28 一郎
一郎が公邸に戻ると、左右に立っていた使用人たちが一斉に腰を折る。正面にいる妻だけが、まっすぐに一郎の顔を見ていた。
「おかえりなさい」
「あぁ」
一郎は妻の視線と声を押しのけて、大股でその脇を通り過ぎる。妻は体の向きを変え、夫が廊下の角を曲がるまで静かに背中を見つめている。妻----桔梗はそういう女だ。
執務室に入ってすぐに鍵をかける。上着を脱ぎ捨てネクタイをほどく。机に目を遣ると、ひとつ木箱が置かれていた。中のものは、さらに布に包まれている。----包の布の色は黒。前後の面には一つずつ、銀色の円。
(やはりか…………)
今日で和真は八つになった。これを届けにきた人物が、今日を選んだのはある意味自然だ。
数週間前、秘書が王宮府職員から面会依頼の話をしていた。当然許可しなかったが、面会の理由と思われるものはどうあっても届けられたのだ。外の木箱にのみ、人の呼吸の跡が残っている。
(箱は誰も開けとらんか……。呼吸の跡はふたり……持ってきた雪さんと………….)
人は常に呼吸している。鼻や口から空気を吸って吐くことはもちろん、皮膚も呼吸しているし、言葉や思いも呼吸している。特に言葉や思いの呼吸は、目に見えず聞こえもしない。しかし、空気を通して、人や物に呼吸の跡はしばらく残る。発した者の思いがつよい場合、ついた跡はなかなか消えない。----空気を通して、人や物に残った呼吸の跡を感じ獲る。勘のいい人間なら少しはできるが、呼吸の跡を覚えて、その呼吸の主を捜し出すというところまではなかなかできない。今それができる人間は、この国におそらく二人だけ。一郎のそれは、神のために、精霊から与えられた役目によるもの。便利だが、ほしい情報と引き換えに、目を背けたい現実をこれでもかと突きつけてくる。
(そんなに想わないでくれよ。…………お前から大切なものを奪ったおれを、どうしてまだそんなにも想うんだよ…………)
視線と声は常に透き通った水面のようだ。あの日が来るとわかった時から、桔梗は変わることなくそばに在る。だが、時が経つにつれ彼女の呼吸の跡は長く残るようになってきた。----それも、我が子でも姉妃でもなく、自分に対して。一郎は椅子に座って深く息を吐き、目を固く閉じた。
両王と首相の会食が明後日。日の御子----和真がどんな突拍子もないことを言ったとしても、月の宮----春和が”はい”と”ありがとう”しか口にしなくとも、瀬津にどれだけ失望されても、この会食の時間だけは毎週必ず確保してきた。子どもらからどれだけ会いたくないと思われていても、あの子らの生きているのを見られれば、それだけでよい。一郎が、確実かつ正当に子どもたちに会える唯一の手段はこの会食だ。たとえ一方的に話すだけだったとしても、どれだけ場がしらけても、この三年十か月、この会食は一郎にとってかけがえのない時間だった。--------しかし今回に限っては気が重い。
ここにこの包があるということは、すでに両王も同じものを受け取っているということだ。包の布が示す布の中身は、史部による『暁宵照輝録』。あの日の真実が書かれているかもしれない唯一の記録。
(和真はまぁ読めんだろうが、春和はおそらく読みきるだろうなぁ…………。瀬津は…………さぁどう出てくるか)
史部である雪さんが、あの日のことをどこまで書いているのかは読んでみなければわからないが、神や統石の状態を記す史部の『照輝』に書かれていないはずはない。----無論、あの日に至るすべての経緯も、瀬津のことも。
春和は史部の『照輝』を読んで何を思うか。
----もしかしたら瀬津のことまで、すべて知ってしまうかもしれない。
いや、すでに知っている可能性もある。
瀬津がどこまでこちらの隠し事に気づいているかも、正直なところわからない。
春和が生まれたその日から、王家との私的な接触は一切断った。あくまで政治家という立場でしか会っていない。首相が司部だということは、瀬津が話していなければ、和真も春和も知らないはずだ。しかしこの『照輝』を読んだあとの子どもらが、今まで気づいていなかったことにまで気づく可能性は十分にある。明後日も普段と変わらぬ態度であの子らに会わなければと思うだけでおそろしい。
「会う前に読み切っておかないとなぁ」
秘書や王宮府職員も同席する会食の場で、両王に『照輝』の話をすることはない。
しかし一郎としては、あの日までをともに見てきた雪さんの書いたものを読み、春和や瀬津が感じたであろうことを想ってからでないと、あの子たちには会えなかった。
床に脱ぎ捨てていた上着を着なおし、上着から手帳をとり出す。明日も議会や視察、面会の予定が詰まっていた。
手帳の表紙の裏から、隠してある写真を取り出す。
「こりゃ徹夜だな」
一郎は写真に向かって苦し紛れの笑みを浮かべ、写真を元のように手帳にしまい、手帳をズボンのポケットに入れた。
椅子を引き、机の引き出しから紐のついたライトを出す。スイッチを入れ、ハチマキのように頭に巻いた。机の下の床板を外し、机に置かれていた木箱を床に置いて、床下の階段を数段下りる。床に置いた木箱を持って、慎重に一番下まで下って行った。
「あぁ、たまらん」
一番下まで下りきって木箱を置き、ぼやく。年を重ねるにつれ、この通路の往復も堪えるようになってきた。
「歴代首相ってみんな今のおれよりおっさんになってからやってんだろ? いくら人が勝手するからって、神もカミももっと老体労われよな。こんなだから誰も使わなかったんだよ」
ここは、両宮城と首相公邸を最短距離でつなぐ”蔭の道”のひとつ。その存在を知る者は、ごく限られた王宮関係者と歴代の首相のみ。これは首相用の”蔭の道”なので、首相以外は誰も使わない。というよりも、とんでもなくひどい足場なので、歴代首相も誰も使ってこなかったというのが現実だ。誰にも聞かれることはないので、好きなだけ文句を垂れる。文句を垂れながら、野党からの追及への言い逃れを考えたり、翌日会談予定の外交相手の顔を思い出したり。時に、懐かしい日々を思い出したり、桔梗やあの子どもらのことを考えたりして宮城へ向かう。しかし、今日はどちらの宮城にも向かわない。絶対に誰も来ないこの場所で、朝が来るまでこれを読むのだ。
着てきた上着を脱ぎ、ざっと丸めて座布団にする。胡坐をかき、木箱から包を取り出し布を広げたところで気がついた。--------人の呼吸だ。
「おいおい、勘弁してくれよ」
一郎は、右手を頭に当て笑う。
刹那、どうやって相手と向き合おうか迷った。
(ばれたもんは、まぁ、仕方ないな)
一郎は胡坐をかいたまま膝に頬杖をつき、ひとまず本に目を落とす。距離をとって立ち止まった相手が動き始めるのを待った。




