風の帰る場所
秋の風が福祉センターの中庭を吹き抜けていた。
ケヤキの葉が黄色く染まり始め、落ち葉が車椅子のタイヤに絡みつく。
拓真はスケッチブックを抱え、いつものベンチに座っていた。
だが今日はひとりだった。
美咲は入院した。
「少し検査が長引くみたい」と笑っていたけれど、拓真には分かっていた。
その “少し” が、長く続くことを。
大地もリハビリの負荷が上がり、センターに来る日が減っていた。
ベンチの上の紙は白いまま。
描く気持ちが湧かない。
頭の奥で、あの声が再び囁く。
(どうせ一人になる。お前が描く理由なんて、もうない)
(――やめろ)
拓真は頭を押さえる。
(また失うだけだ。描いても、誰も残らない)
「……うるさい」
拓真はかすれた声で呟いた。
その声に、別の声が重なる。
「お前、誰に怒ってんだ」
一瞬、幻聴の続きかと思った。
だが振り向くと、大地が車椅子に乗って笑っていた。
「……来てたのか」
「お前と同じだよ。気づいたらここにいた」
二人は短く笑い合った。
「病院行った。……美咲に会ってきた」
「えっ、本当に?」
「ただ、病室の外からだ。面会制限で車椅子だと入れなかった」
その声には悔しさが混じっていた。
「情けねぇよな。立って歩けりゃ、普通にドアを開けて会いに行けるのに」
「そんなことないよ」
拓真は静かに首を振った。
「大地が行こうとした、それだけで十分だ」
「……そう思うか?」
「美咲もきっと、そう思ってる」
二人の間に、静かな風が流れた。
「……それと」
大地がポケットからスマートフォンを取り出した。
「美咲の担当看護師さんに頼んで、メッセージを預かってきた」
画面には、美咲からの短い言葉が表示されていた。
《また三人で、ベンチで会おうね。近いうちに。》
その文字を見た瞬間、拓真の胸の奥に温かいものが広がった。
大地は拓真の膝に広がる白いページと、強く握られて跡のついた鉛筆を一瞥した。
「……描けるか?」
「うん、描ける」
拓真はスケッチブックを開き、鉛筆を握った。
目の前のベンチとケヤキ、隣にいる大地。
そして、風の中に美咲の笑顔を思い浮かべながら描き始めた。
数日後、福祉センターのギャラリーには拓真の作品が並んだ。
タイトルは《風の約束》。
そこには、ケヤキの下で並んで座る三つの影が描かれていた。
展示会の初日、病室で美咲は写真を見ながら涙ぐんでいた。
「……ちゃんと聞こえるよ、風の音」
大地はその写真を見に行き、
拓真は静かに絵の前に立っていた。
三人が同じ場所にいなくても、
彼らを繋ぐ「風の音」は確かに吹いていた。




