春の宴と、銀蛇の隠し味
その場所は、欲望と毒、そして高価な香料の匂いが混ざり合う「黄金の檻」だった。
大陸の覇を唱える大帝国の心臓部――後宮。
色鮮やかな絹の衣を纏った妃たちが、蝶のように舞う春園の宴。
その華やかな舞台から遠く離れた厨房の片隅で、凛花は一人、山のようなジャガイモと対峙していた。
「……はぁ。腰も指先も、もう限界」
凛花は、わざと野暮ったく切り揃えた前髪を、煤と泥を混ぜた化粧で汚れた手でかき上げた。
今の彼女は、どこにでもいる「冴えない下女」だ。目を引くような素肌は褐色の泥に隠し、宝石のような瞳は伏せて、ただの石ころになりきる。
それが、この伏魔殿で平穏を勝ち取る唯一の知恵だった。
(今日の宴のメインは鴨の焙り焼き……。あぁ、あの調理法じゃ火が強すぎるわね。脂の甘みを引き出すなら、もっと低温で、じっくりと……)
彼女の頭の中にあるのは、権力への野心ではない。ただひたすらに、食材と、そして「毒」への探究心だ。彼女にとって毒とは、人を殺める道具ではなく、料理に深みと緊張感を与える究極のスパイスだった。
その時。
宴席の静寂を切り裂くように、短い悲鳴と、銀の食器が床に転がる乾いた音が響いた。
「――麗妃様が! ど、毒だ! 誰か、御典医を!」
喧騒が、熱病のように一気に広がっていく。
近衛兵が走り、料理人たちが顔を真っ青にして平伏する中、凛花は混乱に乗じて、宴の給仕が放り出した「麗妃の飲みかけのスープ」の元へと滑り寄った。
(毒……? そんな無粋なこと、誰が……)
周囲の目を盗み、指先をスープに浸し、それを躊躇なく自身の舌に乗せる。
一瞬、舌の先を走る鋭い痺れ。それに続く、どこか懐かしい金属的な残り香。
「……あーあ。もったいない」
凛花は、誰にも聞こえないような小声で、毒づくように呟いた。
「これ、『銀蛇草』の根じゃない。毒なんて呼ぶにはおこがましいわ。確かに分量を間違えれば腹を下すし、神経を麻痺させるけど……。この時期の鴨肉と合わせれば、野性味を抑えて最高のコクを出してくれる隠し味なのに。この調理師、素材を殺してどうするのよ」
「――素材を殺した、か。それは『料理人』としての言葉か? それとも『毒殺者』としての言葉か?」
凛花の背筋を、氷の刃でなぞられたような冷たい緊張が走った。
ゆっくりと振り返ると、そこには月光を凝縮したような、この世のものとは思えない美貌の男が立っていた。
若き執政官、叡明。
冷徹な瞳は、泥に汚れた下女の仮面の奥を、確実に見抜こうとしていた。
「……め、滅相もございません。ただの、ジャガイモ剥きの独り言です」
凛花は慌てて額を地面に擦り付けたが、叡明は逃がさなかった。
彼は凛花の前に膝をつき、彼女の汚れた指先を、白い手袋をはめた手で強引に掬い上げた。
「面白い下女だ。……その指、スープに浸したな? 死すら恐れぬその無知か、あるいは……確信か。どちらだ」
叡明の瞳が、至近距離で凛花を射抜く。その瞳の奥には、深い疲労と、何者も信じられぬ者の孤独が張り付いていた。
凛花は、つい癖で、彼の顔色と肌の質感を鑑定してしまう。
(あぁ、この人。ひどい栄養失調。……さては、周りが敵だらけで、何も食べられていないのね)
職業病が、恐怖を上回った。
「……叡明様。お顔の色が、まるで幽霊のようですよ。そんな風に人を疑ってばかりでは、美食もただの砂を噛むようなものでしょう」
叡明が、驚愕に目を見開く。下女にこれほど不遜な口を叩かれたのは、彼にとっても初めてのことだったろう。
「……いいだろう。お前のその『舌』、私が買い上げよう」
叡明は、極上の、そして最も残酷な微笑を浮かべた。
「お前を今日から私の『毒味役』に任命する。……断れば、このスープに毒を盛った共犯者として、その首、明日には門に吊るすが?」
凛花は天を仰いだ。
平穏なジャガイモ剥き生活が、音を立てて崩れ去る。
だが、その絶望の裏側で、彼女の指先は、叡明の体調を整えるための「毒」をどう調合するか、勝手に考え始めていた。




