六
「うっく……かはぁっ……」
湊輔はたまらずえずいた。
その姿を見ただけで、戦慄が走ると共に全身が締め上げられた。
「コイツ……まさか」
剣佑が凧盾と長剣を強く握り締め、身構えた。
「前にシバさんが言っていたヤツか……!」
今にも躍りかからんばかりの体勢。
しかし踏み出さない。
いや、踏み出せないのかもしれない。
それほど、コイツの威圧感は異常だから。
耀大に群がっていた鳥人型たちが、一斉に上空に飛び去った。
かと思えば、至極の山羊めがけて滑空し始めた。
頭を握り潰された翼人型の仇討ちをするかのように。
至極の山羊の肩と僧帽筋が、首筋を飲み込むようにせり上がった。
胸筋が大きく丸く膨らんでいく。
まさか、と直感して、湊輔はすぐに耳をふさいだ。
『ブゥアアアァァァアアアァァァ!』
牛のような張りのある野太い咆哮。
「うあぁぁっ……」
湊輔は思わず体を丸くしてうずくまった。
耳に当てた手はまるで意味を成さない。
地面が、大気が、そして鼓膜が、全身が、重大な音波によって激しく揺さぶられた。
鳥人型たちは銃撃された野鳥よろしく、次々と墜落していく。
やがて音波を静めると、至極の山羊は左腕を勢いよく振り払った。
握り絞められていた翼人型が、小石のように軽々と放り投げられて遠のいていく。
湊輔は顔を上げ、おそるおそる巨大な悪魔を視界に捉えた。
途端、至極の山羊は鉈を地面に突き立て、黒い沼の中に沈んでいった。
完全に巨体が消え入ると、それは急速に狭まって跡形もなくなった。
あたりが静寂に包まれる。
嵐が過ぎ去ったあとのような、閑散としたものではない。
戦慄によって張り詰めた緊張感によるもの。
「おい……大丈夫か、おめぇら……」
颯希が顔を青ざめながら、耀大と有紗を連れて歩み寄ってきた。
「え、ええ、俺は問題ありません……」
剣佑が息を荒げながら答えた。
「まさか、シバさんの一報が入ってすぐ、とはのぅ……」
耀大が重々しい表情で肩を落とした。
「たく、あんなやべえヤツと――」
颯希が口をつぐみ、肩越しに有紗を見て、へたり込んでいる湊輔に目を落とした。
「ま、生き残っただけ儲けもんか」
前髪をかき上げながらつぶやき、目を凄ませて舌を鳴らす。
「くそったれ……今度はなんだってんだよ……」
耀大、剣佑、有紗、そして湊輔が颯希の視線を追った。
その先にあるのは、至極の山羊が残していった鉈。
それが柄頭からただれるように溶け出し、地面に広がっていく。
「湊輔、立ちな。おめぇら、下がれっ」
颯希に言われ、湊輔は覚束ない動きで立ち上がる。
溶け崩れる鉈を見据えながら、四人と一緒にその場から離れた。
やがて、至極の山羊の足下に広がっていたような、黒い歪な円が広がった。
「けっ、なんか出てきやがったぜ……」
颯希がつぶやくと同時、その中から、二つの影がせり上がってきた。
ソレらが完全に姿を現すと、混沌を模した沼は収束するように消え去った。
二つの影の一つは、長身な人型。
見てくれは外套をまとった甲冑騎士。
足元から首元まで滅紫色――灰味のある暗い紫色――に染まっている。
外套はところどころ破れ、裂けている。
手には長い曲刀を持ち、首にはくすんだ灰色の頭蓋骨が据わっている。
もう一つは体高が三メートルを超す、似紫色――くすんだ青みのある赤紫色――のサソリ。
とはいえ、前体の先端からは人間女性の上半身が生えている。
さらに、ハサミと尻尾の針の部分は、刺身包丁のような長い刀身。
「シアアアアアアアアアアアアッ!」
サソリの人間体の、しゃがれた鳴き声による咆哮。
湊輔は顔をしかめた。
至極の山羊ほどではないにしても、全身が総毛立って。
『ぴんぽんぱんぽんぴんッ。緊急事態ッ、緊急事態ッ。魔郷の眷属が侵入ッ。魔郷の眷属が侵入ッ。滅紫の幽騎と似紫の刀蠍、でーすッ。最優先事項――てゆーか、もうソイツらしかいないね。即刻処理してくださぁーいッ。繰り返しまぁすッ。魔郷の眷属を即刻処理してくださぁーいッ。以上ッ。……ぴんぽんぱんぽんぴんッ』
これほど空気が張り詰めているにも関わらず、幼い少年のような声はやたらコミカルに聞こえた。
「けっ、言われなくてもやるっつーの」
颯希が苛立っているようにぼやいた。
「さて、どーすっかねぇ……」
「颯希さんッ」
剣佑が勇んだ声で呼んだ。
「あのサソリのような敵、お願いできますか? 颯希さんには射ちがいのある相手じゃないかと……」
「はッ、分かってんじゃねぇか、剣佑。いいぜ、でかいのはあたしが狩ってやるよ。――耀大ッ、一緒に来な!」
不敵に笑う颯希に耀大は大きく頷き、
「了解じゃあッ」
と意気揚々に答えた。
「じゃあ剣佑、湊輔と有紗を頼むぜ」
「ええ、お任せください」
「さて……仕掛けるかのぅ」
颯希と剣佑が構えたところで、耀大は胸いっぱいに息を吸い込み、
――【猛嚇咆】
『ウオオオオオオオオオッ!』
人間離れした重低音の咆哮を轟かせた。
「シアアアアアアッ!」
サソリは呼応するように吠え猛ると、刺身包丁のような刀身が伸びる触肢を振り上げ、動き出した。
直後、風切り音が三つ、わずかにずれて重なるように連なった。
颯希による超速の三連射。
いずれもサソリの人間体に向かって飛びかかる。
サソリは三本の刀身を交差させ、連なる矢を防いだ。
そしていったんは止めた脚を再び動かし、進み始める。
颯希は矢を放ちながら、耀大は追いかけてくる巨体の動向を確認しながら、駐車場からから離れていく。
A棟校舎前の道路か、グラウンドまで引っ張るつもりらしい。
二人と一体が離れ、三人と一人が残された。
幽騎はくすんだ灰色の頭骨を三人に向ける。
先日、至極の山羊がしたように、品定めのごとく静かに見比べる。
剣佑、有紗、そして湊輔へと動かして、止めた。
途端、湊輔は全身が燃え上がるような感覚に見舞われた。
翼人型のときよりも、ずっと激しい。
それとは別で、まるでざわつくような、言い知れない感覚も混ざっている。
幽騎がおもむろに体を動かし始めた。
見せつけるように大きく、曲刀を構える。
左半身を前に、左腕を突き出し、曲刀を持つ右腕を引き絞る。
まさに突きのような構え。
湊輔はすかさず身構えた。
瞬間、駆け出して迫ってくる幽騎。
同時に視界の左下から跳ね上がる、赤い光跡。
「せあああ!」
幽騎と湊輔との距離があと数歩のところで、剣佑が飛び込んできた。
突きをすると見せかけて振り上げようとした曲刀が、打ち下ろされた長剣によって押さえ込まれた。
「この前入ったばかりの新入りでな。俺のほうが相手になるぞ」
勇壮な眼光を放つ剣佑と刹那睨み合い、幽騎は軋り合う刀剣を弾いて後退した。
そしてすぐさま踏み込み、剣佑に斬りかかる。
長剣と凧盾、曲刀による剣戟が始まった。
烈火のごとく斬りかかり、殴りかかる剣佑と、せせらぎのように得物をしなやかに操る幽騎。
十合ほど斬り結ぶ――というより、幽騎は繰り出される攻撃のことごとくをいなし、剣佑を押しのけて自ら距離を取った。
「くそ……一つも届かない、か……」
剣佑は深呼吸して肩を落とすと、気合を入れるように構え直した。
湊輔は二人の斬り合いを見ながらずっと、浅い息を荒げていた。
幽騎は確かに剣佑と向かい合っている。
だが、全身を襲う激しい熱とざわつくような感覚が少しも収まらない。
まるで幽騎が、視界の端で本命の獲物を耽々と睨みつけているように。
「どうした! さあ来い!」
剣佑が怒号を放つと、幽騎が踏み出した。
途端――
「霞脚?」
湊輔は目を見張った。
幽騎が動き出すと同時、その体の輪郭が消えたから。




