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SR満州戦記2  作者: 異不丸
第三章 八月一三日
19/33

五 北京


中華民国、北平市東城区、鐵獅子胡同


 北支那方面軍司令部の応接室で、高等官四等軍属の石川修孝は、二人の将軍と対峙していた。一人は大東亜省北京駐在公使の楠本実隆陸軍中将、もう一人は陸軍省特使で渉外部顧問の田中隆吉陸軍少将だ。陸士二四期歩兵科の楠本は満州国軍政部最高顧問を経て特命全権公使になった。陸士二十六期砲兵科の田中は陸軍省兵務局長が長い。二人とも特務・軍政畑の現役将官である。佐官相当でしかない石川だが、二人を相手に堂々と議論する。

 無条件降伏した支那派遣軍は、中華民国の指示により、隷下の全兵団の後退集結と武装解除の段取りを粛々と進めていた。しかし、北支那方面軍の一部、内蒙古の駐蒙軍と山西省の第一軍では事情が違った。内蒙古では、ソ連の満州侵攻と同時に外蒙軍が国境を越えて侵入して来た。山西省では、邦人居留民を集結させた省都太原市が中共軍に包囲されつつあった。どちらも戦闘状態にある。

 前司令官の下村定大将が陸軍大臣に就任のために帰京すると、駐蒙軍司令官の根本博中将が方面軍司令官を兼任することになった。しかし、現に外蒙・ソ連との戦線を開いている根本司令官は、北京に戻ったのは一度きりで、張家口の軍司令部に留まっていた。代わりに戦闘指揮所を飛行場の近くに前進させ、頻繁に高速の連絡機を往来させる。根本方面軍司令官の最優先命令は、邦人居留民の保護であった。


「理解してくれんか、石川次長」

「君はもう三等官だ、日本の行く末を考えてくれ」

 二人の将軍の口調は論争から説得に変わっていた。それだけ、石川が強情ということである。

「げふん。理解していますし、考えてもいます。その上で繰り返しますが、太原だけでは安心できません」

「むぅ」

「太原市に篭ろうというのではない。山西省北部と内蒙古を連結し一帯を守るのだ。鉄道は一時放棄するが空路がある」

「たしかに、中共軍は空軍も対空砲も持ちません」

 楠本中将の顔に笑みが戻った。ここぞと畳み込む。

「そうとも、空路の方が安全なのだ」

「しかし、運べる人員も貨物にも限りがあります。赤痢など伝染病の場合はどうします。山西軍は武器弾薬工場を持っていますが、薬剤工場はない」

「それでは、きりがない」

 三人が議論しているのは、正しく方面軍司令官の最優先命令に関してで、具体的には在支邦人の居場所についてであった。



 外地に居留する日本人の現地定着は、一貫して日本政府の方針であって、宇垣内閣も引き継いでいる。降伏して内地だけとなった今、帰国されても、職にも食にも限界があった。工場や市街は空襲で破壊されて勤め先はない。今年の農産は稀に見る不作であり、水産を得る海には機雷が撒かれて出漁できない。だいたい、降伏決定の理由の一つに飢饉と飢餓の問題があった。外地邦人が全員帰国すれば、内地の人口は一挙に一割も増加する。それでなくても、配給物資は乏しくなっていた。

 支那の日本人居留民には二通りがあった。大東亜戦争の前から住み着いて生計を立てていた者と、占領地拡大に伴って進出してきた者とである。前者には、会社や工場などの勤め人と、土地家屋を所有して農業や商業で自活する者とがある。後者には、占領地行政に従事する軍属と、軍人軍属を相手にする商売人とがいた。ポツダム宣言により軍人軍属は復員させねばならないから、後者は全員が引き揚げることになる。

 しかし、前者はもともと現地に定着していたし、戦後もそれを望んでいる。鉱工業や商業に携わる日本人がいなくなれば、それを前提にしていた地方経済が回らなくなり、電気・交通の機能が止まる。共産党との決着を急ぐ中華民国政府もそれは望んでいない。南京で行なわれた岡村総司令官との会談で、蒋介石総統から大胆な提案があった。条件つきながら後者の居住も一定数認めるという。


「北京居住は禁止されていません」

「そうなのだが、北山西と南内蒙に北京・天津を加えると、これを守る軍の負担は大きい」

「清朝末期から、やってきたではないですか」

 北清事変の終結で、列国は公使館周辺の警察権と往来拠点の駐兵権を得た。

「北京議定書による駐留は、紛争の種にもなった。連合国は権利を放棄するらしい」

 駐兵する軍隊には演習を行なう権利もあって、これが盧溝橋事件の遠因とも言えないことはない。石川の言葉には揶揄の響きもあったのだが、田中少将はあっさりと認めた。


 蒋介石の条件の一つに邦人居留地域の制限があり、北緯三十六度以北が原則だった。上海は含まれない。石川は居留民の立場を強調することにした。

「上海市から来る者に地方都市の太原での生活は耐えられません」

「整備すればいいじゃないか、計画はあった筈だ」

「それでは山西興業の思う壺です。上海居住の日本人は裕福であり、東京の上流社会に伝手を持っています」

「げふん。政治的なものは握りつぶす」

「政治的ねぇ。河本社長の狙いは経済的なものでしょう。つまり、上海成金の財産だ」

「げふんげふん。そういうことを許さんのが貴様たちの仕事だろう」

「もちろんです」

 石川はけろりと答える。言質は取った。さらに、山西興業の河本社長は一味の中では浮いているらしい。


 中華民国の首都は南京で、至近の上海から日本人がいなくなれば、それだけ紛争の種もなくなる。中共の勢力圏は北に多く、この機に南は安泰としたいと蒋介石は考えたのだろう。しかし、正当な権利を持つ定着邦人までつきあう道理はない。石川はもう少し押してみることにした。

「上海は海軍一派の巣窟です。この機に、海軍特務を潰すのですね」

 途端に、楠本と田中は真顔になった。

「戦後日本は民主的になる。陸軍だ、海軍だ、は許されない。だから、小玉機関と軍資金は内地に帰さない」

「それはかまいません。私の知るところではない」

 石川の言葉を聞いて、楠本と田中は顔を合わせる。

「そうだったな。うっかりしていた」

「石川君に伝え忘れていたことがある」



 二人は気付いた。石川は、華北に居留する邦人の処遇に責任を負う立場にあったが、所詮は一介の軍属である。必要な情報は方面軍司令部から下ろしてもらい、その中で任務にあたる。それ以外のことは知りようがなかった。

 一方、楠本と田中は現役将官で、階級相応の情報は黙っていても入ってくる。東京の本省とは直接の連絡があるから、方面軍や総軍より上位の事情も流れてくる。石川と二人とでは情報の量も、判断する基底も全く違った。話が噛み合う筈もない。さらに、二人は思い出した。石川は強情であり、教えてくださいと自分から言う人間ではない。


 楠本中将は茶を啜り、煙草を点けながら言う。

「マニラの吉田特使から急報があったらしい」

 田中少将も石川に向かい直る。

「一つには、あらためて対ソ戦闘の即時停止を要求されたと」

「満州と樺太、内蒙古もですか」

「そう、全面的、全戦線においてだ」

「連合国最高司令部としては当然の要求ですね」

 石川は取り出した煙草に火を点けた。

「たしかに、向こうの立場としてはそうだ」

「しかし、一旦停戦すると、ソ軍を止める手段はなくなってしまう」

「戦線は固定され、米軍が出て来るのでは」

 悠然と煙草をふかす石川を見て、楠本が告げる。

「もう一つの方が重要かもしれない。マッカーサー最高司令官はソ連軍に対する指揮権がないことを認めた」

「えっ」

 さすがに石川は顔色を変えた。



 ソ軍の満州侵攻と同時に、外蒙軍は内蒙古に侵入した。四個騎兵師団と一個機甲旅団からなる外蒙軍は、五個旅団のソ軍に後詰めされていた。駐蒙軍司令部は、独立混成第二旅団と第四独立警備隊を張家口から三十キロ北の張北に前進させ、自動車第二三連隊を居留民避退にあてた。それだけで駐蒙軍の戦力は出払ってしまったが、根本司令官は軍司令部で冷静に戦機をみていた。

 すでに三年前からソ連侵攻の際の、関東軍と駐蒙軍の協同体制は検討されている。駐蒙軍は外蒙国境の百キロ内側で持久するが、その防衛線には熱河省も含んでおり、航空支援は北支那方面軍で行なうというものだ。しかし、当時の通常師団、戦車師団、混成旅団それぞれ一個の戦力は、今は混成旅団と警備隊各一個と大きく減少していた。

 大本営は今年に入って、ソ連侵攻の脅威増大と関東軍の弱体化に対処するために、四個師団を支那から満州に移駐させることを決定していたが、支那派遣軍も駐蒙軍の増強を準備中であった。満ソ開戦を受けて増援は拡張された。二個師団、一個戦車師団、一個騎兵旅団が到着しつつあり、熱河省にいる関東軍の第一〇八師団も開戦と同時に隷下に入っていた。



「戦争はどうなります」

「それは軍に任せてくれ。総反撃を一日早めた」

「内蒙も満州も負けはしない。おそらく樺太もだ」

「支那総軍が国境を越えることは禁じられています」

「もちろんだ。日本軍が国境を越えることはない」

 石川は、しかし考える。四個兵団増強は内蒙古防衛だけとするにはやや過大だ。軍事には疎いが、機動力のある二個兵団の印象は強く引っかかる。一味はなにかを企んでいる。

「さて、十分に理解しただろう。本題に戻ろう」

「そうとも。居留地の件は君の部下に任せてよかろう。それより米中との懸案だ」

 石川は、大きく頷いて見せる。二人の将官は安堵したようで、鞄から書類を取り出した。石川も帳面を机の上に開く。


「とにかく、米軍には成案として提示したいのだ」

「中国とは相互に了解済みであるという体ですね」

「そのとおり。話が早くて助かる」

「で、どうだった。昨日の案は」

「問題ありません。実行できます。しかし、ずいぶんと譲歩するのですね」

「うむ。米国は油断できないが、中国とは運命共同体に近い」

「ほう。数日前とは様変わりですが」

 そこで、二人は顔を合わせ、目配せし合う。なにしろ、石川の性格のせいで一時間は時間を無駄にしている。能力は抜群だから他の者に代替できない。ならば、すべての情報を開示した上で話を進めるのが最良だ。そのことを、ここ数時間で二人は学習していた。



 田中特使は軽く咳払いをして、話し始めた。

「これは今だけの問題ではない、大所高所から日本の将来のことを考えて計画しているものだ」

 石川は素直に頷いた。

「この先も、日本人は海外に雄飛し活躍しなければならない。そのためにも今あるものはできるだけ残したい。居留邦人が持つ市民権、居住権、所有権や資産・動産だ。占領で獲得したと見做された場合は接収されてよいが、それ以外の財産は保持しておきたい」

「保持保有の形態は現状にこだわらない。代替不動産でもいいし、借用証書や証券の形でもいい。とにかく、可能な限りだ。これを確固として残せなかった場合、憾を千載に残すことになる。国も国民もな」

 石川は、それまでの態度とはまったく違って、軽く頭を下げ黙って聞いていた。二人の将官は頷き合い、自信を持って話を進める。

「日本の内地外地には、それぞれ連合国が進駐するが、それは割譲領有を意味するものではない。朝鮮は再独立となり、台湾は中華民国が領有すると思われるが、まだ決定した訳ではない。いずれにしても日本に発言権はない」


「満州は中華民国領となる。これは決定事項だ。しかし、進駐占領はソ連が行なう。これも決定事項だったが、今のところ不可能だ。関東軍が抗戦しているからだ」

 そこで、石川が顔を上げた。楠本が頷き、問題を投げる。

「支那派遣軍は総軍をあげて従っているから、まもなく中華民国は支那全土を回復する。その時、蒋介石の脅威は何か」

「中共、共産党とその保持する軍隊です」

 石川は難なく答えるが、質問は続く。

「勢力範囲はどうなっていると思うか」

「華南・華中は問題にならないが、華北では健在で有力」

「国共内戦はすでに再開している。蒋介石はどうしたらよい」

「延安を潰すべきです。そのための日本人義勇兵でしょう」

「よかろう」

 そう答えた楠本の顔は険しかった。



 ポツダム宣言では、軍隊は武装解除の上で各家庭に復員すべきとあり、再武装も許可されない。それは軍の解散を意味している。一般邦人に関しては何も言及がなかった。戦前からの居留民は支那での生活を継続したい者がほとんどで、また現地除隊後に家庭を持って定着したいと希望する兵隊も多い。それは政府の方針と合致していた。しかし、邦人保護は今までのようにいかない。不穏な情勢を見て出動・出兵させる軍がなくなるからだ。

 南京での蒋介石総統と岡村総司令官の会談は、それを解決するものだった。武装解除後、現地除隊した元兵隊たちで警備会社を組織する。それで邦人を含む一般個人や法人の警備保護を請け負う。中華民国政府から役務を請ける場合は政府機関に出向とし、警察予備隊の身分を与える。要するに、個人単位ではなく、団体での義勇兵募集である。


「第一期は、普通科隊員二百五十中隊、特科隊員五十中隊でしたね」

「それは、二個師団の歩兵、砲兵、工兵に等しい」

「第二期募集は第一期の倍。最終的には五十万名で二十個師団だ」

「支那総軍の半分の規模です。延安を潰すだけには多すぎます」

「警察任務もある。もともと駐屯兵団の任務は占領地の警察みたいなものだった」

「ずいぶんあからさまに言われますね」

「石川君は軍政部の県連絡員としてあちこちの現場に長く、実情に詳しい。隠しようがないし、それに一味だ」

「陸軍にはお世話になったし、軍機も話してもらいました。いまさら抜けようとは思っていません」

「さらに枢機を知ってもらう。一服点けたまえ」

「はい。お茶を換えて貰いましょう」



 しばらく雑談となった。話題は延安の件から長征の話になり、毛沢東の指導力と戦略眼、党員のしぶとさへと広がった。そこで突然、石川が沈黙した。何か熟考しているらしい。見る間に額に汗が浮かび、しまいに大声をあげた。

「あっ、そうか。満州か!」

 立ち上がった石川を、二人の将軍は黙って見つめる。

「満州を残すのですね」

「満州に残すのだ」

「わかりました、なるほど。あやうく嵌められるところだった」

 思わず口を滑らす石川を、二人はにやりと見つめる。

「なぜ問われなかったかを考えていました。まだ潜在だが満州こそ中共の大勢力地だ。ソ軍が占領した時、それは顕在化する」

 楠本と田中は真顔に戻って頷いた。


「山西省は囮で、河本社長は狂言だ。澄田司令官は芝居をしている。蒋介石の本命は満州だ。そうですね」

 石川は二人の返事を待たずに続ける。

「江西省囲剿で紅軍は瑞金を出た。今度も延安を出る。しかし、関東軍が防衛に成功すればソ連の進駐はない。それなのに、なぜですか」

 楠本公使が答える。

「ことは複雑で流動的なのだ。ポツダム宣言には署名国が追加される。つまり進駐に参加する国も増える。そして、割り振りはまだ決していない」

 勢いを削がれ、石川は座った。

「連合国の話ですか」

「連合国は国の連合であって、連合軍ではない。米国もそうで、陸海どころか、国務省内でさえ一枚岩ではないのだ」



 田中特使が石川に歩み寄り、綴りを一冊渡して背を叩く。

「これを読んでくれ。米との交渉には必要だ、嵌められないようにな」

 表題には『日本人改造計画』とあって、石川は呟く。

「日本改造計画ではなく日本人改造計画ですか」

「その方が内容にふさわしい。哈特が入手して終戦処理会議の下で分析中だ。元の題名は『敗北後における米国の初期の対日方針』で、米国務省が六月に立案したものだ」

「ポツダム宣言の前だから、日本国の無条件降伏を前提としている。それだけは注意してくれよ。三十頁だから、明日の交渉には間に合うだろう」

「それを読んだら、もう一味ではない。戦友だ」

 見ると、石川の表情は明るくなり、笑みまで浮かべていた。二人の将軍は頭を振る。


「さて、もう少しだ。今日の本題を終わらせようか」

「一つだけ教えてください」

「かまわんが、手短にな」

「甘粕さんの目的は満州国を残すことだった筈ですが」

 田中少将は小さく頷くと、ゆっくりと答えた。

「満州国は国としてあるために宣戦した。それゆえに滅びるが、国としてあった事実は残る。それは将来に重要だ。同じ民族で異なる国家というのは世界に数多あるし、多民族国家はさらに多い」

「そうですね」

 石川は納得したようだった。






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