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毒味の下女は、素顔を隠して毒を喰らう  作者: 夜空
泥を纏いし毒味の下女

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月光宮の狂蝶と、薬師の罠

 後宮の奥深くに鎮座する「月光宮げっこうきゅう」。

 

 その名の通り、永遠に月の光に囚われたような静謐な宮だが、一歩足を踏み入れると、その静寂は安らぎではなく、じっとりとした死の予感に満ちていた。


「今日からこちらでお世話になります、凛花と申します」


 私は、わざと野暮ったく切り揃えた前髪で表情を完全に殺し、地味で冴えない下女としてその門をくぐった。


 かつて黒蓮こくれんという地獄で『完璧な道具』を演じ切っていた私にとって、無害な下働きの芝居など呼吸をするより簡単なことだ。


 案内された芙蓉フヨウ妃の寝所には、むせ返るような香料の匂いが淀んでいた。

 

 天蓋付きの寝台に横たわる妃は、かつての美貌を削ぎ落としたようにひどくやつれ、焦点の合わない目で虚空を見つめている。


「……ああ、また。また蝶々たちが、私を呼びに来たわ」


 妃が細い指先を宙にさまよわせる。だが、その先に蝶など一羽も飛んではいない。

 

 側に控える女官たちは「お可哀想に……」「得体の知れない呪いだわ」と袖で涙を拭っているが、私の鼻は、その芝居じみた空気の裏側に潜む強烈な『違和感』を鋭く捉えていた。


(沈香、白檀、それに……この甘ったるい粘り気のある匂い。間違いないわね)


 私は床を拭く雑用を装い、部屋の隅に置かれた香炉へと近づいた。

 灰の中に紛れ込んだ、わずかな結晶の燃えカス。


(『夢幻草むげんそう』の粉末。それも、ただの幻覚剤じゃない。肺をじわじわと腐らせ、眠るように死へ誘う、暗殺用の特級品だわ)


 黒蓮の教官が見れば「足がつきやすい三流の手口だ」と鼻で笑うだろうが、呪いや迷信がはびこるこの後宮においては、極めて有効な「見えない刃」として機能しているらしい。

 

 だが、私の薬師としての興味を引いたのは、その毒のさらに奥にあった。

 

 なぜ芙蓉妃は、数ある幻覚の中から『蝶』だけを見るのか。

 

 私は、寝台の横で妃の世話をするふりをして、枕元に置かれた化粧箱に目をやった。

 

 そこには、瑠璃色の蝶を模した繊細なかんざしが置かれている。一見すれば見事な工芸品だが、その羽の縁には、肉眼では捉えきれないほど微細な『鱗粉』が付着していた。


(なるほど。香炉で『夢幻草』を吸わせて脳を極限まで過敏にする。その上で、この簪に塗られた『誘発香』を嗅がせることで、特定のイメージ――つまり蝶の幻覚だけを脳に焼き付けるわけか。……手の込んだ嫌がらせだこと)


 この仕掛けの真の恐ろしさは、犯人が自ら手を下す必要がなく、「現場に居合わせなくてもいい」という点にある。

 

 だが、犯人は一つだけ致命的な計算違いをしていた。

 

 この宮に、毒を娯楽として愛でる『異常な薬師』が紛れ込んだことだ。


「……さて。あのお馬鹿さんは、どこに隠れているのかしら」


 その夜。私は自室で、叡明エイメイ様から「研究費」という名目で巻き上げた貴重な薬草を嬉々として調合していた。

 

 翌朝、私は月光宮の下女たちを集め、地味な顔にこれ以上ないほど「親切で気のいい下女の笑み」を貼り付けて言った。


「皆さん、お疲れ様です。芙蓉妃様のために夜通し看病されている皆様に、これ。……私が実家から持ってきた、秘伝の美肌白粉です。疲れが取れて、お顔の色がパッと明るくなりますよ」


 女官や下女たちは「あら、気が利く新入りじゃない」と疑いもせずにその白粉を手に取り、競い合うように自分の肌に塗りたくった。

 

 ……その白粉には、私が昨夜密かに抽出した『夢幻草』の中和剤……ではなく、「特定の誘発香と混ざった瞬間、効果を一時的に十倍に跳ね上げる」という悪魔のような増幅剤が混ぜてある。


 数時間後。

 月光宮の静寂を、一人の女官の絶叫が切り裂いた。


「いやぁぁぁ! 蝶が! 私の指から、無数の蝶が湧き出しているわぁぁぁ!!」


 妃の世話役を任されていた中年の女官が、自身の指を狂ったように掻きむしりながら、庭園を転げ回る。

 彼女が触れたもの。それは、彼女の懐に隠し持っていた「あの蝶の簪」の予備だった。

 

 指先に残っていた誘発香が増幅剤入りの白粉と凄まじい反応を起こし、十倍に膨れ上がった幻覚が彼女の脳を直撃したのだ。


 私は、回廊の太い柱の陰からその狂乱を眺め、持参した水筒の冷めた薬草茶を一口啜った。

 

 私は一日の食事を夜の一回しか摂らない主義なので、日中はこの茶で胃を整えるのが日課だ。


「……高星コウセイ様。犯人、あそこで踊っている方です。ずいぶんと派手な舞いですね」


 いつの間にか私の隣の影に立っていた高星様が、顔を青ざめさせ、痛む胃のあたりを強く押さえた。


「……凛花殿。あなたは時々、犯人よりも恐ろしいことを平気でしますね。もしあの白粉を、無関係の者が簪に触れて発症していたらどうするつもりだったのですか」

「大丈夫ですよ。あの簪には細工がしてあって、触り方を知らない素人が触れると指先に微かな棘が刺さるようになっています。それを知らずに平気で扱えるのは、仕掛け人である彼女だけです」

「そういう問題では……っ、はぁ……」


 高星様はこめかみを強く揉みほぐし、今日何度目か分からない深いため息を吐いた。


「褒め言葉として受け取っておきます。……さあ、高星様。胃薬を飲んだら、叡明様をお呼びください。ここからが本番ですよ」


 芙蓉妃を救い、背後に潜む「真の毒(黒幕)」を炙り出す。

 

 私の平穏なジャガイモ剥き生活は、また一歩、遠い彼方へと去っていった。

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