深夜の招待状、屋根裏の黒い蓮
皇帝の免罪を得た日の夜。
叡明様の私室は、重い香炉の煙と、主の規則正しい寝息に包まれていた。
彼は、私の手首に細い絹の糸を結び、それを自分の指に絡めて眠っていた。
私が一歩でもベッドから離れれば、彼が目を覚ます仕組みだ。
それほどまでに、彼は私を「外」へ出したくないらしい。
(……でも、兄様にはそんなの通用しないわね)
彼の規則正しい寝息が変わらないことを確認し、
私は、袖の中に隠していた極小の針を取り出し、結び目を解かずに糸だけを丁寧に切断した。
代わりにあらかじめ用意しておいた重し付きの替え糸を彼の指に絡める。
窓枠に、一羽の真っ黒な烏が止まった。
その脚に結ばれた小さな文には、幼い頃から見慣れた、鋭利な刃物のような筆致でこう記されていた。
『今夜、屋根裏で待っている。……お前の料理がなければ、私は今夜も眠れない』
私は音もなく寝室を抜け出し、天井の隠し梯子を登った。
埃っぽい屋根裏。月明かりが瓦の隙間から細く差し込むその場所に、男は悠然と座っていた。
「……来たか、凛花。私の鼻は、お前が持ってきた『毒の香り』を、一里先からでも嗅ぎ分けるぞ」
蓮夜は、瑠璃色の酒杯を弄びながら、冷ややかに微笑んだ。
その左目の蓮の刺青が、青白い月光に照らされて不気味に蠢く。
「……何の用ですか、兄様。私はもう、黒蓮の人間ではありません」
「嘘をつけ。お前の血管を流れるのは、あらゆる毒を慈しむ我が一族の血だ。……ほら、私のために持ってきたのだろう? お前が作った、あの『甘美な死』を」
私は無言で、懐から小さな紙包みを取り出した。
中には、黒檀のように黒く光る、小粒の砂糖菓子が入っている。
「『月見草の根』と『毒蠍の尾』を練り込んだ、特製の干菓子です。……今の兄様の、苛立ちを鎮めるにはちょうどいいでしょう?」
蓮夜は、その菓子を一つ摘み、愛おしそうに口に放り込んだ。
直後、彼の瞳に怪しい熱が灯る。
毒が神経を直接刺激し、暗殺者としての本能を覚醒させる――。
それは、私たち兄妹にしか分からない、狂った「癒やし」の時間だった。
「……ああ、これだ。これだけが、私の乾いた魂を潤してくれる。……凛花、あの執政官は、お前のこの『本質』を理解しているか?」
蓮夜は、音もなく私の目の前に詰め寄り、私の顎を冷たい指先で掬い上げた。
「あやつが愛しているのは、泥を落としたお前の『素顔』だろう。……だが、私が愛しているのは、毒を調合し、平然と死を配るお前の『中身』だ。……光の中にいる男に、闇の住人であるお前が救えると思うな」
「……」
「今夜は挨拶だ。……王太后はお前に執着している。そして私は、お前を奪い返す。……どちらの毒が先に回るか、楽しみだな」
蓮夜の姿が、一瞬で闇に溶けるように消えた。
後に残ったのは、甘い月見草の香りと、私の心臓を締め付けるような、冷たい「過去」の感触だけ。
私は梯子を降り、叡明様の隣へ戻った。
彼はまだ、偽の糸を握ったまま眠っている。
その寝顔は、ひどく無防備で、そしてどこか悲しげだった。
(……ごめんなさい、叡明様。私、やっぱり石ころにはなれそうにないわ)
私は、切った糸を再び結び直し、彼の隣で、決して明けることのない夜の闇を見つめ続けた。




