執政官の薬膳と、死を招く幻蝶
若き執政官・叡明の私室。
私は今、部屋の隅に置かれた豪奢な長椅子を「毒の試し」代わりに、後宮の下女たちから持ち込まれた数々の『嫌がらせ』の品々を嬉々として並べていた。
「……ふふ、ふふふっ」
私が怪しく笑いながら、毒の仕込まれた白粉の小瓶を振っていると、背後で静かに、だが重々しい音を立てて木の扉が開いた。
「……凛花殿。また、そのような物騒なものを広げて……」
現れたのは、叡明様の側近である高星様だった。
彼は眉間に深い皺を刻み、ひどく疲れた様子で、こめかみを指で強く揉みほぐしている。
「高星様。驚いて『火蠍の鱗粉』が舞ったら、それこそ一大事ですよ」
「火蠍!? ……やはり、それを送りつけられたのですか。すぐに処分してください。少しでも肌に触れれば、一生消えない火傷を負うことになります」
「捨てられませんよ、こんな貴重なもの」
私が「これを極上の美肌の薬に精製する」と能書きを垂れ、「恩人である三人の下女の指先が、今頃真っ黒に染まっているはずだ」と告げると、高星様は完全に言葉を失い、天井を仰いでから、今日何度目か分からない深いため息を吐いた。
「……あなたのその、毒に対する異常な執着。……叡明様が目をつけられるわけだ。私の胃の痛みがまた一つ増えそうですよ」
その時、部屋の奥から甘く、優雅な声が響いた。
「高星、そのあたりにしておいてやれ。……凛花、お前のその『能書き』はもう十分だ。……それよりも、約束のものはできているのだろうね?」
執務机に座る叡明様。表向きは輝くような笑みを浮かべているが、その顔色は相変わらず青白く、瞳の奥には限界を迎えた疲労が色濃く滲んでいる。
「分かってますよ、叡明様。……どうぞ、本日の夜食です」
私が重箱の蓋を開けた途端、暴力的なまでに食欲をそそる香りが部屋中に広がる。
「……なんだい、この毒々しい色は。私を殺す気かな?」
「ええ、半分は。中には、さっきの火蠍の鱗粉を極限まで薄めて煮詰めた出汁と、刺激の強い数種類の香辛料をたっぷりと」
「……正気ですか!? 叡明様、おやめください!」
高星様が血相を変えて止めに入ろうとしたが、叡明様は片手でそれを制した。
「ふふ、構わないよ高星。……私が彼女を買ったんだ。もしこれが真の毒だったとしても、彼女が私に飲ませるというのなら、喜んで飲み干してやろうじゃないか」
その瞳の奥に、獲物を捕らえたような、あるいは狂気にも似た甘い執着の色が揺れたのを、私は見逃さなかった。
薬師としての私の矜持を込めた一杯。
叡明様は不敵に笑いながら匙を手に取り、その赤いスープを一口、口に運んだ。
瞬間。彼の顔から天女のような「完璧な微笑み」が完全に剥がれ落ちた。
「…………っ!!」
彼は無言のまま、二口、三口と、優雅さなど微塵もない、まるで飢えた獣のような猛烈な勢いで粥をかき込み始めた。
(……あぁ)
そのなりふり構わず料理に没頭する食べ方を見た瞬間。私の胸の奥で、忘れることのない『あの雪の夜』の記憶が、一瞬だけチクリと痛んだ。私の料理を暗闇の中で無邪気に頬張ってくれた、あの見ず知らずの少年の笑顔が、重なった気がしたのだ。
「……喉が、焼ける。なのに、腹の底から何かがせり上がってくるようだ。……凛花、お前は……」
「それが『生きている感覚』ですよ。毒を恐れて何も食べないから、体も心も死にかけていたんです」
最後の一滴まで平らげた叡明様は、真っ白だった頬を微かに朱色に染め、そのまま椅子に深く沈み込んで目を閉じた。数分もしないうちに、無防備な寝息が聞こえ始める。
高星様が、目を丸くして立ち尽くしていた。
「……信じられん。あの方が、こんなに無防備に眠りにつかれるなんて」
高星様は、安らかな寝息を立てる叡明様を見て、安堵したように目尻を下げた。だがすぐに、その視線を恐ろしいものを見るかのように私へと向ける。
「……ここ半年以上、どれほど強い薬草を焚いても眠れずに苦しんでおられたというのに。凛花殿、あなた……一体あの方に何を盛ったのです?」
「毒は料理を生かす最高の隠し味であり、疲れ切った心身を癒やす最高の睡眠薬でもありますから。……さて、高星様。私の給金、今のうちに三倍に書き換えておいていただけますか?」
私がちゃっかりと指を三本立ててみせると、高星様はやれやれと首を振り、痛む胃のあたりを軽く押さえた。
「……凛花殿、犯人の特定については感謝します」
高星様は、手帳に犯人の下女の名を記しながら、その表情をこれまでにないほど険しくさせた。
「ですが……あなたに叡明様の専属を任せたのは、単に食事の管理だけが目的ではないのです。実は、後宮内で口にするのも憚られるような、奇妙な事態が起きています」
「……事態?」
私が首を傾げると、高星様は声を潜め、部屋の隅々まで警戒しながら話し始めた。
「ここ数ヶ月で、二人の妃が亡くなりました。表向きは『急性の衰弱死』とされていますが……」
「衰弱死。……それだけなら、後宮では珍しいことでもないでしょう?」
「ええ。ですが亡くなる直前、彼女たちは共通して、ある奇妙なことを口走っていたのです。『夜ごと、美しい蝶が舞う幻覚を見た』と」
「蝶の幻覚……」
「そして今、叡明様が最も案じられている寵妃、芙蓉妃にも同じ兆候が現れ始めました」
私は、手元にあった火蠍の白粉の瓶をじっと見つめた。
急性の衰弱死と、蝶の幻覚。
……そんな症状を引き起こす植物や薬物は、私の頭の中にある『暗殺の知識』の中に、いくつか心当たりがある。
「凛花殿。叡明様は、あなたのその『毒を愛でる異常な嗅覚』を頼りにされています。……芙蓉妃の身に何が起きているのか、探っていただけませんか?」
私は深いため息をついた。
「……はぁ。やっぱり、三倍の給金は安すぎましたね。命がいくつあっても足りない予感がします」
「……おねだりは、事件を解決してから叡明様に直接どうぞ。あの方は、役に立つ人間には驚くほど甘いですからね」
高星様はそう言って、芙蓉妃が住む「月光宮」への通行証を机に置いた。
私は通行証を指先で弄びながら、夜の闇が深まっていく後宮の空を見上げた。
「蝶の幻覚、ねぇ……。もし私の予想通りなら、それは病気でも呪いでもなくて、ただの『悪意に満ちた毒』ですよ」
私は地味な下女の服を整え、重い腰を上げた。
目立たずに過ごすはずだった馬鈴薯剥き生活は遠のくばかりだが、謎の毒の香りに誘われるように、私の足は自然と月光宮へと向かっていた。




