風の音が聞こえる日
冬の気配が近づくころ、福祉センターのケヤキはすっかり葉を落とした。
枝の隙間から射す光は白く冷たく、ベンチの影を長く伸ばしている。
美咲は、退院後も身体が優れなかった。
医師からは「無理は厳禁」と言われているが、本人は「少しずつ動いてみたい」と笑っていた。
投薬の影響で退院は早々だったが、それでも外の空気を吸いたいという気持ちが強かった。
拓真はスケッチブックを開いたまま、鉛筆を動かせずにいた。
ページの上には描きかけの三人。
そのうちひとり――美咲の輪郭だけが空白のままだった。
「……描けない」
呟いた声に、背後から低い声が返った。
「お前、あいつの顔を忘れたのか?」
振り返ると大地がいた。
その表情はいつになく真剣だった。
「忘れてない。でも……描くのが怖いんだ」
「怖い?」
「この絵を仕上げたら、美咲が……旅立ってしまう気がして」
「そして俺達の関係が全部終わってしまうんじゃないかって」
冬の風が二人の間を抜け、枯れ葉を転がした。
「……俺もさ」
大地が拓真を真っ直ぐに見つめた。
「足が動かなくなった時、先生に “あきらめるな” って言われた」
「でもな、できないもんはできねぇし、それでも続ける理由がわからなかった」
大地が続けた。
「けど、あいつ――美咲が “怖いけど笑って過ごす” のを見て思ったんだ」
「“できない” ことより、“何もしない” ほうがずっと怖ぇって」
拓真は胸の奥が震えた。
「……そうだね。俺たち、ちゃんと向き合わなきゃ」
大地は頷いた。
「退院したらまたここに来るって言ってた。あいつ、約束は守るやつだ」
「それに」
大地は笑う。
「終わらせるんじゃなくて、残すんだろ。お前の絵は」
その言葉に背を押され、拓真は鉛筆を握り直した。
――描こう。
風の音が、また聞こえる気がした。
数日後。
福祉センターの職員が中庭のベンチを拭いていた。
その様子を眺めながら、拓真と大地が並んでいた。
「……来るかな」
「来るさ。お前が信じないなら、俺が信じる」
昨日、美咲から短いメッセージが届いていた。
《明日、少しだけ外に出てみようと思う》――それだけの言葉。
冷たい風の中、二人はベンチのそばで待った。
時間がどれだけ経ったのか分からない。
けれど、待つという行為そのものが祈りのようだった。
やがて日が傾き始めたころ――
建物の向こうから、白いマフラーを巻いた女性が歩いてきた。
「ごめん、遅くなった」
息を切らしながら、それでも美咲は笑っていた。
頬は少し赤く、目の下に疲れの影。
拓真はその姿を見て、一瞬言葉を失った。
本当に来るとは思っていなかった。
「……来たな」
「来たよ。寒いけど、ここがいいんでしょ?」
そう言って、美咲はベンチに腰を下ろした。
三人がそろった瞬間、冬の空気がやわらいだ気がした。
「ねえ、覚えてる? あの夏の日のこと」
美咲が静かに言う。
「……夏?」
「そう。『風を描く』って言ったじゃない。覚えてない?」
「……ああ、そんなこと言ってたな」
苦笑しながら答えると、美咲は目を細めた。
「詩人みたいだって笑ったんだよ」
「詩人って言うな」
「まだ言うのね」
そのやり取りに大地が吹き出す。
「ははっ……変わってねぇな、お前ら」
三人の笑い声が冬の風に溶けていく。
「そうだ」
拓真が立ち上がり、スケッチブックを開いた。
「完成したんだ」
ページの中には三人が並んで座るベンチと、後ろを通り抜ける冬の風が描かれていた。
今度は展示会のような影じゃない。
「タイトルは……“風の音が聞こえる日”」
美咲が息を呑む。
「拓真くん……すごいね。本当に聞こえる気がする」
「聞こえるさ。俺たちの声が、もう風に混ざってるから」
大地が絵に手を置き、ゆっくりと話す。
「……次は春だな。桜の下でまた描いてくれ」
「うん、約束する」
「約束ね」
「約束!」
三人の声が重なり、冬の風がケヤキの枝を揺らした。
陽は低く、白く淡い光が雪雲の切れ間から差し込む。
その光に照らされて、三人の笑顔が柔らかく輝いて見えた。
――まるで世界が、ほんの少し優しくなったように。




