エピローグ 包囲
夜明け前の王宮は、勝者にも敗者にも優しくなかった。
大広間から離れた控えの間では、書記が走り、王宮騎士が記録箱を運び、侍従が国王の薬湯を入れ替えている。黒羊の連中は帰り支度を始めていたが、誰も完全には背を向けない。ガドは肩を巻かれたまま大盾を抱え、ミラは窓の外を見て、ノエルは俺の顔色まで勝手に診ていた。
「レオさん、ちゃんと寝てませんね」
「今それを言う場面か?」
「倒れてからでは遅いので」
淡々とした声なのに、ノエルの指は薬箱の留め具を強く押さえていた。医者としての怒りなのか、心配なのか。たぶん、両方だ。
エリスティアは椅子に座り、リーシャがその横に立っている。王女の顔色はまだ悪いが、視線は折れていない。リーシャも疲れ切っているのに、王宮連絡係として背筋を崩さなかった。数日前なら、その無理を正義感だけで押し通していたはずだ。今は違う。彼女はノエルの手元を見て、王女が話していい量を自分で測っている。
アリシアが、俺の前に立った。
濡れた手袋はもう外している。指先には紙の跡が残っていた。命令控えを握り続けたせいだろう。王宮騎士団の女団長は、疲れた顔のまま、それでも目だけは昔と変わらなかった。
「レオ」
嫌な予感がした。アリシアが俺を名前で呼ぶ時は、たいてい逃げ道を先に塞いでいる。
「国境谷の記録を洗い直すわ今回と同じ手が使われていたなら、あなたの無罪を証明できるわ」
「まだ決まった話じゃないだろ」
「決めるために動くのよ」
アリシアは一歩近づいた。王宮騎士としてではなく、昔、同じ訓練場で剣を振っていた同僚の距離だった。
「私は、あなたをこのまま傭兵で終わらせる気はないわ」
控えの間の音が少しだけ遠のいた。
「レオ。だから戻ってきなさい。王国騎士団に」
誰かが息を飲んだ。
それが俺だったのか、リーシャだったのか、黒羊の誰かだったのかはわからない。だが、次の瞬間にはセリアが笑っていた。
笑っているのに、目だけが笑っていない。
「ずいぶん勝手な話だな、騎士団長」
セリアは俺の前に割り込まなかった。代わりに、隣へ並ぶ。その方が厄介だった。守られているのではなく、逃げ場を塞がれている気がする。
「捨てたのは王国だろう。拾って、使って、背中を預けて、泥の中から引きずり上げたのは黒羊だ」
「だから捨てたままにしないと言っているの」
アリシアの声も低くなった。
「奪われたものを取り戻す。その上で、レオが選べるようにするわ」
「選べるように、か」
セリアの指が、黒羊の団章が縫われた外套を掴む。
「昔の鎖を磨き直しているだけに見えるがな」
空気が鳴るように張った。
アリシアは引かない。セリアも引かない。二人とも剣には触れていないのに、俺には刃が擦れる音が聞こえた気がした。
「レオは王国騎士だった」
「今は黒羊の副団長だ」
「過去をなかったことにはできないわ」
「今を奪う理由にもならない」
その応酬に、ガドがたまらず身を乗り出した。
「待て待て待て!副団長を騎士団に戻すって、黒羊の誰が許したんだよ!」
肩の傷を忘れたらしい。ノエルが無言で包帯の端を引くと、ガドの声が変なところで裏返った。
「ぐっ……はい、動きません、ノエル先生」
ミラは弓の弦を緩めながら、眠そうな目で俺を見た。
「副団長、いなくなると道が面倒」
「理由が実務すぎる」
「あと、副団長いないとつまらない」
その短い一言の方が、なぜか深く刺さった。ミラはすぐ目を逸らしたが、耳の先だけが少し赤い。
ノエルは俺の顔を見て、小さく息をつく。
「騎士団復帰の話は、最低でも三日寝てからにしてください。判断力が落ちています」
「俺の進路を睡眠時間で止めるな」
「顔色で止めています」
黒羊の連中が小さく笑う。けれど、その笑いは軽くない。誰も本気で俺を手放す気がないのが、嫌でも伝わってきた。
エリスティアが、静かに口を開いた。
「黒羊傭兵団を、王国に縛るつもりはありません」
セリアの視線が王女へ向く。鋭いが、敵を見る目ではなかった。
「けれど、レオ・グレイン様の名が歪められているのなら、私はそれを正したい。王国が奪ったものなら、王国が戻すべきです」
「戻したあと、また欲しくなるのが王宮だろう」
セリアの言葉は遠慮がない。リーシャが一瞬だけ眉を上げたが、今度は止めなかった。王宮の綺麗な言葉だけでは足りないと、もう知っている顔だった。
エリスティアは逃げずに受け止める。
「その時は、レオ様が選ぶべきです。私ではなく、王国でもなく、黒羊でもなくね」
「本人に任せる、ね」
セリアが俺を横目で見た。
「で、本人はどうなんだ?」
全員の視線が刺さった。やめてほしい。敵の矢より避けづらい。
俺は頭をかいた。王国騎士団に戻る気などない。そう言えば済むはずだった。なのに、国境谷という名が喉の奥で引っかかる。死んだ奴らの顔は戻らない。だが、背負わされたままの嘘をそのままにしていいのかと聞かれたら、答えはまだ出ない。
「……帰るぞ」
俺が出した答えになっていない答えに、セリアが鼻で笑った。
「逃げたな」
「撤収判断だ」
「便利な言葉だ」
アリシアはまだ俺を見ていた。諦めた顔ではない。むしろ、今夜ようやく始まったとでも言いたげな目だった。
「待っているわ、レオ。記録を暴いてから、もう一度聞かせて」
セリアの口元が少しだけ上がる。
「何度言っても同じだ。レオを連れていきたいなら、黒羊全員を相手にする覚悟で来い」
「ええ、そのつもりよ」
「いい度胸だ」
二人の間に、王宮の朝が差し込む。白み始めた窓の外で、雨はもう上がっていた。
俺はため息を飲み込んだ。
王女は救われた。リーシャは立っている。黒羊は首輪をつけられずに済んだ。
それなのに、王国の中心は、俺たちを放っておく気がないらしい。
「副団長、馬車の準備できてます」
若い団員が扉から顔を出す。片頬の男がその後ろで荷紐を肩にかけていた。帰る場所がある。それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
「お前ら行くぞ」
俺が歩き出すと、黒羊の連中が当たり前のようについてくる。セリアは隣にいて、ミラは少し後ろ、ノエルはガドを睨みながら、リーシャは王女のそばでこちらを見送っていた。
アリシアの声が、背中に届いた。
「レオ!」
振り返らないつもりだった。
けれど、その呼び方だけは駄目だった。王国騎士だった頃、訓練場で何度も聞いた声だ。怒っている時も、呆れている時も、俺が勝手に無茶をした時も、アリシアは必ず名前で止めた。
足が半歩だけ鈍る。
「今度は、絶対に逃がさないわよ」
声は大きくない。けれど、諦める気のない女の声だった。国境谷の記録を洗うと言った時と同じ目で、アリシアは俺の背中を見ている。王国騎士団に戻れと言ったのは、勢いではない。何年も胸の奥に残していた言葉を、ようやく刃にした顔だった。
隣で、セリアが小さく笑った。
「聞いたかレオ?」
その声は軽い。だが、歩幅が俺の半歩前に出ている。アリシアの声から俺を隠すようで、同時に、俺が逃げる先まで塞ぐ位置だった。
「ああ、聞こえなかったことにしたいな」
「無理だな。私も聞いてしまった」
セリアは振り返らずに言う。銀の髪が肩で揺れ、黒羊の外套の裾が俺の手の甲に触れた。
「ずいぶん熱心な騎士団長様だ。昔の男を取り戻すには、王宮の廊下は少し狭いんじゃないか?」
背後で、アリシアの気配がわずかに強くなる。
「昔の男ではないわ」
アリシアの声は低かった。
「今も、私が連れ戻すべき人よ」
セリアの笑みが、そこで少しだけ変わった。
「だそうだ、残念だったな」
彼女はようやく振り返り、アリシアを真正面から見た。
「レオはもう、黒羊の副団長だ。欲しいなら、昔話じゃなく今の黒羊ごと相手にしろ」
俺は二人の間で、何も言わない方を選んだ。
賢明な判断だったと思う。たぶん……
――その頃、王都西門の外れにある古い酒場で、一通の封書が火にくべられていた。
狼の牙を刻んだ鉄の徽章が、卓上の灯りを鈍く返す。灰色の外套を着た男は、燃えていく王家の封蝋を見下ろし、鼻で笑った。
「第一王子殿下は失敗したか」
向かいに立つ傭兵が、無言で頷く。
男は封書の端が黒く丸まるのを待ち、杯の中へ落とした。
「ふっ!無能な王子だ。王宮の中にいて、傭兵団ひとつも潰せんとはな」
同席していた者たちの背筋が揃う。黒羊のような軽口はない。椅子の位置、剣の置き方、視線の向きまで乱れがない。
男は卓上の地図へ指を置いた。
王都から北西へ伸びる街道。その先に、黒羊傭兵団が使う帰路がある。
「だが、契約は残っている。王子が沈もうが、金は先に受け取った」
男はゆっくり立ち上がる。
「鋼狼傭兵団は、失敗した依頼主に付き合うほど甘くない。黒羊を狩る。あの連中が、自由などと吠えられなくなるまでな」
宿場の外で、馬具の金具が一斉に鳴った。
狼は、もう動き出していた。
第一章、ここまで読んでくださり本当にありがとうございます!
黒羊傭兵団とレオたちの物語を追いかけていただけて、とても嬉しいです。
もし少しでも面白かった、続きを読みたいと思っていただけたら、
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感想も一つひとつ読ませていただいています。
次章では、レオの過去、王国側の動き、新たな傭兵団、そして新ヒロインも登場予定です。
これからも黒羊傭兵団をよろしくお願いします!




