第9話 追伸一行で、なぜ空気が変わる
朝から部屋の温度がおかしい。
窓は閉まっている。炉は燃えている。なのに翻訳官が机の前で止まって、うっすらと肩を縮めていた。
「……どうした」
俺の問いに、翻訳官が振り返らずに答えた。
「文法は、正しいです。敬語も、格式も」
「ならば何が問題だ」
「それが——」
翻訳官は返書を机の隅に押しやり、代わりに新しい一枚を広げた。空白の紙が、白すぎるほど白く光っていた。
「分からないんです、殿下。正しいのに、なぜか部屋が冷えます」
俺は黙って机に近づき、同盟国からの返書を手に取った。語彙は正確だ。敬称も落ちていない。署名の位置も規定通りだ。
それでも手が、わずかに重かった。
紙の端が、丸い。指が何度も触れた跡だ。角の折れ方に、怒りではなく——何か、別のものが滲んでいた。
「下がれ」
翻訳官が書類を抱えて室を出て行く。俺は窓の外を見た。空は曇っている。この季節にしては、当然の曇り方だ。
何もおかしくない。
それなのに、俺の胸の内側だけが、ずっと静かに冷えていた。
午後、伝令詰所から報告が入った。
「……殿下。同盟国より、問い合わせが届いております」
宰相が書状を開いて読み上げる。声に感情はない。内容だけが、するりと部屋の中へ落ちた。
「近頃、書簡の筆致が冷たいが、何か不興があったのか——と」
静かだった。異様なほどに。
不興。あちらはそう書いてきた。それほどに冷えている、ということだ。
「我々の書簡の何が問題だったのか、洗い直せ。敬語か、格式か、文量か」
「…………」
宰相が答えない。珍しいことだった。
「宰相」
「殿下」
宰相がゆっくりと頭を上げる。いつもと変わらない顔つきだ。しかし何かを、口の中で一度転がして、それから飲み込んだ気配があった。
「今回の返書を書いた翻訳官に、非はございません。正確に、格式通りに仕上げております」
「では何が抜けている」
「……申し上げる立場にはございません」
立場にない、という言い方が引っかかった。規則があるのか。それとも別の何かが。
宰相はそれ以上を言わなかった。返書の問い合わせへの対応だけを淡々と提案し、次の案件を広げた。俺はその背中を見ながら、胸の中でずっと繰り返していた。
何が抜けている。
夕刻、若い書記官が廊下で書簡の草稿を抱えてうろうろしているのを見た。足が止まらないのに、前に進んでいない。
「何をしている」
「あ、その——追伸を、と思ったのですが」
ごくりと飲み込む音が聞こえた。書記官が草稿を後ろに隠す。
「追伸」
「はい。その、同盟国の方への返書に、一行だけ付け加えれば温度が出るのではないかと……」
書記官が固まった。固まったまま、懐から取り出したのが、検閲用の色の封蝋だった。自分でも気づいていなかったのか、手の中にあるものを見て、青い顔で固まった。
執務室の扉近くに立っていた翻訳官がそれを見て、一歩引いた。宰相が廊下の端から無言で視線だけを飛ばした。部屋の中の空気が、一瞬で氷になった。
俺は何も言わなかった。書記官が封蝋を懐に戻す音だけが、廊下に落ちた。
夜、机の前に一人で座った。
翻訳官はもう上がっている。宰相も下がった。灯りが一本だけ揺れている。
紙を一枚取り出して、筆を持った。
返書の草稿は昼に仕上がっている。正確で、格式が整っていて、署名の位置も間違いない。
余白が、あった。
文末の下に、少しだけ。
俺はそこに何かを書こうとして、手が止まった。
何を書けばいい。
季節、か。窓の外の空の色か。秋の終わりに差しかかった今頃の、朝の冷え方か。だが俺はここ何日、窓を開けたか。開ける暇があったか。何の季節の匂いを嗅いだか。
何も、ない。
書けるものが、一つもない。
「一行でいい」
声に出したつもりはなかった。でも声が出ていた。灯りが揺れて、また静かになった。
「たった一行を、誰も書けないのか」
俺は筆を止めた。
止めたまま、ずっと余白を見ていた。
紙が白かった。季節も、温度も、書く言葉も、全部抜けたまま、余白だけが残った。
誰かが、ここに書いていたはずだ。毎回。律儀に、規則の端ぎりぎりで、外交に温度を混ぜていた誰かが。
あの追伸が、相手国の心証を滑らかにしていたのか。
あの一行が、外交感情を——外交感情を、か。
怒っているんじゃない。翻訳官の声が蘇った。怯えてる、と言っていた。同盟国が怯えている。冷たいのではなく、怯えている。
なぜ。なぜ怯える。こちらが不興なのか、と問い合わせが来るほど、あちらは不安になっている。
不安にさせたのは、俺たちだ。
温度が、消えたから。
書けなくなったわけではない。もとから書ける人間が、いなくなった。
俺は紙の余白から目を離した。筆先が乾いていた。一文字も書かないままで、乾いていた。
明日、宰相を呼ばなければならない。問い合わせへの回答期限が、もう3日後に迫っている。
ただ。
その前に、俺は何か一つだけ分かってしまった気がした。
「余計だ」と思っていたものが、毎回、この国の外交の隙間を埋めていた。俺が規則だと思っていた冷たさが、外交ではなく俺自身の言葉の無さだったかもしれないと、灯り一本の執務室で、そっと、取り返しのつかない感じがした。
明朝、宰相が何かを言うだろう。
静かな声で。俺の逃げ道を、丁寧に、1本ずつ塞ぎながら。
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