命だと思っていない。
それは物、それは資源、それは材料、それは金───それは、ただの肉塊。
ならば抗う。
自分がそうでないように、自分達がそうでないのだから。
風が舞う。
一人の少年、ソラの廻りには何時しか円を描くように風が吹いている。
その目は恐怖に怯えてなどいない。
憎いのだ、全てが。
その感情は力となり、恐怖を消し、体に血を滾らせる。
化物は飛び掛った、まるで自分と同じような目をする少年に。
そしてソラは双剣を構え化物と目と目をあわせた。
圧倒的な、殺意を放ちながら───。
衣服、顔、髪。
どれも赤く、黒い血で汚れていた空は、双剣を握り締めたまま立っていた。
四散し跡形も無く細切れにされた化物を前に、ただただ立ち尽くしていた。
ソラは勝ったのだ、あの化物に。
脅威的な腕力、再生能力、射出能力を前に、風の速さで敵を捻じ伏せてみせたのだ。
別室でその様子をモニターで見ていた研究者達は開いた口が塞がらず、エルフェルもまた嬉しそうに微笑みながら返り血だけを浴びて染まるソラを見つめていた。
「リク……」
化物を殺し終えたソラはリクへと近づき背中に刺さった爪を引き抜くと、リクは痛そうな声を上げた後、ソラに抱えられながら口を開いた。
「ソラ……お前、すげぇな……あの化物、倒しちまうなんて……」
その戦いの一部始終を見ていたリクはそう言って微笑むが、ソラは一切の感情を見せずリクの瞳を見つめ続ける。
「なあ……その力で、セラを……守って、ほしいんだ……。俺の命より大切な、妹なんだ……俺はもう、長くない……ッ……」
既にリクの周りには血溜りが出来ており、青ざめた顔をしているリクにはもう死が間近に迫ってきている事などソラには分かっていた。
だからこそ、ソラは黙ってリクの言葉を聞き続ける。
「だから頼むっ、お前にしか頼めない……たったひとりの家族……いや、お前も入れたら、二人だな……家族、だからっ……頼む、妹を、セラをぉ……」
その間にもソラはリクの手を強く握り締めながら瞬きする事無くリクの瞳を見つめ続ける。
それを見てリクも安心したのだろう、最後の最後で再び笑みを浮かべると、ソラの手を握っていたリクの手が儚く床へとついた。
零れ落ちる涙、リクの頬へと何粒も滴り落ちていく。
これが最初で、最後となるソラの涙───。
ソラはセラを守る事が出来た。
しかし、リクを守る事は出来なかった。
何故? どうして……?
分かってしまう。化物を自分の力で倒せたのだ、それなら最初から倒していればリクも皆も救う事が出来た。
自分に足りないもの、それは圧倒的殺意が足りないからだった───。
喋らなくなった兄を前に、セラはふらふらと覚束ない足どりでリクの側についた途端、腰が抜けてしまいその場に座り込んでしまう。
するとソラはすかさずセラを優しく抱きしめ、絶望に落ちるセラを前に囁いた。、
「セラ……今日から僕が、君の兄になる」
セラは依然虚ろな目のまま何も喋らない。
「僕が君を守る、僕が君の側にいる。ずっと、ずっとだ。約束する、僕は絶対君から離れない、僕が……リクの代わりに……兄として、側に居続けるッ……!」
それでもソラは話し続ける、例えその言葉をセラが拒否しようとも、理解したくなくとも、約束の為、セラの為、そして……憎むべき全ての為に────。
───それから三年間、ソラは未だに施設の中で、エルフェルの管理の下戦い続けていた。
相手は化物だけではない、同じような施設で育った子供達、最先端技術で作り上げた機械の戦闘兵器。
そのあらゆる敵を前に、現時点のソラは『無傷無敗』を誇っていた。
本来の百倍の濃度の薬物を投与され、睡眠時間など一切無い環境で一週間延々と戦闘を行わされた事もあった。
最早ソラは人間ではない、人間を捨て、一人の人形。いや、一つの人形としてただただ戦わされ続ける木偶。
そんな木偶を、エルフェルは非常に気に入っていた。
今日もまた、ソラは特別な椅子に両手両足を縛り付けられ、頭には拘束具のような物が嵌めつけられており、それはソラの目元も覆い視界を塞いでいた。
エルフェルしかいない一室でソラは抵抗することなく、いつもの事が終わるのを待ち続ける。
「ふふっ、貴方は本当によくやってくれたわ。それも全てあのセラっていう子の為でしょう? 血も繋がっていないのに妹だなんて言い張って、その妹の為に戦い続ける……とっても一途で、可愛いわねぇ」
頬を舐められる感触にもソラは反応しない、しかし徐に口の中に舌を淹れられ自分の口の中をかき回されると、ソラは一瞬だけピクリと反応としてしまう。
それを感じたエルフェルは口を離すと、涎のついた唇を舐め取りながら喋り始める。
「セラの命の代わりに要求した全てを貴方は呑んでくれるなんて。貴方はとても素晴らしいわ……んふっ」
分かっていたとはいえ、急に下着の中に手を入れられたソラは再び反応してしまう。
「っ……」
無意識な体の反応に逆らえないものの、ソラは何も喋らず、何も求めることなくただただ事が終わるのを待ち続ける。
「貴方は私の可愛いペット、可愛い玩具。三年前、初めて貴方を見た時からそう決めていたの」
エルフェルの右手がソラの下腹部をまさぐり、充血する熱い物に触れ優しく触り始める。
「貴方のお陰で私の研究は飛躍的に向上した……でもね、貴方は私の『傑作』止まり。『最高傑作』を作り出す為の存在でしかないの……ふふふっ」
その右手の動きは徐々に加速していき、無意識にソラの呼吸が速くなるのをエルフェルを感じると、ソラに重なるように座り胸を押し当てながら囁いた。
「悔しい? 悲しい? 貴方は私の命令の下従い続けてきたけど、所詮は貴方を超える為の物を生み出す為の存在……ふふっ、でも……私は貴方の事、好きよ」
右手に籠めていた力は、まるで握り潰すかのように強められる。
「ッ!! ……っ……」
……温かく、脈動を感じ、エルフェルは右手を下着から抜くと、指先には白濁した液体が付着していた。
その液体の一滴をエルフェルは舌で舐めとると、再びソラの口の中に舌を入れ掻き回す。
それから口を離すと、エルフェルとソラの口には粘着した唾液の糸が伸びており、エルフェルは左手でソラの頬を優しく摩っていく。
「んっ……ん……っ……今まで、良く頑張ってくれたわ。殺したくも無い人間を無慈悲に、尚且つ殺意だけを保ちながら殺し続け、私の為に働いてくれたソラ……そんな貴方に、ご褒美を上げるわ」
それからソラの意識は闇と消え、永い眠りへとつく。
『風霧空』、アルトニアエデン本部、時空保護観察局に配属。
一年間業務を勤めた後、偶然を装い魔神の娘とされる天百合美癒と接触、保護にあたる。
目的は天百合美癒の十分な信頼と信用を得る事、そして天百合美癒と『魔神』を接触させ、儚い一時を過ごさせる為。
何故ならその理由の全ては、『審判の日』の為───。
で───な───。
破───未───阻───。
自分は、天百合美癒を審判の日に導く為に送り込まれた刺客。
全ての嘘が崩壊し、全ての真実が明らかになった時、空の脳内はその事だけで埋め尽くされていた。
「思い出したかい? お前さんの過去。俺達ぁ特殊部隊として働いてきた、お前さんもその一人、此処にいる新兵達は全員お前さんの後輩になる」
バランがそう説明してはいるものの、風霧空にそんな記憶など存在しない。
それに、最早この男が何を言おうが知った事ではなかった。
今の空はソラになりかかろとうして、空ではなくなってきている。
「ソラにぃがわるいんだよっ!」
その時、離れた場所から汐咲の聞こえてきた。
「汐……ラ……?」
空は無意識に汐咲の声をした方を向くと、そこには頭から血を流し、衣服が破れ、少し肌蹴た状態の汐咲が弱々しく立っていた。
その姿を見てバランも動揺しながら思わず呟いてしまう。
「セラぁ? おいおい、どうしてこの世界に残ってる……。あの転移装置は対象者と同様に使用者も転移するはずだろうがッ……」
だからこそアレだけの事をしたのだ、バランは腕を組みながらも右手で軽く口元に手を置き暫く様子を見始める。
「ソラにぃ、ずっと私のそばにいてくれるって、守ってくれるってやくそくしてくれたのに……ソラにぃ、わたしからはなれて、まもってくれなくて……わたしをひとりぼっちにした……」
ソラ同様、セラもまた自分の記憶を思い出していた。
幼い頃、いつも側には血塗れのソラが立っていた。
どのような条件であろうと、どのような敵であろうと、ソラは言われるがまま、成すがままに行動し続ける。
冷酷で無慈悲に残虐で強引に圧倒的で最速に───その行動は一見血も涙も無いように見えた。
ソラの『敵』となる者、なった者は皆殺されていたからだ。
相手が女だろうが子供だろうが関係無い。
相手が優しかろうが良き人間だろうが関係無い。
相手が兄弟だろうが姉妹だろうが関係無い。
敵は誰一人として容赦無く殺す、何故ならそうしなければ自分ではなく、『セラ』が始末されるからだ。
エルフェルはソラの最初の戦いを見て分かった、この『ソラ』という少年は自分の為に力を発揮する事が出来ない。
力を発動できる条件、そのきっかけは他人の命であり、他人の為にソラはその内に秘められていた力を覚醒させる事が出来ると。
だからエルフェルはソラに教えた、もし自身が戦いに敗れた時、その時は『セラ』をも殺すと。
全てはセラの為。
自分は物、自分は研究の為の資源、自分は能力開発の為の材料、自分は人に利用される為の金、自分は弄ばれるだけのただの肉塊。
何時しかソラは人間ではなく、一つの人形となっていた。
「でも、もういいのっ……」
セラは目蓋を瞑り大粒の涙を零すと、右手を伸ばしよろめきながらもゆっくりと空の方へ歩み寄り始める。
「ソラにぃ、ずっとそばにいてぇ……ずっとまもってぇっ。ずっと、ずっとずっとずーっと! おねがいっ───」
その時放たれた一発の銃声は、周りの建物に反響し鳴り響いた。
空は目を見開きながらその光景を見つめ、バランもまた信じられない様子で見ていた。
一歩足を前に出した途端、口から血を吐き出し、そのまま力無くうつ伏せに倒れる汐咲の姿を───。
直後、バラン達のいる周り魔法陣が浮かび上がり始めると、その魔法陣からフルフェイスのヘルメットを被り重武装した兵士達が次々に召喚されはじめる。
既に空の四方を囲う建物には狙撃部隊も召集されており、今この戦場には五十を超える兵士達によって完全に方位されていた。
その兵士達がアルトニアエデンの兵士である事は見て直ぐに分かったが、バランは一人の隊長らしき兵士を睨みつける。
「おいッ、お前さん達何処の部隊だぁ? 誰の指示でこんな真似をしてやがる」
「我々はエルフェル様直属の部隊だ。バラン殿、被検体八番の排除には成功した、これより被検体六番の排除に協力してもらう───」
「馬鹿野郎がッ!」
隊長クラスの兵士が最後の言葉を継げる前に、バランは握り締めた拳をその男の被っているヘルメットごと殴り飛ばしてしまう。
殴り飛ばされた隊長は訳も分からずその場に倒れてしまうと、バランはその隊長の胸倉を掴み無理やり立たせると、眼前まで顔を近づけ更に睨みつけ始めた。
その事態に周りにいたバランの部下達、そしてエルフェルの部下である重武装した精鋭たる兵士達も一斉にバランの方を向いた。
「排除だと? ならその理由を言えッ! なぜセラを撃った!? 答えろッ」
鬼気迫るバランの形相に隊長は少し怯えながらも自分に課せられた任務を説明しはじめる。
「そ、それはっ……被検体八番と六番はエルフェル様を裏切り、この世界へと逃げ来たからと……」
もうその言葉だけでバランには十分だった。
「……ハメられたなぁ、おい」
全てを理解したバラン。
そう言ってポケットにしまっていた端末を握り潰しその場で破壊すると、ガラクタとなった端末をその場に投げ捨てた。
「どいつもこいつも、俺もだがッ……全員、騙してやがったのか……。エルフェル……お前さんの目的はそれかい」
バランは軽く見上げるように顔を向けていると、その視線を風霧空へと戻した。
空は、撃たれ倒れたセラを見ていたが、暫くして俯いてしまうと、その空の周りにあった僅かな塵や砂
が空を中心として渦を巻くように舞い始めていた。
目に見えない微かな風が徐々に集い始めていく……その様子を見たバランは、自分の後ろに立っていた自分の部下達に向かって声をかける。
「よく聞け、今のあいつは俺もお前等の事も思い出していない。それ所か今のあいつは俺達をセラを襲った共犯者だと思っている」
その言葉の直後、まるで爆発が起きたかのような暴風が辺りに吹き荒れた。
巨大な瓦礫の塊をもいとも簡単に吹き飛ばし、周りに建っていた建物が大きく揺れ動く。
そのまま風は強さを増すのかと兵士達は思ったが、風は一瞬で止み再び辺りは静寂に包まれた。
その静寂こそが危険なのをバランだけが知っている。
目で見える爆発的な力や強大な力ではない、それとはまた別の『力』がそこにはあった。
「今直ぐ全力で逃げな。……風が来るぞ」
少年は双剣を握り締め、その場に立ち上がる。
エルフェルの部下である重武装した兵士達は一斉に重火器を構えその銃口を少年に向けたが、バランの部下である新兵達はその指示の下、武器を捨てその場から離れ始めた。
その姿を見送っていたバランは小さな溜め息を吐くと、静かに振り返り銃を構えた兵士達と共に少年を見つめる。
懐かしくも久しくも感じるあの力、あの姿。初めて会った時もそう、少年は満ち溢れていた。
それは何か。誰もが慄き畏怖するもの、筋力、魔力、速度、可能性、能力……どれでもなく、その全てを覆い尽くす程の『殺気』に他ならなかった。




