Chapter 2-4 Bullet Rain
多くの小さな出来事、そして大きな物語はいつの間にかに始まり瞬く間に終わっていく。それは地球上で点滅を続ける数多に蠢く命のように――。
幾つものテーブルとイスが置かれた広いとあるレストラン。そのラーズヴァリーヌ州内に立つ店はイタリア南部の雰囲気をイメージしたデザイン、それでいて高級感も漂い壁には動物の剥製に幾つもの絵画が架けられている。メニューも当然訳は付いているがイタリア語だ。東欧の地で懐かしき母国の味が恋しくなった金持ちの多く訪れるが、そんな客はいつも気品と金の匂いを漂わせて来店する。だが昼時であり稼ぎ時の今はたった一人だけが席に座りながら食事を摂っており、その周りには8人程の強面な護衛達が付き添ってる。
食事をしている男はラーズヴァリーヌにおけるいくつもの業界に跨る労働組合の幹部――やや太り気味で薄い茶髪の中年男性であるサルバトーレ・マローニ。
元来抑圧的な企業から労働者を守る組織なのが労働組合だが、ここでは既に労働組合なんてものは腐りきり。企業と犯罪組織から金を受け取った組合幹部たちが、下層労働者たちを暴力で制御する買われた飼い犬、牧羊犬に成り下がっている。当然そんな中で哀れな追い立てられる羊たちは労働者だった。だが彼らも常に楽な生活という訳でもない、金がある以上敵もいる。事実最近では命知らずのギャング達から脅迫が多く届いていた。金を払え、さもなくばお前とその家族を殺すと――しかしそんなものは彼にとって日常茶飯事、いちいち怯えたり激情に身を震わせることすらない。結局彼に手を出す者はおらずいたところで十分対処できる警備状態なのだ。
だが――人はわかっていても怠惰と傲慢さに身を委ねてしまうものだ、慣れと怠慢の差はそう大きくない。
多くのレストランや商店が立ち並ぶ長い街道、そしてその一角にあったレストラン――イタリア語で「VICINO」と書かれた札が提げられている入り口の前、石組みの道に一台緑色のセダンが停車した。乗っている男達は2人両方ともバンダナで目元から下を隠している、一人が助手席から降りた肩には大きなスポーツバッグを掛けジャケットの下にはショルダーホルスターにより今では古風なMINIウージーが下げられていた。男は静かに左右へと顔を向けてから歩み寄ると不用心にも鍵のかかっていない扉を押し開け店内へと入っていく。
ちょうどその頃、店の店長が恭しくマローニの顔を伺う中数人の女性ばかりなウェイトレスが空の皿を片付けては新しい料理をテーブルに並べ、マローニ―はまだまだ足りんと言わんばかりにワイングラスを大きく傾け飲みながら並ぶ料理を眺めていた。
店に入った男はバッグからIMI製GALILモデルARを取り出すとバッグを床に落とし、ストックを展開してチャージングレバーを右手で手前に引く。薬室に初弾の金色をした艶のある5.56mmNATO弾が露わになり、そして手を放すと物々しい金属の摩擦音を鳴らしながらボルトキャリアーが前進する。
その時不意に男の眼前に角を曲がってきたウェイトレスが空のトレイを持って現れる。
彼女の視線は僅かに下方へと向いており彼に気が付いた様子はなく、男は歩くスピードも緩めぬまま腕だけを素早く動かしやや斜めで銃口を振り下ろすように女性の顔面――左頬を強固なフラッシュハイダーにライフル自体の重みも乗せた勢いで殴り打ち抜いた。柔らかい頬肉の内側で顎にあたる下顎骨の側面、下顎枝が粉々に砕け強打の衝撃は脳に伝導し意識は消失、虚ろな目の女性がドミノの如く硬直した全身をしたたかに床へ叩き付ける。小さく眼球が蠢き醜く歪んだ口の隙間から鮮血が「ドブドブ」と溢れ出した、床に広がる血液の小さな濁流には砕けた白い歯が浮かぶ。そして男は何事も無かったかのようにイタリア人の元へと繋がる通路を進んでいった。
するとその数秒後、レストランの前で静かに気配を消して立っていた別の男が続いて店内へと入っていく。左手は扉を押し開け、そして右手には黒い拳銃が握られていた。やがて激しく鋭い銃撃音が絶え間なく店の外へ響き渡っていった。
――ダイチェ・チェロベーク美術館――
僕の眼前、赤い壁に絵画が飾られている――大きな長方形をした茶色い額縁の中にピラミッドと神殿が書かれた18世紀フランスの絵画。その展示品の前に置かれている長いベンチに僕は腰掛けてただぼんやりと絵を眺めていた。砂と石ばかりな世界の絵――僕にとって絵は非現実的なものより現実的な風景画のほうが好みだった、といっても特に絵画鑑賞の趣味は無くただ時間を潰しているだけ。
ここはヘレナさんに案内されたダイチェ・チェロベーク美術館、表向きは無料で開放された美術館だけど実際は武器の密売を行っているヤロスラフ財団の隠れ蓑、それでも展示されている美術品は全て本物らしいけど。すると突然、静かに余計な気配も漏らさずに近づいて来た男が右隣に「ドスンッ」と腰を下ろした、僕は特に反応することもなく静かに絵を見続けていると男も僕と同じ姿勢で絵に視線を向けていた。
「なあ、この絵にはピラミッドと神殿が書かれているが、両方とも頑丈な石灰石でできているよな」
男は目を絵から離さないまま声を抑え気味で顔を僅かに寄せてそう言った。流石に美術館では静かにするというマナーを守っているのかな、それともここがただの美術館でないからか――実際の理由はわからない。
「そうですね」
「俺はこいつを見かけるといつも思うんだよ、たまには神聖な石で人を殴り殺す機会があってもいいんじゃないかってな」
僕は何も言わない。彼の言っていることが理解ができなかった――神聖な石でわざわざ殺す必要があるのかどうか。それとも彼は誰かを殺す時に何かを求める、意味を付加させるタイプの人間なのだろうか……僕には考えられないことだった。人を殺すのに必要なのは適切で精密な行動だけ、そうかつて言われていたし僕もそう考えているから。
男は腿に右手をつきやや猫背になりながらこちらに顔を向ける、その男はヘレナさんの護衛部隊を指揮するニコライだった。
僕は横目でニコライの顔を見るとすぐに目線を絵に戻す、彼の腰3時の位置にある拳銃の黒いグリップが微かにジャケットの下から覗いていたのを確認してから――。
「何か僕に話があるのですかニコライさん」
「珍しく二人だけで会ったからな、少し話をしようかと思っただけだ。一応同僚だろ?」
まるで小馬鹿にするような薄い笑顔で言う、実際僕にはニコライと話す機会が何度かあったけど、ヘレナさんの護衛についてなどすべて仕事絡みで簡素なものだった。
「お前が以前何をやっていて、どんな奴か一応俺も話には聞いている。そういえばメキシコから来たってのにヒスパニックやらには見えないな」
「名前からも分かると思いますが僕は一応ロシア系です、長い間メキシコに住んでいただけですので。もっと前は別の場所にも居たのですけど」
「そうかい……」
彼は若干沈んだ低い声でそう呟いた、彼の雰囲気が変わったことを直感的に感じた僕は隣にまた目を向ける。彼の眼球は上下瞼によって一部が覆われ、もう今までの軽い態度を感じさせない鋭い形の中だけで半月型の黒目を覗かせ、彼の纏う空気やオーラから心の動きや感情の揺らぎが消えていた。僕は彼を怒らせたのだろうか、特に気に障ることは言った記憶はないのだけれど。
「なるほどな……おっと、俺はそろそろ失礼するぜ」
彼は左手首に巻かれた金色の重々しい腕時計を見て立ち上がった。
「最後に一つ。また連合シンジケートの意向にそぐわない活動をしている連中がいるらしい。具体的な詳細もまだわかっていないが、これから仕事が増えるだろうな。だが俺の邪魔だけはするなよ――」
そう言うや否や彼は足早に去っていった。彼の背を追いかけていた視線を降ろし自分の腕時計を見ると、丁度いい具合に時間を潰せたところだった。ゆっくり立ち上がると次々に館内を抜けていき、展示品に模された豪勢な扉を潜って今回は一人でクラシックなエレベーターで地下へと向かった。
「ご注文の品をご用意いたしました、まずはこちらです」
金と黒色を基調としたゴシックな雰囲気を持った広闊な空間に、真鍮製で金色の煌びやかな照明、柔らかい踏み心地の黒い絨毯にぼんやりと最低限の明るさで内部を照らされたガラスケース。その中には世界中の黒や銀、タンカラーなどの色とりどりな銃器が飾られている。
目の前で当該館スタッフであるムッシューが真っ白い手袋を付けた手で、慎重に銃器が展示されたガラスケースの上に長方形の箱を置く。中には白いクッションの上に乗せられた僕のH&KVP9がその黒いボディに指紋の跡すら全く見当たらない綺麗な状態で安置されていた、でも以前とは違い今は太く黒い筒状のサプレッサーが銃口に取り付けられている。
「こちらがご要望の調整を施した物でございます。バレルをRCM製の窒化処理が施されたスチール合金ネジ山付きバレル。サプレッサーはAAC製のTI-RANT9の5.8インチタイプ、8.0インチモデルより10デシベル程静音効果が低下しますが近接戦における取り回しやすさを重視。フロントサイトとリアサイトは通常の物より高さのあるHeinie製タクティカルQWIKサイトに換装し、サプレッサー装備状態の視認性を向上させました」
箱からVP9を取り出して握ってみる。以前の状態だと重量のバランスが銃口でなくグリップ側だったものがサプレッサーを装着したことにより銃口寄りになっていた、それは全体的なビジュアルにおいてのバランスにも真っ黒いサププレッサーが付けば感じられる。軽く構えてみるとフロント、リアサイト各中心に埋め込まれた点の様な銀のトリチウムサイトが見える、明かりが少ない環境下ではサイト自体でなくこの点を使って狙うことになるのだ。
すると今度は50発の9mm弾が詰められた白い箱を取り出しガラスケースの上に乗せた。
「弾薬は9mmのJHP147グレインのサブソニック弾でございます、弾頭の重量が増えたために弾道が乱れやすくなっているので射撃距離に応じてご注意くださいませ」
彼が箱を開くと中には金色の円筒型をした薬莢に先端が窪んだ銅色の弾頭が嵌った9mm弾が並んでいる。僕は対人戦のストッピングパワーを気にするのでなるべく弾頭はJHPにしてた。今回はなるべく音を立てたくない場合に備えて銃をムッシューに用意してもらっていたのは、依頼によって静かに殺す場合も間違いなくあるだろうからだ。
H&K社はVP9タクティカルという初期構成としてネジ山付きバレルを内蔵したモデルもあるのだけど、わざわざ新調する気も起きなかったので今まで使っていたものをカスタマイズすることにした。
「そしてもう一つ――」
今度はまた別の銃が収められた箱とコンシールドキャリー用――ズボン内部に装着するヒップホルスターが置かれた。箱に収められた銃はとても小さく、子供や女性が携帯していて生活の中で邪魔にならないようにと開発されたサブコンパクトサイズの銃。
「Sig Sauer製P290。全長140mm、重量およそ482g。マガジンは標準の6発仕様でなく8発装填可能な拡張マガジンでございます」
VP9を箱に戻して今度はP290を取り出す。とても小さくて構えると僕の手でも覆うようで、全体のデザインは服やカバンに引っ掛からないように、トリガーガードやスライドから角や突起が削られ凹凸は殆どないまるで安物の模型の様な拳銃。グリップの下部からは通常より大きいマガジンバンパーが伸びてグリップ自体を延長した形になっている。弾は今使っているVP9と同じ9mmJHPの115グレイン。
「最後にこちらがPACA製NIJレベル2の防弾チョッキと、Benchmade製SOCPスピアポイントナイフ、CBKプッシュナイフです」
目の前に用意された真っ黒いベスト型のソフトアーマーは、DSA製特殊繊維であるダイニーマで編まれてNIJのレベルが2ということは概ね357マグナムのJHP弾や9mmのFMJ弾に対して有効だ。けれどトラウマプレートが含まれないモデルであるため弾丸が貫通することは無くとも強い着弾の衝撃が体に伝わる危険がある。それでも服の下に着るにはプレートありでは嵩張り過ぎなのだ、特に僕の様な体形では。
また次のクッションに乗せられて取り出されたSCOPスピアポイントナイフ――グリップから刃まで一枚の440Cステンレス鋼から作られており、グリップ部分にはカバーが無くとても薄く作られている携帯が楽なナイフ。グリップの尻の部位には指を嵌めるリングもあるので敵に奪われる心配を無くすと同時に、素早く引き抜けるようにデザインされ。刃は片刃で8cm程の長さ。もちろんできれば僕は使いたくないけど……。
なるべく無音で人を殺害したいときやまた最悪の場合に仕方なく使うつもりだ、たとえ拳銃にサプレッサーを付けて使用したとしてもそれが銃声だと気が付かれない程度の効果しかない、完全に音を消し存在を気が付かれないように銃を不可能。
そして真っ黒く小さいCBKプッシュナイフ――拳で深く抉れた半月型の様なグリップを握って使う全長およそ13cmの小型両刃ナイフ、これもバックアップとして用意してもらった。
僕は手元のスマートフォンを素早く操作しドバイの銀行から支払いを済ませる、ドバイは一部を除いて非課税だから世界中の組織が愛用していた。それだけでなく多くの犯罪行為――武器売買、麻薬取引、人身売買、などなど多くの違法取引の場となっている上、誰であろうとお金を払えば歓迎されるのでカポやボル、犯罪組織の幹部達が療養地としている。だからここでは誰であろうと騒ぎは起こせないそうだ――。
一応僕の受け取る報酬金の殆どがマフィアや犯罪組織の違法なものだけど、支払われるお金は全てアメリカ、イギリス、ドイツなどの大手金融機関を介してマネーロンダリングが施されている。
今回はそこまで安くない買い物だったけど、どれも必要な仕事道具であり明確に存在し間違いなく自分で選んだもの、それにどうせお金を貯める目的も僕にはないのだから……。
「後金を送りました」
ムッシューが直立し背筋を伸ばした姿勢でキーボードとマウスを静かに操作し、PCのモニターを彼は殆ど動かない穏やかな表情で見つめる。
「確認いたしました。ご利用ありがとうございます、そちらの試射と調整はしていかれますか?」
僕は黒く重い少しだけ姿を変えたVP9を手に取りスライドを引くと、後退した状態でストップし空の薬室が晒された。スライドストッパーを親指で押し下げ「バシンッ」という内部のパーツ群が打ち付けられる音が響きスライドが前進した、そしてサイトを見据えての空撃ち。
「そうですね、少しだけレンジを使わせてもらいます――」
――――アルバニア共和国ドゥラス州、州都ドゥラス――――
薄い白さを帯びた青空の下には紺碧のアドリア海が広がり、それら眼前の光景は俺が日々の疲れを癒すに十分なものだった。
リゾート地でもあるドゥラスの中でも有数の豪邸――親父が建てたこの家に備え付けられた何十人もの人が集まれるようなテラス。そこで気の向くままに緑色の芝生に一人立ち、海を眺める俺は振り返る。そこでは裾の長い白いワンピースを着た妻のユリアナが、慎ましく椅子に座って穏やかな表情で二人の子供――追いかけっこをしている4歳の娘アリアナともうすぐ6歳になる息子シュパトを見ている。2人はとても仲が良く、いつも一緒に遊んで喧嘩もしない自慢の子供たちだ。
そしてユリアナとは別に2人の老人たちもその子供たちに視線を向けていた。俺の親父、今はもう真っ白になった髭を垂らし健康的とは言い難い腹の出た太り方をし始めた――ミュルテザ・イストレフィとその古い友人であるアフメド・ハンビエフ。
カルテルとの講和が成立したことにより抗争が終結し、やっと状況が落ち着いたことから俺たちは子供らを連れて、本国で療養していた親父の元に休息と挨拶の為に来ていた。そしてアフメド爺さんも自分達スレイマノフ・ファミリーとの話し合いが、親父のおかげで穏便に済んだことの報告と礼を述べるために来ているのだ。
「本当に今回の件は感謝している、無用な争いを避けられて良かった」
「わかっている、そう何度も言うな。お前がそこまで気にすることじゃない、我々の仲じゃ」
深く頭を下げるアフメドを親父ミュルテザは皺と幾つかの傷に覆われた穏やかな表情で制する、そして遠い目をしながら一瞬だけかつての記憶に思いを馳せているようであった。2人は90年代の動乱の中で共に智と暴力を駆使して生き抜き今の地位にまで上り詰めたのだ。2人の元に歩み寄っていった俺はグラスを手に取って椅子に座る。
「俺もアフメド爺さんには世話になったんだから当然だって」
俺がそう言うとアフメド爺さんは顔を上げて温顔で俺の顔を見た、そして改めて姿勢を正して椅子に座り直す。爺さんは俺がガキの頃から時々相手をしてくれていた親戚みたいな存在であり、家族といってもおかしくないくらいだ。
「あんなガキだったムハレムがこんな立派になるなんてなぁ、今じゃラーズヴァリーヌまで任せられているとは」
「こいつもあの混乱の中でありとあらゆる手を尽くして十分働き、稼ぎという結果をしっかり持ってきたからのう」
何処かのお偉い学者様は時々、マフィアという組織ほど実益を重視し資本主義に則ったモノは無いと言う――そんな俺達が最も評価するのは稼ぎなのだ。それは守銭奴だとかなんだとかという意味ではない、元来マフィアというのが自己と家族とその利益を守る為に結束した組織なのだから。
「紛争終結後のマケドニアで、元KLA(コソボ解放軍)の幹部をどうやってだか知らんがうまく口説き倒し、アレだけの大口武器取引をNLA(民族解放軍)相手にまとめたんだ、こいつも一人前になったということじゃな」
親父はこの年になってやっと見せ始めた優しい表情で俺を見て、そしてその視線を背後にいるユリアナと子供たちにも向ける、この場にある全てがあの時の努力と犠牲による賜物だという事だろうか。
「ワシもそろそろ潮時ということじゃ、だがお前ももう無理が効く歳でもないだろう?」
「何を言う、私はまだまだやれますよ、あなたより頑丈なんでね」
アフメド爺さんは親父と笑い合いながらもそう語る。スレイマノフ・ファミリーは俺達イストレフィとは違う、元は地元のギャングを取りまとめていった家族を基盤としない組織。だから自分の引き継ぎを決めるのも難しく争いが起きやすいからその選択も慎重になる必要があるのだそうだ。アフメド爺さんが隠居できる日はまだ先らしい……。
「「おじいちゃん!」」
不意に笑みを浮かべた子供たちが走り寄って親父の足に飛びつき、揃って顎を腿に乗せて親父を見上げた。すると親父は俺がガキだった頃には絶対に見せなかったような安穏な形相と声で受け入れる。
「はっはっは! 2人とも元気だな。おじいちゃんはうれしいぞ」
「おじいちゃん! またお船に乗りたい!」
息子のシュパトはテラスから見えるアドリア海に浮かぶ船を指さしながら言う、シュパトも男の子らしく乗り物がお気に入りで特に親父が所有する大型の船に乗せてもらうのが好きだ。昔からよく休暇ではその船に乗り家族でクルージングをしていた。
「わたしも! でもお船の上でお茶会もしたいの!」
「もちろんだ! 来週にはまたおじいちゃんのお船に乗せてやるからな! だがお茶とカップにお菓子も忘れるなよ?」
「「うん!」」
娘のアリアナが自分の事も忘れないでと言わんばかりに薄いピンクのワンピースをはためかせながら身を乗り出し、親父に話しかけているその微笑みは眩いものだった。
それにしてもお船だとよ、喋り方まで子供たちの影響を受けてるな……親父も丸くなったということなのかね――。
だが俺達にはまだまだ事後処理やら鬱陶しい発生したての問題がラーズヴァリーヌに残しているんだ、来週の終わりには戻らなきゃならない。
そう暗鬱な思考をすると俺は真っ青な空を仰ぎ見ながら深いため息をつき、グラスの酒を一気に飲み干した。
――とある港――
夕暮れの港、赤く目に染みる夕日が否応なく就業の時間に近づいた作業員に疲労感を与えられているような錯覚を覚えさせる。
そこで大きな貨物船が停泊したものの1人誰の付き添いも無く降り立った、甲板からその人物を見下ろす船長の目に映るのは恐れでも蔑みでもない、安堵一色であった。乗船させた只者でないオーラを漂わせながらも、金払いが良い人間など警戒を怠るわけにはいかないのだから彼の気疲れも相当なものであった。
大きなオリーブグリーン色のドラムバッグを手に下げて静かに立った男。180cm弱の身長に引き締まった筋肉を備え、若干の癖があるとても暗い金髪はベリーショートまで切られてサイドは特に短く、その下には20代の若さがやや残る整った顔。
そして服は明らかに使い込まれたモスグリーンのジャケットに砂で汚れたカーキ色のボトムス、ミリタリーブーツというジャングルなどの秘境から帰って来たような恰好であった。
彼はオーバルタイプの薄黒いサングラスを掛けると何処を見て何を考えているのか分からぬ無表情のまま歩き始めラーズヴァリーヌの街へと消えていった。




