2/夜道
夜になって、明里の家まで迎えに行くと、何故か外で待たされる羽目になった。
「ったく! 明里の奴、何そんなに時間かけてるんだよ……」
支度して待ってるとか言ってたくせに、全然支度なんてできてないじゃないか。
時計を見る。約束の時間は過ぎ、時刻は既に8時を回っている。
イライラして待っていると、後ろから玄関の戸が開く音が聞こえて来た。
「コウちゃん、お待たせ!」
「遅いぞ、明里! お前何やって――」
振り向きざまに文句を言おうとした時、明里の姿が目に入って言葉に詰まり、彼女を凝視してしまった。
「ごめんね、コウちゃん。思ってたより着付けに時間がかかちゃって」
「お、お前……」
明里の思いも寄らない姿に僕は言葉を失ってしまっていた。
明里は、花柄の入った水色の浴衣を着ていた。長かった黒髪は、丹念に編み込まれ、お団子ヘアになっている。そこに紫陽花を模したかんざしが刺さっていて、それが彼女の浴衣姿を引き立てている。
それはまるで僕の知っている明里ではなく、別人にさえ思えたほど綺麗だった。浴衣姿を評価できるような感性は僕にはなかったけれど、この時だけは明里の姿が純粋に綺麗だと思えて、魅入れてしまった。
「えっと……そんなに見られると、ちょっと恥ずかしいかな」
「……え? あ! い、いや、だって、まさか浴衣だと思わなくて……」
我に返ってしどろもどろになって言い訳をしてしまう。
「つ、つーか、なんで浴衣なんだよ?」
「えへへー、いいでしょう? 折角の機会だから着てみましたー!」
折角の機会と言っても、単に蛍を見に行くだけなのに何故浴衣なのか分からない。ま、その辺は男の僕には分からないオシャレというものなのだろう。
「で、どうかなどうかな?」
明里はそう言って、両腕を広げ、袖をヒラヒラさせながらくるりと一回りする。
「どうって?」
「だーかーら! 私の浴衣姿! どう?」
「どうって……まあ、いいんじゃないか?」
「それだけ?」
「ま、まあ……」
本当はそれだけじゃないのだけれど、本音なんてものを口にすると恥ずかしくて顔から火が出るのは必至なので、絶対に言いたくない。だって言うのに――。
「うんもう! 分かってないなー! コウちゃんは!」
明里は頬を膨らませ、何故だか怒っていた。
これが女心というものなだろうか? 正直、僕には良く分からない。
「明里、あんまり光介君を困らせてはダメよ」
僕が困惑していると、明里の後ろからそんな声が聞こえて来た。
「あ、お母さん」
いつからいたのか、明里の後ろには、明里の母親が立っていた。
「聞いてよ、お母さん。コウちゃんったら……」
「はいはい。大丈夫よ、明里。光介君は明里のことちゃんと見てるから」
「え……」
おばさんの突拍子のない発言に固まる僕と明里。直球すぎます、おばさん。
「明里、何かあったら、ちゃんと連絡すること。いいわね?」
「何度も言わなくても分かってるよ、お母さん。大丈夫だよ」
おばさんは少し心配そうにしている。きっと、明里の体調を気づかってのことだろう。
「光介君、明里が迷惑かけるかもしれないけど、よろしくね」
「はい。ちゃんと気をつけますからご心配なく」
「お願いね」
そう言って微笑むおばさんとは対照的に、明里は何故かむくれている。
「もう! 二人して私を子ども扱いするんだから!」
なにやら勘違いしている明里。その辺が子どもなんだと思うのだが。
「それじゃあ、二人とも気をつけてね」
おばさんはにこやかにそう言って送り出す。娘が怒っていようが、その友人が呆れていようがお構いなしだ。相変わらず、マイペースな人だ。この親にしてこの子ありと言ったところだろう。
「それじゃあ、行ってきます」
「行ってきまーす!」
おばさんに見送られながら、僕と明里は歩き出した。
僕達が暮らしている所は結構な田舎にあって、蛍がいる場所も歩いて二十分程のところにある。有名なスポットではないが、この辺では多くの蛍が舞う姿を見れることで知られている。
僕達は道中を並んで歩く。静まり返った夜道の中、からん、からんと明里の下駄の音が響いている。
その音を聞いて、風流だな、なんてことを思いながら隣を見ると、まるで下駄の音を楽しんでいるかのように明里は嬉しそうに微笑んでいた。
「っ!」
その横顔が目に入った瞬間、どくんと心臓が跳ね上がったのが分かった。
「コウちゃん、どうかした?」
僕の様子に気づいた明里は不思議そうな顔をしている。
「い、いや、なんでもない」
「そう? ならいいけど……」
危なかった。何が危なかったのか分からないけど、危なかった。
今日の僕は変だ。明里の事ばかり気になって、明里ばかりを見てしまっている。それはいつもと違う浴衣姿のせいかもしれない。いつもは子供っぽく思えていたのに、今日は大人っぽくて、色っぽく思えてしまう。
そんなことを考えていると、何を話せばいいか分からなくなってしまう。そうなると自然と会話がなくなってしまい、気まずい空気が流れ始める。
そんな中、口火を切ったのは明里の方だった。
「そ、そういば、コウちゃんとこうやって出掛けるのって久しぶりだね?」
「そ、そうか?」
「うん、そうだよ。いつぶりかな?」
そういえばと、思う。よく明里の入院先にお見舞いとか、お互いの家を行き来していたが、二人だけで出掛けることは随分久しぶりだ。
「昔は良く一緒に遊んだのにね。虫取り網と虫かご持って、二人で朝から晩まで走り回ったりしたこともあったよね」
「それ、いくつの時の話だよ? そんな昔のことよく覚えてるな?」
「覚えてるよ。だって、あの頃はすごく楽しかったもん!」
明里は昔を懐かしむように遠い夜空を眺めている。
確かに、あの頃は楽しかった。二人で行った場所、二人でしたこと、全てが楽しくて、時間を忘れて遊んでいた。中学3年生になったいまでも、楽しかったことはだけは覚えている。それは色あせることのない思い出だ。
「あ、そうだ! コウちゃん覚えてる? 小さい時に私とした約束のこと」
「約束?」
はて? 明里とした約束とはなんだろうか?
「あー! その様子だと忘れてるなー!」
「待て待て! そんな突然言われてもだな……」
大体、お前とした約束なんてこれまでだっていっぱいあったし、子供の頃にした約束なんて、いつまでも覚えているもんじゃない。
「ふーんだ! もういいよ! すっごく大切な約束なのに、忘れちゃうなんてコウちゃんの薄情者!」
酷い言われようだ。
はてさて、僕は一体どんな約束を明里としたのだろう? 子供の頃にした約束がそこまで大切だなんて思えないのだが。
どんな約束をしたのか思い出そうとしていると、突然明里が駆け出した。
「お、おい! 突然どうしたんだよ!?」
「コウちゃん、いまあっちでチカッと光ったよ! きっと蛍だよ!」
「え……?」
明里に言われて辺りを見渡すと、既に蛍が見えるスポットに入っていた。川のせせらぎの音も聞こえてきている。
「コウちゃーん! 早くおいでよー! 置いてっちゃうよー!」
前方で明里が手を振って呼んでいる。待ちきれないといった様子だ。
まるで子供だ。もう約束ことなんてどうでもいいようだ。こっちとしてはどんな約束なのか気になるところだけど、それは後でそれとなく訊いてみればいいだろう。
「分かった分かった! すぐ行くから走るな。危ないから」
僕は明里を追いかけた。