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「連載版」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第2章 締切が割れる執務室

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第10話  静かな断言が、矛先を変える

 朝の会議は、声が大きい者から黙る。


 そういう場だと、ずっと思っていた。


 宰相が束を置いた音は、鐘でも怒号でもなかった。ただの紙の重さが机に触れただけだ。それなのに部屋の全員が、首を縮めた。


 俺も、縮めていた。


「殿下」


 呼ばれて顔を上げる。宰相の目は、怒っていない。それが、いちばん悪い。怒りには返しようがある。静けさには何もない。


「本日の議題を確認いたします。ヴァイス侯国からの正式問い合わせ、追加翻訳の遅延、および追伸不在による同盟国感情の悪化。3点です」


「分かっている」


「では、現状の報告からよろしいでしょうか」


 会計官が咳払いをした。書類を揃える音だけが妙に響く。翻訳官たちは机の木目を見ている。誰も、俺を見ない。


 昨日から、そうだった。


 昨日――いや、もっと前からか。彼女が机を空けてから、部屋の空気が変わった。何かが足りないのに、その「何か」を言葉にできない人間が、静かに集まっている。


「翻訳の遅延について申し上げます」


 会計官が口を開いた。指先が乾いていて、書類の端を爪で弾く癖がある。赤い印を押す動きだけが、この男の中でいちばん速い。


「人員は揃っております。しかし、作業速度が落ちています。辞典類の一部が欠品しており、代替手順を踏むために……」


「欠品の理由は?」


 俺が聞いた。聞かなければよかったと、3秒後に思った。


 宰相が動かなかった。動かないまま、答えた。


「申請が却下されたためです」


「……却下?」


「5年分の、申請です」


 その言葉と同時に、机の上に束が広がった。宰相が静かに広げた、赤い印だらけの紙の束。一番上の紙に、年号が見える。5年前の日付。次の紙も。その次も。順番に積んできた、赤だ。


 誰も反論しなかった。


 俺も、できなかった。


 「代わりを」と言いかけた言葉が、喉のあたりで止まる。昨日も同じ場所で詰まった。「代わりを探せ」と言う前に、「代わりがいない」という事実が先に来る。これは、今日で何度目だ。


「規定、です」


 会計官が言った。目が逸れている。机の角を見ている。赤い印を押した人間の声は、こんなにも細い。


 「規定」という言葉が、壁に吸い込まれた。


「赤い印は、節約ではありません」


 宰相が言った。静かに。怒鳴らずに。それが、刺さる。


「遅延の原因です」


 会計官の指が、止まった。俺の手も、止まっていた。気づかなかった。


 翻訳官の一人が、「では辞典の手配を……」と小さく言いかけた。宰相が首を振る。


「今期の予算では間に合いません」


「では次期の……」


「次の抗議は、今週中に届きます」


 部屋が、また黙った。


 俺は窓の外を見た。曇っている。昨日も曇っていた。その前も、曇っていたか。追伸に何を書いていたのか、知らない。書いていたことを、知らなかった。


「殿下」


 宰相が呼んだ。今度は、前と声の質が違う。


「国が困っているのではありません」


 振り向いた。


「殿下が誰を捨てたかが、露呈しているのです」


 静かだった。部屋の全員が息を止めた、と思う。俺も止めた。止めたまま、宰相の顔を見た。宰相の目は変わらない。怒っていない。事実を言っている顔だ。それだけだ。


 それだけなのに、床が傾いた気がした。


 昨日まで、「国が困っている」と思っていた。外交が止まった、翻訳が遅れた、同盟国が冷えた。俺のせいではなく、仕組みが悪い、人員が足りない、予算が薄い。どこかにそう思っていた。


 今、宰相の言葉が、その「どこか」を潰した。


 困っているのは国ではない。俺が、捨てた。その事実が、机の上の束と同じ重さで、部屋に置かれた。


 会計官が咳払いをした。場を持たせようとして、手元の書類に印を押した。


 一拍の沈黙。


 隣の翻訳官が、ひどく小さな声で言った。


「……それ、別の書類です」


 会計官の手が止まった。赤い印の付いた書類が、机の端で滑る。誰も笑わなかった。笑えなかった。ただ、全員がその紙を1秒だけ見て、それから目を逸らした。


 会計官が「規定……」と言いかけて、やめた。


 俺は、束の年号から目が離せなかった。5年。5年分の却下。その5年間、彼女は何をしていたか。辞典が欠品したまま、手順を探しながら、俺の名前で外交文書を仕上げ続けた。


「殿下名義で整えておけ」


 誰かが言った言葉だ。口癖のように言った。俺が言ったのか。宰相が聞こえたふりをしなかっただけで、俺が言い続けていたのか。


 宰相は続けた。


「責任の所在を確認します。暗号辞典の欠品は申請の却下から。却下の決裁は会計部門。承認条件の策定は宰相室。そして申請の優先度設定は……」


 誰も言わなかった。


「殿下が、ご担当です」


 そうか、と思った。怒りは来なかった。ただ、そうか、という感触だけが残った。5年前、俺は何を考えていたか。「たかが辞典」と思っていなかったか。「代わりはある」と思っていなかったか。


 窓の外が、少し明るくなった気がした。雲が薄くなったのかもしれない。


 机の上の束は、動かない。


「殿下」


 宰相がもう一度呼んだ。


「次の問い合わせへの返答を、どうなさいますか」


 返答。


 担当者の名前を書く欄がある。いつも、俺の名前を書いていた。彼女が草案を作って、俺が署名した。それが「殿下の外交」だと思っていた。


 今、担当者欄が空白のままだ。


 俺はペンを取った。取って、止まった。


 明日、彼女の机に行こうと思った。昨日も思った。その前も思った。謝りたかった。謝れば、何かが戻るかどうか分からないが、謝りたかった。


 名前を呼ぶことができるなら。


読んでいただき、ありがとうございます。


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