プロローグ 鋼狼
折れた槍が、荷車の車輪に引っかかっていた。
道の端では、傭兵の男がうつ伏せに倒れている。逃げようとしたのか、指先だけが森へ伸びていた。割れた盾、血を吸った外套、荷台を守ろうとして斬られた者たち。
生きた声は、もう残っていない。
雨上がりの土はぬるく、血の匂いだけが濃かった。ヴァルド・アイゼンは剣先の血を払う。手首に重さは残らない。残らないことが、少しだけ嫌だった。
「契約は完了した」
鋼狼傭兵団の団員たちは、返事より先に動いた。
誰も騒がない。剣についた血を拭き、使えそうな武器を回収し、荷車の積み荷を確かめる。勝った後に声を荒らす者は、鋼狼には要らない。
「必要以上に追うな。死体を荒らすな。武器だけ回収しろ」
「つまんねぇな。もう終わりかよ!」
赤茶の髪を短く切った女剣士が、血のついた剣を肩に担いだ。
リゼ・ガルハルト。
鋼狼に入ったばかりの新人で、口は悪い。だが、剣だけは新人のものではない。今も頬に跳ねた血を拭きもせず、倒れた傭兵たちを見下ろしている。
「逃げるのも下手! 守るのも下手! 斬っても面白くねぇ!」
「面白さで仕事を選ぶな」
ヴァルドの声は短い。
リゼは舌打ちした。だが、それ以上は言わない。荒いが、命令の重さを知らないほど浅くはない。
その横で、黒縁眼鏡の男が倒れた傭兵たちを見下ろしていた。
オルド・ザイツ。
細身で、外套の裾も靴先もほとんど汚れていない。血の匂いが残る街道に立っているのに、書庫から出てきた顔をしている。
「退路を一つしか持たない。盾役を前に置いただけで安心する。指揮役が倒れた瞬間、全員が逃げ方を失う。……傭兵団を名乗るには、少し雑ですね」
リゼは鼻を鳴らした。
「死んだ奴にまで嫌味かよ。ほんと性格悪ぃな、お前」
「よく言われます。ですが、死んだ後なら傷つかないでしょう」
「そういうとこだよ!」
オルドはもう死体を見ていなかった。懐から折り畳んだ地図を取り出し、血のついていない指先で紙面を押さえる。
ヴァルドはその指を見た。
泥も血もついていない指だ。剣を振らずに人を殺す者の指。必要な男だと分かっていても、喉の奥に苦いものが残る。
地図には、王都北街道、宿場町、古い石橋、森沿いの細い道が記されている。その端に、小さな黒い羊の印があった。
リゼの目に色が戻る。
「次はそいつか?」
「ええ。黒羊傭兵団。王宮の騒ぎから戻ってくる、評判最悪の傭兵団です」
オルドは黒羊の印を指先で軽く叩いた。死体を見た時より、声が少し弾んでいる。
「普通の傭兵団なら、今ので終わります。ですが、あそこは終わらない」
「強いのか?」
「強いですよ。団長は王国でも指折りの女剣士。正面からぶつかれば、こちらの前衛が食われます。弓手は三射を同時に置ける。大盾の男は、正面から押せばこちらが折れる。軍医も厄介です。負傷者を死なせない部隊は、思ったより崩れにくい」
「いいじゃねぇか!」
リゼの口元が上がる。
「ええ。だから、まともには戦いません」
リゼの笑みが止まった。
オルドは地図の上へ鋼色の駒を置いていく。黒羊の進路、その左右、退路、荷車が通るだろう狭い曲がり。駒が増えるたび、道が罠へ変わっていく。
「強者を倒そうとするから失敗するんです。強者には、仕事をさせなければいい」
ヴァルドが地図を見下ろした。
「黒羊を潰す契約か?」
「いいえ。依頼主はそこまで言っていません。王宮に近づきすぎた傭兵団へ、身の程を教えろ、と」
「回りくどいな」
リゼが吐き捨てる。
オルドは薄く笑った。
「王宮絡みは、だいたい言葉が腐っています。ですから、分かりやすく処理します」
オルドは一つ目の駒を動かした。
「黒羊団長セリア・ヴァンレット。彼女は倒しません。倒そうとすれば損害が増えるだけです。リゼ、あなたが引き受けなさい」
「なあ、眼鏡。そいつは、俺が好きに斬っていいんだよな?」
「オルドです。もちろんダメです。あなたの剣は鋭いが、余計なものまで斬る」
「気に入らねぇな」
「知っています。だから、あなたにはちょうどいい役を用意しました」
リゼの目つきが変わった。
「銀髪の化け物か?」
「黒羊団長セリア・ヴァンレット。正面から勝とうとすれば、あなたでも腕を持っていかれます」
「勝っていいのか?」
「勝たなくていい。離してください」
リゼの肩から、剣が少し下がる。
「つまんねぇ命令だな。強ぇ奴と当たるなら、斬り合って勝つ方が早いだろ」
「生きて戻るための命令だ」
そこで口を挟んだのはヴァルドだった。
リゼは舌打ちだけで済ませた。
「分かったよ。噛みつくだけ噛みついてやる。ただし、向こうが勝手に死にに来たら知らねぇぞ」
「噛みつきすぎるな」
「それは保証しねぇ」
オルドは二つ目の駒を置く。リゼの荒さも計算に入っている手つきだった。
「弓手は射線を奪う。撃ち合う必要はありません。移動先へ先に矢を置けばいい。大盾は突破しない。守るものを増やして疲れさせます。軍医は殺しません。殺せば黒羊は怒りでまとまりますからね。負傷者を増やし、手を塞ぐ」
リゼが顔をしかめる。
「お前、ほんと嫌な戦い方するな!」
「最高の褒め言葉ですね」
オルドは最後の駒を、黒羊の印の中央へ置いた。
「そして副団長レオ・グレイン」
ヴァルドの指が、剣の柄に一度触れた。
その名は知っている。王国騎士団を去り、黒羊へ流れた男。王宮の騒ぎでまた名が浮いた元騎士。
「黒羊は横のつながりが強い。個々も強い。ですが、全体の判断が彼に寄りすぎている。なら、彼に考えさせ続ければいい」
オルドの声は穏やかだった。穏やかだから、余計に冷たい。
「荷車、負傷者、退路。そこへ同時に圧をかける。さらに彼自身へ三人当てます。殺す必要はありません。剣を振らせ、周囲を見させ、指示を出させ、迷わせる」
「副団長を壊すのか?」
リゼが言うと、オルドは首を横に振った。
「いいえ。壊しません。壊れそうな音を、周りに聞かせるんです」
夕暮れの風が、荷車の板を鳴らした。
ヴァルドは地図の上の黒羊を見ていた。胸の奥が重くなる。勝つための策だ。だが、嫌な策でもある。
「侮るな」
短い言葉だった。
オルドの笑みが、ほんの少し薄くなる。
「もちろんです。侮っていたら、わざわざ鋼狼を動かしませんよ」
「王宮から戻ってくる傭兵団だ。普通ではない」
「承知しています。普通ではないから、嫌がるところを突く価値がある」
ヴァルドは頷いた。
「配置につく。撤退路まで決めておけ」
その一言で、鋼狼の団員たちが動き出す。
誰も走らない。誰も騒がない。盾持ちは道幅を測り、弓手は高所を確認し、伝令は無言で散る。整った足音が、夕暮れの街道に重なった。
リゼだけが、剣を肩に担いだまま楽しそうに笑っている。
「なあ、オルド。黒羊の団長、本当に強いんだろうな? 今まで斬ってきた連中みたいに、三合で倒れたら許さねぇぞ」
「強いですよ。油断すれば、あなたの首が飛びます」
リゼは目を細めた。怖がる顔ではなかった。
「ならいい。俺は、強ぇ女が好きだからなぁ」
「恋愛感情の話ですか?」
「殺し合いの話だよ、眼鏡」
「眼鏡ではありません。オルドです」
「分かってる!」
リゼは血を払った剣を鞘へ戻す。
その横で、ヴァルドは倒れた傭兵たちへ短く視線を落とした。
「埋める時間はない。だが、武器は整えて置け」
「団長、死体まで気にすんのかよ……」
ヴァルドは振り返らない。
「傭兵だ。いつかこちらが同じ場所に倒れる」
その一言で、リゼは少しだけ口を閉じた。
オルドだけが、静かに笑う。
「団長のそういうところは、嫌いではありませんよ」
「好かれる必要はない」
「でしょうね」
鋼狼の撤収は早かった。
荷車は放置する。使える武器だけを回収し、契約の証になる紋章布を取る。死体は道端へ寄せられ、剣は胸元に置かれた。
弔いではない。手順だ。
それでも、戦場を荒らして去る盗賊とは違う。
ヴァルドは最後にもう一度、街道の先を見た。黒羊はまだ来ない。
だが、鋼狼の布陣はもう始まっている。
オルドは地図を外套の内へしまい、黒い羊の紋章が記された小さな駒だけを手元に残した。
「副団長レオ・グレイン」
まだ見ぬ相手へ向けた挨拶のように、彼は名を呼んだ。
「あなたが優秀であればあるほど、黒羊は遅れる」
その声は、夕暮れの街道に薄く落ちた。
翌日。
黒羊傭兵団は、その街道へ向かっていた。
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