表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風の音が聞こえる日  作者: zero


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/5

風の通り道

春の名残がまだ街に漂っていた。

福祉センターの庭ではケヤキの若葉が陽を透かし、風がやさしく窓を鳴らしていた。


拓真はスケッチブックを胸に抱えながらセンターの廊下を歩いていた。

壁には「アートプログラム参加者募集」のポスターがまだ貼られている。

そこに描かれた笑顔のイラストが、彼にはどこか遠いもののように感じられた。


大学を中退してから二年。

幻聴に悩まされ、外に出ることさえ怖かった時期を経て、

今はこのセンターのアートプログラムに週三で通っている。

絵を描くときだけ、頭の中のざわめきが静かになるからだ。


建物を出ると、まぶしい日差しに目を細めた。

中庭には、一本のケヤキと白いベンチが置かれている。


(……今日はここにしよう)

拓真はベンチに腰を下ろし、鉛筆を握った。


そのとき、背後から車輪の音が近づいてきた。

「……ここしか日陰がないから」

低くぶっきらぼうな声とともに、車椅子がベンチの横に止まる。


拓真より数歳上に見える大地は、広い肩を揺らして息を吐いた。

リハビリを終えたばかりで、額にはまだ汗がにじんでいる。


元は建設現場で働いていたが、一年前の事故で下半身を動かせなくなってから、

ずっと人を避けるようになっていた。

周囲が「頑張れ」と言うたび、頑張れない自分が突きつけられる気がして苦しかった。

この福祉センターは、そんな言葉を無理に押し付けない数少ない場所だった。


「……どうぞ」

拓真がわずかに体をずらすと、大地は車椅子の背もたれを少し倒し、

ベンチの背に軽く肘をかけた。

「座るより、こうして寄りかかったほうが楽なんだ」


「そうなんだ」

拓真が小さくうなずいた。


その時、明るい声が中庭に響く。

「はぁ、診察終わり!」


日傘をたたみながら現れたのは、十代後半と思われる女性・美咲だった。

「日差し強いね、ここ座っていい?」


拓真と大地が視線を交わす前に、美咲はもう当然のように腰を下ろしていた。

白い半袖ブラウスの袖口から、細い腕に小さな注射痕がのぞく。

生まれつき内分泌の難病で、センターに併設されている病院で定期的に投薬を受けている。

疲れやすい体のせいで、いつも周囲に心配をかけまいと明るく振る舞うことが癖になっていた。


「ふぅ……ここが一番涼しい」

彼女は笑顔で風を仰ぐが、その頬は少し青白い。


「お二人とも、ここで休憩?」

にこやかに問いかけるその声は、空気を一気に柔らかくする力があった。


中庭に吹く風が、三人の間をゆるやかに通り抜けた。


最初はただの沈黙だった。

だが、その沈黙は居心地の悪いものではなく、むしろ穏やかで、陽だまりのような静けさをまとっていた。


やがて、美咲が小さく笑った。

「ねえ、そのスケッチブック……絵、描いてるの?」


突然の問いに、拓真は一瞬言葉を詰まらせる。

「……あ、うん。下手だけど、描いてる」


「見せてよ」

無邪気な声に、拓真はためらいながらページを開いた。

そこには中庭のケヤキを描いた鉛筆画があった。線は少し震えていたが、確かな温度があった。


「すごい。上手だね」

美咲は目を細めて、絵の中の木の枝をなぞるように指を動かした。


大地が無言で身を乗り出した。

「……人、描かないのか?」


「うん。苦手で」

「俺も苦手だ」大地はふっと笑う。

「リハビリの先生たち、いつも “できる” って言うけど、できないもんはできねぇ」


その言葉に、拓真の胸の奥が少しだけ軽くなった。

美咲も優しくうなずいた。

「できないことがあるって、いいことだよ」

「……え?」

「だって、“できない” って思うのは、“やりたい” って気持ちがあるから」


沈んだ空気がふっと和らぎ、三人の間に小さな笑いが生まれた。


そのあとも、拓真がスケッチを描き、大地が喋り、美咲が笑う――

そんな何気ないやりとりが、午後の穏やかな時間を満たしていった。


センターの時計が五時を指すころ、職員が声をかけに来た。

「そろそろ閉館ですよ」


三人は名残惜しそうに別れを告げ合う。


「また来るの?」と美咲。

「来るよ。……君は?」と拓真。

「私も。定期検査のついでに」

「俺も、リハビリあるしな」


言葉にしなくても、それぞれがまた会いたいと思えていた。


中庭のベンチに三人だけの時間が共有される――

そんな日々が、静かに始まった。


──友情の芽は、風のように静かに、しかし確かにそこに吹いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ