その1 魔界領域に架ける橋
スティクス河。
南から北へ流れる、人類の領域と魔界領域を分かつ大河である。
もちろん、それはざっくりとした分け方ではある。かつて人類征服を試みた大魔王によってその境は大きく東方に押し込まれた。逆に人類が川を渡った西方に橋頭堡を築いたこともある。
その時代の名残は今も残っていて、スティクスの西側にも都市同盟領が、東側にも魔王領が、ほんの少しだけ存在している。
レーデルたちが訪れたのは、その例外的領地。東サンディニウムである。川の東側だが、この地を支配するのはとある魔王だ。
「ここから魔界領域へ入るのは初めてだ」
とレーデルが口にすると、「そういやそーだな」とセレナも頷いた。
「前に魔界領域に入ったのはもっと北の方だったっけ。ま、ルーティをゲットしてすぐに東側に戻ってきたけどさ」
「ふぅん……そうなの……?」
東サンディニウムの街路を歩きながら、アルケナルが聞き返す。
「ルーティは魔界領域の孤島の地下神殿にいたんでね。海はもっと北側だろ」
「なるほど……この川をずううーっと下っていけば、その神殿にたどり着けたりする……?」
「理論上は可能。滝や瀑布に巻き込まれる可能性を考えなければ、だけど」
そう答えながら、レーデルは川に面する柵から身を乗り出した。
川幅は数十メートル。穏やかな川面の向こうには、西サンディニウムの街並みが見える。東サンディニウムと合わせ、ここは双子の街が広がる都市だ。
二つの街をつなぐのは、遠い昔に建築されたサンディニウム橋。石造の橋で、長年の間に増築改修などを経て巨大化。教会をはじめ様々な建物まで建ち、現在は橋上に街ができあがっている。
レーデルたちの現在位置から下流側、すなわち北側に、河川上に浮かぶ街の姿も見えた。
「さてルーティ」
レーデルはショールの中に話しかける。
「ここではあまり顔を出すんじゃないぞ。少なくとも西サンディニウムを抜けるまで」
「それはどういうことかなあ」
ひょい、とルーティがショールの中から顔を出す。
「ここで狙われる可能性が高いんじゃないか、と思うのさ」
元勇者レーデルはサイナーヴァ教会から追われる身である。
教会は五人の勇者を認定し、レーデル抹殺の任を与えたという。
そのうち二人は倒した。サラム・エクルスにバルメラ・ガルデットン。
それでもまだ、レーデルを狙っている勇者が三人もいる。
ついでに言えば、教会の異端審問官たちに下されているレーデル抹殺命令もいまだ有効のはずだ。
「俺の来そうなところにヤマを張って待っている奴がいても不思議じゃない。となるとサンディニウムは絶好の待機場所だと思うんだよな」
「一番簡単にスティクスを渡れる場所だものね……」
アルケナルの言葉に、レーデルは頷く。
「変に目を惹いたら誰かに見つかる。だからおとなしくしてくれよ。俺の命が惜しいと思うなら」
「だったら、サンディニウムそのものを避けたら? 舟を使えばどこからだって渡れる」
ルーティの指摘に、レーデルはうなる。
「それも手だけど、人の少ないところで敵に見つかったらどうしようもないからなあ」
「敢えて人に紛れるというわけか。なら仕方ないね。君の言うとおり、おとなしくしているとしよう。さっさと橋を渡ってくれ」
ルーティはつまらなそうに言って、ショールの中に姿を消した。
「珍しく素直じゃないか」
「珍しく? ボクはいつだって素直だろう」
と答えたきり、ルーティはおとなしくなってしまった。
「ルーティの言うとおりだ。さっさと橋渡ろうぜ」
セレナの発言に、レーデルは記憶を掘り起こそうとして、無意識のうちに指をくるくると回した。
「ここの橋を渡るには……チケットがいるんじゃなかったかな?」
橋に面する広場の一角に、チケット売り場はあった。
売り場の窓口は一つ。そこに十人ほど、見るからに街の外からやって来たとおぼしき風体の人々が並んでいる。
「そうそう。サンディニウムの住人じゃない者からは通行料を取って、橋の修繕改築費にあてているんだ」
「市民はただなのかよ。ずるくねーか?」
「税金払ってるからなあ」
不満を口にするセレナをなだめながら、レーデルは列の最後尾についた。
「俺がチケット買うから、二人は適当にその辺を見て回ってきたら?」
「だったら、お言葉に甘えて……」
アルケナルとセレナはレーデルに軽く手を振り、その場を去った。
レーデルは列の最後尾について、順番を待った。
「魔族ばっかりじゃないか」
ルーティがショールの隙間から外を眺めつつ、言う。
「そもそもサンディニウムは魔王の支配する街だからな」
「そうなのか」
「名前は忘れたけど、親大魔王派の魔王がサンディニウムを統治しているはずだ。つまり、人類に対して融和的ってわけだな」
「同盟都市とあまり変わらない雰囲気なのは、そういうことかな」
ルーティは納得する。
魔王にも様々いるもので、優れた君主として経世済民や町の発展を志す者もいれば、蛮族の大将に毛が生えた程度の、ただ破壊と掠奪をくり返すだけの者もいる。
人間族の一般市民が魔王を君主として仰ぐこともまれではない。優秀なリーダーであれば、魔族であろうと気にしない、という人々は決して少なくないらしい。
「……それはともかく、さっきから妙な視線を感じないかな?」
「なんだと?」
ルーティの言葉に、レーデルは軽く眉をしかめた。
「なんかさっきから感じるんだよね。誰かがじーっとこっちを見ているような……」
「ルーティにしては随分慎重な言い方だな」
「ボクの目をもってしても、ちょっとはっきりしないんだよね。敵はかなり慎重にボクたちを監視している。もしいればの話だけど」
「いや……俺はルーティを信じるぞ。悪い予感ってのは当たるもんだ」
レーデルは四方に視線を走らせた。
広場を行き交う人は多く、しかしレーデルを監視している人間は見当たらない。
(ルーティの気のせいならいいんだが……気のせいじゃないような気がする)
たとえ相手が見えなくとも、レーデルは警戒心を解かなかった。
と、その時。
「……うああああっ!」
突如、広場から伸びる路地の奥から、一人の男が転がり出てきた。
男の悲鳴が、広場の人々の視線を一手に引き寄せる。
坊主頭の男はすぐさま立ち上がろうとしたが、失敗した。既に体力を消耗しているのか、息が荒い。
少し遅れて、同じ路地から、男を追う一団が姿を現した。
「……先生。そろそろ観念していただきやしょうか」
一団を率いる男が、倒れている男に呼びかける。
牛のような角を頭から生やした魔族の男だった。上着はタンクトップ一枚で、その下には筋肉が盛り上がっている。
そして右手には、刀身が赤黒く輝く剣を握っていた。
牛男に率いられた男達も、手にそれぞれ剣だの棒だの、何かしら武器を抱えている。
牛男は、周囲の人々がざわめいているのに気づくと、大きな声で呼びかけた。
「おっと、こいつはすいやせんねえ。こいつを捕まえたらすぐに引っ込みますんで、ちょっくら失礼しますよ」
「た、助けてえ!」
坊主頭の男は、必死に助けを求め――たまたま、レーデルと目が合う。
うっ、とレーデルは言葉に詰まった。
「さてレーデル。目立つマネはしたくない、って言ったけど……」
ショールの中でルーティが呟く。
確かにその通りだった。が、
(我が身かわいさに、困っている人を見捨てていいのか……?)
レーデルは自分に問いかける。一歩踏み出すべきか、留まるべきか、逡巡する。
さらに視線を奥へやると――向こうの人波に、セレナとアルケナルの姿が見えた。
二人は人波を縫って、横に横に歩いている。レーデルの視線に気づいたセレナは、自分が進んでいる方向を繰り返し指さして見せた。
牛男達の後方に回り込む、という意思表示らしい。
(俺が牛男たちの正面に出る、って決め込んで、挟み撃ちにしようってのか)
そう悟った途端、レーデルは小さく笑っていた。
「……前言を撤回するようで悪いけど、ほっとくわけにはいかないね」
そうルーティに言い返してから、レーデルは強い意志を込めて一歩を踏み出した。




