歩む臓、困る核
幼い頃から小説が好きだった
絵画に表された世界に憧れた
舞台の上に自身を重ねた
生きているうち、なんとなく疎外感を感じることに気がついた
そのうち、信じるようになった
それらは
周囲との隔たりは、相容れなさは、馴染めなさは、漠然とした居心地の悪さは
そもそも己が、この世界にとって異物だったからなのだと納得した
映画に出てくるような、他の者にはない自分だけの故郷を思い描いた
歌に歌われるような、異端でそして特別な自分に酔った
物語の登場人物のように、いつかこの世界から離れる日が来ることを夢見た
物語の登場人物のように、不思議な何かが連れ出してくれることを願った
物語の登場人物のように、帰るべき場所に帰ることを決めた
物語の登場人物のように、ここではない本来の居場所に戻ることを目指して準備を始めた
あるとき、
前触れもない。きっかけもない。いつも通りの日常。
その日はその館に来てから五百二十九日目。誕生日は四十日後、身寄りをなくした子供たちを引き取っている館の主も、今どこにいるのかわからない父親も、亡くなるのは二年以上先のこと。
その館で一番最近の出来事は、イヴが加わったことだった。最初にイヴを見たときに一瞬だけ固まった。それ以来、彼に一方的に話しかけたと思えば勝手に一人になって考えることを繰り返していた。その間はイヴ以外の人間を無視した。今まで特定の誰かに執着を見せることはなかったから、珍しいといえば珍しかった。それが二十日続いた。
その日も同じようにしていた。
突然だった。
「あ、戻ってきました?」
エルは首を動かして声のほうに向ける。
「いきなり黙るから死んだのかと思いました」
「誰ですか?」
2人の目は合わない。
「イヴです」
「今はいつですか?」
「もうすぐ13時ですね」
通り道を塞いで向かい合う位置にイヴが立つと、エルはその後ろを玄関へ向かって歩いていた。
イヴが振り返って追おうとすると、突然動きを止める。
「「…」」
「…なんですかそのため息」
「絶望してるんです」
「何にですか」
エルは答えず、目を閉じる。
「自分ではどうにもならないですね」
そう言って舌打ちする。
「…エル?」
「意味もなく呼ばないでほしいんですけど。不愉快です」
「どうしたんですか?さっきから変ですよいつも以上に」
「とりあえず、君も一緒に行きますよ」
「どこにですか。説明してください」
「思い出したから旅に出ます」
「短い間でしたがお世話になりました。文句はエルに言ってください」
館の主であるイヨは2人からそれだけ聞いた。止める間はなかった。
促されてイヴは前に出た。エルはその真後ろに立つ。
「なんで道がわかるほうが後ろ歩くんですか」
「道はわかってないけど、ムカつくからです」
「ぼくも後ろを歩かれるの好きじゃないんですけど。それで、どこへ向かえばいいんですか?」
答えはなく、仕方なくイヴは前を向いて道なりに歩き始めた。
「君は何も覚えてないんですよね」
エルは後ろをついてきていた。二歩分の距離が開いていた。目はイヴを見ていなかった。
いつものことだった。
「そうですね。思い出せません」
歩きながら答える。
「それで平気なんですか?」
「ぼくが何者なのかが分かったところで、大した意味はないと思うので」
「質問に答えてほしいんですけど」
「答えたつもりなんですが」
「何かを忘れたままで、よく平気で生きてられますね」
「そんなに大事なことだったんですか?」
「普通のヒトってそんなものなんですかね」
「特別な人の考えることってわかりませんね」
「君ごときに簡単に理解されちゃたまらないですよ」
「何を思い出したんですか?」
「自分のことと、世界のことですかね」
「よかったですね」
「思ってたのと違っただけで、ちゃんと自分は特別だったんですよ」
「なんでそんなふうに自分のことを特別だって信じられるんですか」
「経験じゃないですか」
「まあそこまで自分のことを特別なんて、普通の人は思えませんからね。そういう意味ではそう、特別ですね、たしかに」
「今までいろいろあったんですよ。そして自分はこんなことをしてる場合じゃないんです。世界には自分が必要です」
「何者なんですか」
「兄は今は何をしてるんですかね。幸せにはなってないといいです。自分がこんな目に遭ってるんですから」
「兄がいたんですか?」
「意外ですか?」
「むしろよく思い出せましたね。…どちらかというと、どんな親がいたら人間ってこうなるのかのほうが気になりますね。思い出したのなら教えてくださいよ」
「自分を捨てた親のことなんてどうでもいいんです」
「世界のことはどうでもよくないんですね」
「あ、でもなんで生んだのかは気になりますね。子供を捨てる親全員ですけど。自分は子供がいたことがないんですよね」
「まず長生きできないんでしょうね。イヨたちが、エルは育て方を間違えたかもしれないって言ったのを聞きましたよ」
「なんでそれが君の耳に入ったのかは疑問ですけど。育て方の問題じゃないのは断言します。どんな環境に生まれても自分は自分っていうの、本当は凄く安心するんです。自覚するたびにいい気分になれます」
「意味が分かりません。でもいい迷惑だとは言っておきます」
「自分が訊いたこと以外口を開かないでほしいんですけど」
「なんでですか?」
「ムカつくからです」
「いやです」
そのうち街に着いた。
「ここはどこですか?」
「クスラフネです。ぼくが来る必要ってあったんですか?」
「自分に訊かないでほしいんですけど」
「あなたが無理やり連れて来たんですけど」
「必要はあったけど、理由は知らないです」
「意味が分かりません」
「知らないんですよ。あと特別なのは自分だけでいいんです」
「凡人は余計なことに首を突っ込もうとするなってことですか」
「正解です」
エルは市場で仮面を買い、顔を覆うようにそれを着けた。
「ないよりはマシですね。後でちゃんとしたものを作ります」
「なんですか?それ」
「自分に話しかけるときは、最初に名乗ってもらえますか」
「どうしてですか?」
「誰に話しかけられてるのかわからないんですよ」
「そっちの問題でどうしてこっちの手間が増えるんですか。お金はどうするんですか?本当に旅をするつもりならこんなところで浪費していいんですか?」
「貯金があったのを思い出したんです」
「それ一体どこから現れたんですか」
「商売ですかね」
橋の下で見習いたちが魔法の訓練をしている。
「この地方の魔法は呪文があるんですね」
「みたいですね」
「そうしたほうがやりやすいんですかね」
「そうなんでしょうね。ぼくが魔法を使えない理由ってわかりますか?」
「知るわけないじゃないですか」
「じゃあエルのは?」
「自分は特別なんですよ。君にはあれもどういう意味かわかるんですか?」
「え?わからないんですか?」
「自分が訊いてるんですけど。君にとってはわかって当然なんですね。ムカつきますね。ほかにわかるヒトはいないと思いますよ」
不意に声が聞こえ、イヴが姿勢を低くした。2人がいた場所を鋭い風が過ぎた。
「…」
橋の下では、制御を誤った魔法が暴れていた。
イヴは立ち上がりながら振り返った。
「なんで避けろって言われたのに避けなかったんですか?」
エルはずれた仮面を直そうとして、やめた。外して手の上で回す。
「言われてたんですか?」
「あの叫んでたのが聞こえなかったんですか?」
「あの意味不明な呪文ですか。だから、わからないんですよ」
「ザレニ語ですよ。教えてあげましょうか?」
「興味ないです。あとなんで攻撃用の魔法の呪文が避けろなんですか」
「もとはと言えば、しょうもない勘違いですよ」
「なんで知ってるんですか?」
「さあ?」
少し考えて、イヴが何かを呟いた。それを聞いたエルが口を歪める。
「謝ってほしいんですけど」
「今の意味わかったんですか?」
「何を言ったかに関係なく謝ってほしいんですけど」
「いやです。冗談が通じない人って面倒ですね」
「君はどこかおかしいんですね」
「エルに言われたくありません」
「自分は特別なんです」
「それは何度も聞きました。特別って偉いんですか?」
「いやなこと訊きますね。君のことは、別に自分が連れて来たくて来たわけじゃないんですよ」
「誰かに命令でもされたって言うんですか」
「一人でいいなら一人で来てますよ。今からでも一人で行きたいんですけど。まったく、なんで自分がこんなことしなくちゃいけないんですかね」
「何が聞こえてるんですか」
「そのときの自分の身にもなってほしいです。やっぱり逃がす気はないんですかね」
「何がですか?」
「独り言です。どうせ君は自分の知りたいことは答えられないです。自分はそんなに悪いことをしたんですかね。罰があまりに重すぎると思うんですけど。何もしてないとは言えないにしても、ここまでのことをした覚えがないんですよね」
「世界はしたって言っています。反省していなかったぶんペナルティが足されたのかもしれませんよ」
「あれはそもそも世界に最初からあるルールのひとつで、機械的に動くシステムみたいなものだから、誰の意図も目的もないんだと思います」
「あるいは、反省するところが違うんじゃないですか?結果よりも、選んだ手段のほうに問題があったとかの可能性はないんですか?」
「?何言ってるんですか?」
エルは怪訝そうな顔をする。
「こっちのセリフです。一人で何を言ってるんですか。特別というのは、選ばれたということですか?」
口を閉じ、何に対してか頷きを一つ返して手帳を取り出す。
「…」
エルが隠すように向きを変え、イヴはまっすぐ後ろに下がった。
「でも、エルが何を見てるのか、気になります」
「…」
「どうして手帳を使うんですか?タダとかのほうが楽じゃないですか?」
顔を上げなかった。
書き込みを終えると手帳を閉じる。
イヴは振り向いた。
「全体はごちゃごちゃなのに、それぞれは信じられないくらい丁寧ですね」
「覗かないでほしいんですけど」
「どういう並びなんですか?それ」
「自分のルールがあるんです。ほかの誰にも理解できなくても、自分にとってだけは大事なんです」
「嬉しそうですね」
機嫌のよさそうなエルの笑顔を見ながらイヴは言った。
「タダってすごい便利だと思うんですけど。これができたのって災戦の直後でしたよね」
「先に生まれてれば自分が発明してたはずです」
エルの表情は変わらず、笑顔のまま言った。
「言うだけなら自由ですからね。今からでももっといいものを発明するとか、言ってみたらどうですか?」
イヴが言った。
エルは笑顔のまま舌打ちした。
いつの間にかエルがいなくなっていた。
イヴが見つけたとき、駒を持って画面に向かっていた。仮面を着け直していた。
近づいて、肩を叩こうとして、空振った。
「こんなことしている場合なんでしたっけ?」
「静かにしててほしいんですけど」
イヴは盤を覗き込んだ。駒が動く。
「エルはこういう勝負って好きなんですか?」
「勝つのは好きですね」
「これ勝つ気あります?」
「負ける気はないです」
「じゃあルールを知らないんですね」
「素人は口を挟まないでもらいたいですね」
「あまり詳しいわけでもないですけど、ぼくから見ても相手はちゃんと上手ですね」
「三止骨っていう定石らしいですね。地味です」
「知ってますか?定石ってちゃんと理由があるんですよ。みんなそうするのは強い手だからです。そのぶん対策もしやすいわけですが。この場面なら三海の馬を出せば相手は退くしかなくなりますね」
「そんなの誰にでもできるんですよ。自分は特別なんです」
「じゃあその、ふざけてるようにしか見えない手も裏択のつもりなんですか。実際相手は混乱してるでしょうね」
「自分にしかできないやり方で出し抜いたときは気分がいいですよ」
「それで負けたら意味不明なままですよ」
「君はあれ、黙れない呪いにでもかかってるんですか」
「何がしたいのかわかりませんよ。みっともないですよ。ダサいですよ」
「負ける気はないです」
「そんなに嫌いなのに定石を知っているんですね」
「避けるために決まってるじゃないですか。知らないまま既存の戦法を使ってて、勝ってからそのことに気づいたら、それはもう屈辱ですよ。引っ込んでろって言ってるんですけど」
勝負は長引いた。
「相手がかわいそうですよ」
「そう思うなら何かしてあげたらいいんじゃないですか」
「だからあなたを止めてるんです。もう勝ち目はないんですから、そろそろ負けを認めてください。往生際が悪いですよ」
「ほかを当たったらいいんじゃないですか」
「このゲーム、この段階まで進む前に、どちらかが降参して決着がつくものなんですよ」
「そこらへんのヒトの常識を押し付けないでほしいんですけど」
「これが特別な人間のすることですか?恥ずかしくないんですか」
「何がですか?」
「知り合いだと思われたくないので、ここでお別れしましょう。今までお世話になりました」
「残念ながら無理です。これ以上罪を重ねたら次はどうなるか、想像もつかないんですよ。問題なくなるまで、君は自分と一緒です」
画面に引き分けの文字が表れた。
「このゲームに引き分けってあったんですね」
「知らないんですか?両方動かせる駒がなくなるか、同じ手しか続かなくなるか、同時に降参すると引き分けです」
「最後のは本当に知りませんでした。これ勝ってないですけど、この決着には満足できてるんですか?」
「次は自分が勝ちます」
「やめましょう。ところで、いつ離れても問題なくなるんですか?」
「自分に訊かないでほしいんですけど。経験上、こういうのはその日のうちのこともあれば死ぬまでのこともあります。気休めは言わないから、期待しないことを勧めます」
「エルの絶望が理解できた気がします」
「千年早いんじゃないですか。兄に会えたらこのヒト預けたいんですけど」
「ぼくは一体何をしてこんな目に遭ってるんでしょう」
またこれですか。何度目ですか。慣れないですよ
因果ですかね。なんの因果なんですかね。腹が立ちますね、とても
(独り言)




