その7 仮面の下
たとえ歴戦の勇士とて、目の前にいきなり巨大な怪物が現れれば、すくみあがるのが当然である。リーリアもしばし呼吸を忘れるほどに戦慄したが――
(いや……これはむしろ、ドラゴン討伐の手柄を挙げるチャンス! 立ち尽くしている場合じゃない……!)
すぐに勇気を振り絞り、剣を抜いた。ドラゴンからパティを守るように立ちはだかる。
そして振り返り、
「パティ、逃げて! 私がドラゴンを倒すから……」
とまで言いかけて、思わず声を途切れさせる。
(パティ一人で森の中を行かせるのは危ない……!)
地形に足を取られるかもしれないし、別の魔物に襲われるかもしれない。ドラゴンの脅威から守ったところで、パティが無事に村へ帰れないのでは意味が無い。
ほんの短時間、リーリアは逡巡する。
その時、レーデルの言葉が脳裏に蘇った。
「困っている市井の人々を助けるために力を振るうのが勇者だ」
次の瞬間。
「……いや、パティ! 私に捕まって!」
リーリアは剣をしまい、パティを両手で抱きかかえた。
そしてドラゴンに背を向け、逃走を開始した。
(今はドラゴンを倒すより、パティを守るのが優先……!)
全力で駆け抜け、立木が多い方へと走る。
ドラゴンは地を歩き、リーリアを追いかけた。しかし巨体が仇となり、立木をうまくかわすことができず、移動速度が低下。みるみるうちにリーリアとの距離が離れる。
(いい調子! このまま一気に振り切る!)
ドラゴンの姿がどんどん小さくなっていくのを繰り返し視認しつつ、リーリアはひたすら走る。
十分に距離を離した、と判断したところで、リーリアは速度を緩め、立ち止まった。
パティを降ろすと同時に、がくりと座り込み、ぜえぜえと激しく肩を上下させる。
「これだけの距離を、全力疾走は……キツイ……」
相変わらず肋骨の辺りが痛んでいたが、今は我慢するしかなかった。
十分に休み、呼吸を落ち着かせたところで、リーリアは立ち上がり、周囲を見渡した。
そしてあることに気がついた。
「ここ……どこ……?」
走るのに夢中になりすぎて、どこを走っているかなんてまるで気にもしていなかった。
少なくとも、ペイトネイア村の近所ではないようだ。
正面を見やると、森の中にぽっかりと開いた平地。
後方を見やると、岩場が露出した切り立った崖。崖の高さは三、四メートルといったところ。
空は曇天。方角の判断はできない。
やむなく、リーリアはパティに話しかけた。
「ここ、どこだかわかる……?」
パティは黙ったまま首を横に振った。
「だよねえ……」
リーリアは絶望した。
森で迷うことの恐ろしさを、リーリアは十二分に理解していた。遍歴の道中、幾度森の中で進むべき道を見失ったことか。そのたびに死を覚悟したものである。シアボールドがいなければ、何度か白骨死体になっていたはずだ。
パニックに陥り、頭が真っ白くなりかけた――が。
パティという同行者がいることを、すぐに思い出した。
(うろたえちゃダメ! パティまで不安にさせてしまう……!)
リーリアはかがみ込み、パティに目の高さを合わせた。
「心配しないで! 私が必ずパティを村まで連れ帰るからね……!」
リーリアの言葉に、パティは小さく微笑みを返した。
それを見て、リーリアも落ち着きを取り戻す。
しかし具体的な方策は何一つ思いつかない。どうしたものか、と立ち上がった時――
何かがリーリアの頭上を覆った。
「……パティ!」
パティの身体を抱きかかえ、身を投げる。
直後、ドラゴンの巨体が、リーリアのいたところに着地した。
リーリアは体勢を立て直し、振り向く。
すぐ眼前で、ドラゴンの顔があった。
額から鼻先までは黒い竜面に守られ、大きく開いた口の中には鋭い牙。
「冗談やめてよ……!」
パティをかばいつつ、リーリアは剣を抜く。
二人の背後には切り立った壁。もはや逃げ道はない。
「結局、戦うしかないみたいね……!」
命を捨ててでも、パティは守り抜いてみせる――リーリアは覚悟を決めた。
その鼻面に渾身の一撃を叩き込むべく、一歩踏み込み――
「……リーリア!」
突然の声。
リーリアは頭上を仰ぐ。
レーデルが、崖の上から身を投げていた。
くるりと空中で一ひねりを加え、ドラゴンの首に飛びつく。
「グゲッ!?」
突然の衝撃に、ドラゴンの首が落ち、顎を地面に叩きつける。
ショックに耐えながら、レーデルは剣を逆手に握って、
「ここだな!?」
ドラゴンの鱗と竜面の隙間に、切っ先を突き立てた。
力を込めるほどに、切っ先は深く潜っていく。
「パティ、逃げるよ!」
その隙に、リーリアはパティの手を引き、暴れるドラゴンの横手をすり抜けて逃げた。
ドラゴンはレーデルを振り落とすべく、狂ったように首を振り回す。
しかしレーデルは両脚でがっちりとドラゴンの首を押さえて身体を固定。どんどん剣を深く差し込んでいき――
「んねええぇぇい!」
レーデルが最後の力を込めると、竜面が音を立てて外れた。
途端、ドラゴンの身体が縮み始めた。両脚でもがきながら、急速に小さくなっていく。
レーデルもしがみつく相手を失い、落下。二メートルほどの高さから着地する。
振り返った時には、ドラゴンの姿は完全に消えていた。
代わりに落ちていたのは、黒い輝きを放つ竜面だった。その隅には双月のマークが刻み込まれている。
「……おーい、レーデルぅぅぅ……!」
崖の上から、セレナが飛び降りてきた。空中で一回転してきれいに着地し、レーデルのそばまで歩み寄る。
「無茶するなあ」
「レーデルの方が無茶だと思うけどね」
ルーティが口を挟む。
「こいつが竜面? 意外にでけーな!」
セレナは竜面を拾い上げ、じっくりと眺めた。
そんなセレナに、レーデルは低い声を投げる。
「竜面、しっかり押さえておけよ?」
レーデルはまだ剣をしまわず、警戒態勢を取っていた。
「さて、ドラゴンに化けていたのは誰だ……?」
雑草の中を、レーデルは慎重に歩を進める。
と――数メートル向こうで、雑草がガサガサと揺れ、何かが頭を突き出した。
その正体は――
「大丈夫だった……? 怪我はない……?」
アルケナルが、パティの様子をひとしきり確認する。
崖を回り込んだアルケナルとシアボールドが、リーリア、パティと合流していた。
シアボールドの姿を見た途端、リーリアは緊張が解け、思わずがくりとその場に膝をついた。
「また無茶しやがったのか」
「仕方ないでしょ……。それにこの程度、どうってことない」
すぐにリーリアは立ち上がったが、全身が悲鳴を上げていた。パティを守るため夢中になって、痛みを忘れていたのだろう。
それでも無表情を装い、気丈に振る舞う。
「……マール!」
突然、パティが飼い犬の名を呼んだ。
驚いて一同が振り向くと、レーデルがセレナと共に歩み寄ってきていた――両腕に、茶色くて尻尾の長い犬を抱きながら。
レーデルが犬を解放すると、まっすぐにパティに駆け寄り、飛びついた。
「マール! マール! どこ行ってたの!」
大喜びでマールに抱きつくパティ。
そんな様子に、リーリアは思わず顔をほころばせた。
「よかったね、マールが見つかって。でも、勝手にマール探しに出かけて、親を心配させたのは良くないよ。あとで叱ってもらわないとね」
そんな言葉も、パティには聞こえていないようだった。心の底から愛犬との再会を喜んでいた。
シアボールドも微笑みながらパティを見守っていたが、不意に表情を変え、レーデルとセレナに視線を走らせた。
「それが魔法の竜面か? じゃ、ドラゴンの正体は誰だったんだ?」
まだ最後の敵がいるのではないか、と緊張感を漂わせる。
レーデルはすっかり緊張が切れた様子で、肩をすくめた。
「もう少し早く気づくべきだった。証拠をこの目でしっかり見ていたのにな」
「証拠……?」
「自分のテリトリーにおしっこをまいたり、地面に穴を掘って好物の骨を埋めたり。村を襲った時にやたらと顔面を壁にぶつけてたのも、竜面を外そうとしていたのかもしれないな」
「…………なに……」
シアボールド、リーリア、アルケナルは、それぞれ驚きの眼差しをもってマールを見つめた。
レーデルはマールを手で示した。
「ご紹介しよう。彼が今回の事件の犯人、ドラゴンに化けた張本人だよ」
紹介を受けて、マールは「わん!」と一声鳴いた。




