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「連載版」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第1章 『たかが』の翌日、国が止まる

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第6話  走らなくていいのに、止まれない

 扉を開けた瞬間、6年ぶりの匂いがした。


 蜜蝋と干し草と、窓から来る畑の土。王宮の廊下に染み付いた封蝋の香りとは違う、ただの家の匂い。なのに私の足は、廊下の先にある階段より先に、右手の部屋の向きを自動で測っていた。


 あの角に机が置ける。採光は南向きで申し分ない。文書棚は2本。


「フィリーネお嬢様、お荷物を——」


「ありがとう、置いておいてください」


 声だけ返して、鍵付きの書簡箱を自分の腕から離さなかった。使用人の視線が一瞬だけ箱の取っ手に落ちたのがわかったが、説明はしなかった。説明できる言葉が、まだ揃っていなかった。


 自室へ向かいながら、廊下の石畳を数えた。12歩で角。左へ7歩。子供の頃から変わらない。変わっているのは、私が急いでいないのに足の速度だけが上がっていることだった。


 止まる理由がないのに、止まり方を忘れていた。




 荷解きは30分もかからなかった。


 6年間、王宮の執務室に置いてきたものは書簡箱と万年筆くらいで、あとは戻ってきた。着替えは少ない。本は辞典を1冊だけ。宮廷服は仕舞い込む。私物と呼べるものの少なさが、居室の棚の余白に等分に広がって、かえって目立った。


 机の前に椅子を引いて、座った。


 理由はなかった。座りたかったわけでも、何かを書こうとしていたわけでも。ただ机の前の椅子に座るのが当たり前で、立ち続けているほうがむしろ異様に感じた。


 引き出しを開けた。空だった。


 当然だ。ここは王宮ではない。誰の返信も来ない。期限は存在しない。抗議文の山も、赤い却下印の束も、暗号を待つ外交官もいない。


 それがわかっているのに、右手が机の端に置いてあった紙に伸びた。


 無意識だった。気づいたときには万年筆を持っていた。インクが残っているかどうか確かめるように先端を光に向けて——


 書きかけた。


 追伸——


 2文字書いたところで、手が止まった。


 止めた、ではない。止まった、だ。頭より先に指が動いて、頭より先に指が止まった。書きかけた2文字を眺めて、私はしばらく息ができなかった。


 消した。丁寧に、何度も。紙ごと折りたたんで、引き出しの中に押し込んだ。


 6年間、追伸を書くことが義務だったわけではない。誰にも命じられていなかった。でも毎回、本文の末尾に余白を作るのが癖になっていた。相手国の外交官が好む比喩。前回の返信で気になった一文字。そういう小さな言葉を、一番最後に足していた。


 本文は義務で、追伸は——何だったのだろう。


 自分に問いかけて、答えが出なかった。




 夕刻、使用人のマルタが湯を持ってきた。


「空気が乾きやすい季節ですし、窓を開けましょうか」


 窓、という単語が耳に引っかかった。


 伯爵家の自室の窓は南向きで、夕方には対面の森が金色に染まるはずだ。子供の頃は飽きるまで眺めていた。春の終わりには鳥が巣をかける木が決まっていて、どの枝に選ぶかを父に報告するのが習慣だった。


「……今日の空は何色ですか」


 気づいたら、そう言っていた。


 マルタが少し間を置いた。不審に思ったわけではないと思う。ただ予想外の質問だったのだろう。


「橙色です。雲が少なくて、きれいな夕焼けですよ」


「そうですか」


 窓を向かなかった。向く、という動作が思い出せなかった。


 王宮の執務室の窓は北向きで、直射日光が差さない代わりに夕焼けも見えなかった。見ようとしたことも、6年間で一度もなかった。空の色を聞いたのは、いつ以来だろう。聞かれた時間に空を見ていたのは6年前の私で、今の私は空の色の聞き方だけ覚えていた。


 マルタが窓を少し開けて出て行った。


 橙色の光が床に斜めに落ちた。私はその光の端を靴の先で踏んで、踏んだことに意味はないと確かめてから、足を引いた。




 食事を終えて自室に戻ったとき、机の上に買い物の書き付けが置いてあった。明日のための覚書で、マルタが頼んでいたものだった。


 確認しながら末尾まで読んで、万年筆を取って……


 追伸——


 3文字書いて、今度は声を出して止まった。


 声というより、息だった。喉の奥から漏れた短い音。羞恥でも困惑でもなく、ただ真剣に、自分の手の動きが怖かった。書き付けの末尾に追伸を書いて、何を足そうとしていたのか。伯爵家の買い物帳に追伸は要らない。相手がいない。読む外交官がいない。


 線を引いた。3本。


 窓の外から風が来た。橙は消えて、薄い藍色になっていた。夕焼けが見えたはずの時間を、食事で使ってしまっていた。


 明日は見よう、と思った。


 思って、考えた。明日、私は何をするのか。返信の期限はない。書く相手もない。机に向かう義務もない。


 戻りたいんじゃない、と心の中で言った。


 戻るのが、怖い。


 6年間の癖が指に残っている。追伸が、何かを待っている。机の前に座ると、どこかの締切を探している。それが習慣なのか、それとも私がそういう人間なのか、自室の静かさの中では判別がつかなかった。




 夜半近く、屋敷の廊下を使用人が小走りに行き来する音が聞こえた。


 外の馬の蹄の音。続いて低い男の声。急ぎの文書を持ってきたのか、夜間に使者が来ることは王宮絡みの場合だけあった。


 私には関係ない、と思った。


 思いながら、耳が廊下の声を追っていた。


 父の執務室に入る扉音。書記が応じる短い返答。それから、静寂。


 静寂が長かった。


 扉が開いた音がして、使者の足音が玄関へ戻った。廊下を父の足音が近づいて来て、私の部屋の前で止まった。


「フィリーネ」


 扉越しに、父の声がした。普段より少し低かった。


「王宮から文書が届いた。……内容を聞くか」


 机の上の書き付けに視線が落ちた。追伸の上に引いた3本の線が、灯りに白く光っていた。


「書簡箱を、名指しで」


 父が一呼吸置いた。


「返還を求めている」


読んでいただき、ありがとうございます。


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