後編
「……うそ」
呆然としたままの彩子を混乱させないように、卓也は近づかずに肩を竦めるだけにした。
「俺の話聞いてた? 俺にとっちゃ彩子さんは超優良物件だよ?」
「嘘。先月まで彼女がいたじゃない」
彩子の表情は動かない。
「その子には最初から結婚は考えられないって言ってあった」
「ひどい男。それにシスコンだって言った!」
彼女たちとはお互いにそれなりな付き合いだったが、それでも姉より心惹かれることを望んだ。
「シスコンは否定しない。だからって姉ちゃんと結婚したいとは思わないとも言ったよ」
ザァ、と木の枝が揺れた。
彩子の唇がわなわなと揺れた。
「何で私? 里美の友だちで卓也くんも知ってる独身は他にもいるよ?」
知ってる。だけど。
「姉ちゃんの『親友』は彩子さんだけだ。そして彩子さんがまだ一人のままなのは、姉ちゃんのせいなんだろう?」
彩子の左目からすぅと涙がこぼれた。何にも引っ掛からずに顎からポタリと落ちる。小さく、ちがう、と聞こえた。
「二人は仲が良かった。俺が嫉妬するくらいだったし、本当はできてるんじゃないかと思った事もある」
彩子の顔色は変わらなかった。卓也はこの読みが外れた事に内心ほっとする。
そよりと風が吹いた。
「だけど、彩子さんは姉ちゃんの恋をずっと応援し続けた。姉ちゃんが本気で諦めた時はどっちが失恋したのか分からないくらいに二人で泣いてた」
やめて、と少し声が大きくなった。
「姉ちゃんは就職、彩子さんは大学で、それでもこれから、これからもずっと一緒にいるんだろうって、俺だって思ってた」
「やめて」
真っ直ぐな視線は卓也を見てる。左目の涙はまだ止まらない。
「彩子さん、枯れたなんて嘘だろ? 姉ちゃんのもうできない事をしないでいるだけだろ?」
ザァッと風が吹いた。砂ぼこりが二人の間を通った。
「やめて!」
彩子の右目からも涙が出た。
「言わないで! 馬鹿な事だってわかってる! 私だってわかってる! ……だけど!何をするにも!考えちゃうのよ! 里美はもうできないって事を!考えちゃうの!」
泣かせたことに、卓也は安心した。この十年の間いつだって彩子は会った時には笑っていたから。それが作り笑いだと気づいたのはいつだったか。
「旅行も!買い物も!仕事も!好きな人と付き合うことも!その恋人との時間も!結婚して!新しい家族が増えていくことも!歳をとってお婆ちゃんになることも!」
彩子の顔が歪んでいく。でももう、卓也には子どもの癇癪のようにしか見えない。
「……私がそれらをしないことで、供養にもならないこともわかってる……でも……それが、できないの……私、親友なのに……里美に、何も、できない……どうしたらいいのか、もう、私が、わからない……」
とうとう彩子は両手で顔をおおった。
十年前の葬儀中には泣かなかった彩子が、今、卓也の前で泣いている。
真っ赤な目で、手を握りしめ、姿勢良くいた彩子。
卓也はその日、兄でもなく姉でもなく、彩子に倣った。
卓也はゆっくりと近づく。
「彩子さんがそんな風にいることを、姉ちゃんは望まない」
彩子が逃げないので、おそるおそると肩に手を置いた。女の体が思うより大きくないことを知っていたが、予想してたよりも彩子が小さいことに少し驚く。
こんなに小さいひとを放っておいてしまったのかと申し訳なく思う。自分とほぼ同じ傷を負ったひと。
「って、俺も気づくのが遅かったけどね」
彩子のつむじを見ながら、震えるその体をそおっと両手で包む。彩子はされるままだ。
小さくてもあたたかい。彩子を抱きしめて、何かが満たされた気がした。
「彩子さん、俺を可哀想と思うなら死ぬまで構ってよ。そんで、俺にも彩子さんを構わせて」
声を出さずに泣く彩子を少し強く抱きしめる。傷の舐め合いだろうと、大人になったからにはまずは立っていなければいけない。
そして、一生舐め合うのなら、彩子がいい。
「……兎か」
ぼそりと聞こえた涙声が可愛くて、卓也は思わずふきだしてしまった。拒否じゃない事には大きくほっとした。
「ははっ、兎より嵩張るけどね。ダメ?」
「言葉が通じるから兎より楽」
また少し、腕に力を入れる。
「うん。俺きっと彩子さんにとって誰より楽な男だよ」
「……楽…………卓也くんは、それでいいの?」
スーツを掴まれた感覚。返ってきた。
「俺が彩子さんといたいんだよ。……ねぇ……俺と一緒にいてよ……」
願うような声音になってしまった。
大好きだった姉を誰よりも知ってる他人。
卓也にとって、誰よりも自分に近いところに抱き込める他人。
あなたがいないと倒れてしまう。
卓也のようやく見つけた泣き所。
彩子の体から少しだけ力が抜け、卓也に寄りかかってきた。卓也の頬がゆるんだ。
「……なんで、ここで?」
墓地でのプロポーズなど想定外だろう。しかも付き合ってもいない相手だ。卓也だって実は悩んだ。
「街中で彩子さんの姿を見つけても彩子さんは俺に気づかないし、逆もそうだ。墓参りだってすれ違ってなかなか会えなかった」
なかなか情けない言い訳だ。だが、街中で連れのいる状態で声をかけるのは、わりと悩むところ。
自分はともかく、彩子が一人で歩いてる時は安心していた。
それを薄情と、卓也は長い間勘違いをしていた。
「だけど今日会えたら、姉ちゃんが応援してくれてると思うことにした」
卓也の背中に彩子の手が回った。
「墓地でプロポーズの最高の言い訳ね」
「サプライズだなんだって俺らには今さらじゃない? それに、姉ちゃんは生きてたって最強の仲人になると思う」
「ブッ!……ふふっ、確かに」
お互いに、相手が離れてしまわないようにと、力が入った。
あ、と、彩子が眼鏡をしていた事を思い出す。
「ごめん彩子さん、眼鏡大丈夫?」
「ああ、なんか痛いと思ったら眼鏡か」
誰かに抱きしめられるなんて久しぶり過ぎて忘れてたわ、とぼやく彩子の頭頂にキスをする。
「……早い……」
「大人だし?さくさく進めないと彩子さん逃げそうだし?」
久しぶり過ぎて、に反応したと思われたくなくて卓也は誤魔化す。自分だって何人かと付き合ったくせにと思うが、こんなに独占欲を感じたことはなかった。
「に、逃げないけど! ……先に死なないでよ?」
小さく言われたそれは確実には約束できない。
けれどそれは、お互いに切実に願うこと。彩子の手が震えたのがわかった。
「……うん。五十年一緒にいてくれたら約束する」
「なっが! 五十年後に果たされる約束! 小学生のタイムカプセルより長い!」
おどける口調に昔が重なる。姉がいた頃。
「彩子さん、しわくちゃのババアになってもそばにいてね?」
「言い方! 私がしわくちゃなら卓也くんはヨボヨボのじじぃだからね!」
打てば響く。そんなやり取り。
「俺の方が五歳若い」
「五十年後じゃ差にもならないわ!」
「そのくらい俺を構ってね」
ビシッと固まる彩子。甘えられることに慣れていない感じが、いまだに抱きしめたままなのにそうなる彩子が、年上だろうとも可愛い。
「今日……こんな事になるなんて全然想定してなかったわ……」
頬を赤らめてごにょごにょと言う姿にも卓也はニマニマとしてしまう。
「想定外ついでにご両親に挨拶に行きたいんだけど?」
「まじで!? ちょ、ちょっと待ってよ!?」
驚きで離れようとする彩子を逃がさない。
「じゃあ先に俺ん家に来る? ついでに仏壇にも線香あげてって」
「待ってって! それついでじゃ駄目なやつ! っていうか私の心の準備を!」
「要らないよ準備なんて。彩子さんを連れ帰れたら結婚するからって言ってあるから」
「根回し早くないっ!?」
「そこは諦めて。おかげで仕事にも結果を出せてるよ」
騒ぐわりに本気で逃げようとはしない彩子に、卓也は若干楽しくなってきた。
姉の里美が生きていた頃、三人でこうしてにぎやかにしていた。
この空気が、とてもいとおしい。
二人だけれど、一人ではない。
「お慈悲を~!」
卓也は彩子の言いようについ噴いてしまった。しかし焦った彩子はまったく気にしていない。少し意地悪をしすぎたか。
「じゃあ彩子さんの心の準備時間として、今から報告しに墓参りしよう?」
「それでも短いってば!」
騒ぐ二人の背を押すように風が吹く。
卓也は彩子の手を取り、また、今度は二人で歩き出した。
お読みいただきまして、ありがとうございました。