銀杏の芯と人手不足の代償
穏やかな時間は、唐突に引き裂かれた。
食後、女官たちがそれぞれの仕事に戻り始めた頃だった。
回廊の奥から、悲鳴にも似た悲痛な叫び声が響き渡った。
「きゃあああっ!誰か、誰か来て!」
「どうしたの!?……ひっ、嘘、吐血!?いや、これは……!」
私が慌てて声のする方へ駆けつけると、ひとりの若い女官が床にうずくまり、激しく咳き込んでいた。
彼女は腹部を両手で強く押さえ、苦悶の表情を浮かべている。
足元には吐瀉物が広がり、彼女の首筋から腕にかけては、見る間に赤々とした発疹(蕁麻疹)が浮かび上がっていた。
「痛い、お腹が……っ、気持ち悪い……!」
「しっかりして!ああ、どうしよう……!」
周囲を取り囲んだ女官たちの顔が、一瞬にして青ざめていく。
つい先日、月光宮を襲った毒殺未遂事件の記憶が、まざまざと彼女たちの脳裏に蘇ったのだ。
「また毒事件よ!誰かが食事に毒を盛ったんだわ!」
「間違いない、さっきのスープよ! あの中に毒が……!」
混乱は一瞬で伝染した。悲鳴が連鎖し、恐怖で泣き出す者もいる。
そして、恐怖はすぐに分かりやすい『標的』へと向かった。
「……あいつらよ。よそから来たあの二人が、配膳を手伝っていたじゃない!」
「そうよ、あの子たちがスープに何かを入れたに違いないわ!」
鋭い敵意を持った視線が、青ざめて立ち尽くす明苺と桂花へと突き刺さる。
明苺は「ち、違います、私たちは何も……っ!」と首を振りながら涙目になり、桂花は明苺を庇うように前に出たが、その顔には明らかな焦りの色が浮かんでいた。
せっかく和みかけていた空気が一転し、月光宮は不穏で暴力的な疑心暗鬼に飲み込まれようとしていた。
「——道を開けてください!!」
私は群衆を掻き分け、倒れた女官のそばへと膝をついた。
「凛花ちゃん……!」
怯える明苺の声を背中で聞きながら、私は冷静に倒れた女官の顔色を覗き込んだ。
脈を取り、呼吸の速さを確認する。さらに、周囲が顔を背ける中、私は床の吐瀉物に顔を近づけ、その『匂い』を慎重に嗅いだ。
(……甘酸っぱい胃酸の匂い。金属のような刺激臭も、アーモンドのような特有の毒の匂いもない。唇に青みが出ているわけでもないし、瞳孔の異常も見られない)
数秒の確認で、私は確信を持った。これは、悪意のある何者かが盛った『毒』ではない。
私はすぐに立ち上がり、鋭い声で指示を飛ばした。
「桂花!この方が今日、朝から何をどの順番で食べたか、それと体調がどうだったか、周りの人に聞いて急いで集めて!明苺は綺麗な布と水桶を用意して彼女の口元を拭いてあげて!」
「わ、わかった!」
「はいっ!」
私の迷いのない声にハッとした二人が、すぐに動き出す。
私もその足で厨房へと走り、残っていた『八宝安神湯』の鍋を覗き込んだ。
お玉で底の方をすくい上げ、残っている具材をじっと観察する。
ナツメ、クコの実、そして……鮮やかな薄緑色をした、たっぷりの『銀杏』。
私は指でその銀杏を一つ摘み上げ、半分に割って中身を確認した。
(……やっぱり。これだわ)
厨房から戻ると、桂花が息を切らして報告にきた。
「凛花!あの子、ここ数日心労でほとんどご飯が喉を通らなくて、胃が空っぽだったみたい。でも今日のスープは美味しくて、三杯もおかわりしたって……特に、底の方に沈んでた具をたくさん食べたらしいの!」
「ありがとう、桂花。十分よ」
私は一つ頷くと、不安と疑心で今にも爆発しそうな女官たちの方へ向き直り、凛と通る声で宣言した。
「皆さま、落ち着いてください。これは『毒』ではありません!」
ざわめきがピタリと止む。全員の視線が私に集中した。
「毒じゃないって……でも、あの子はあんなに苦しんで……!」
「ええ。ですが、これは誰かが故意に盛った毒ではなく、『食あたり』……厳密に言えば、銀杏の処理不足による軽い中毒症状です」
私は手に持っていた銀杏を皆に見えるように掲げた。
「銀杏は滋養強壮に優れていますが、元々微量な毒素を持っています。通常は薄皮を剥き、中の『胚軸(緑色の芯)』を丁寧に取り除いて、しっかりと加熱すれば問題ありません。大人なら数粒食べても平気です。……ですが」
私は厨房の奥をちらりと見た。
「現在、月光宮の厨房は深刻な人手不足。疲労と慌ただしさから、この芯を取り除く処理が不十分なまま、あるいはアク抜きが足りないまま鍋に入れてしまったのでしょう」
「そして彼女は、空腹で極端に胃腸が弱っていたところに、鍋の底に沈んでいた銀杏を大量に食べてしまった。その結果、許容量を超えて発疹や吐き気が引き起こされたのです」
私の論理的な説明に、厨房を担当していた女官がハッとして口元を押さえた。
「あ……時間がなくて、芯抜きを少し急いでしまったかも……」
「誰も悪くありません。極限まで疲労が溜まっていれば、誰にでも起こり得るミスです」
私が静かにそう告げると、明苺たちへ向けられていた疑いの視線はすっと消え失せ、代わりに安堵の吐息が部屋中に漏れた。
「すぐに解毒と、胃腸の熱を冷ます特製の茶を淹れます。甘草と生姜を急いで持ってきて!」
私は手早く茶を煎じ、苦しむ女官の背中をさすりながら少しずつ飲ませた。
解毒作用のある甘草と、胃を温める生姜の薬効が染み渡り、やがて女官の激しい吐き気と腹痛は嘘のようにスッと引いていった。赤い発疹も少しずつ薄らいでいく。
「……ありがとう、ございます。お腹の痛み、消えました……」
涙ぐみながらお礼を言う女官に、私は「ゆっくり休んでくださいね」と微笑みかけた。
その瞬間、月光宮の女官たちから「わぁっ……!」という歓声と拍手が沸き起こった。
「すごいわ凛花ちゃん! あの一瞬で原因を見抜くなんて!」
「疑ってごめんなさいね。あなたたちがいてくれて、本当に助かったわ……!」
泣きながら謝る女官たちに、明苺と桂花も「よかったぁ……!」とへたり込んで胸を撫で下ろしていた。
毒事件の恐怖に支配されていた月光宮の心を、真の知識と冷静さで救い出したこの日。
皆が私へ向ける視線は、単なる手伝いの下女へのそれではなく、命を預けるに足る『全幅の信頼』へと変わっていた。




