3
夢の中で、洸は平安貴族だった。
ある屋敷に入っていくと、歌を口ずさみながら、ひとりの姫が舞を舞っている。
青い衣から透ける、抜けるように白い肌の飛香が、楽しそうに踊る。
――飛香……。
ヒヤリと額が冷たい。
「大丈夫ですか?」
目覚めと共に、目に写ったのは心配そうに覗き込む飛香の顔だった。
「いつからそこにいたの?」
「一時間くらい前からです」
飛香はそう言いながら洸の額に手を当てた。
「お熱は少し下がったみたいですね。よかった。朝になっても下がらないようなら念のため入院っていうお話だったんです」
いつの間にか熟睡して夜は明けていたのだろう、外は明るくなっていた。
「大げさだ」と言いながら起き上がろうとすると、飛香が止めた。
「だめです! もう少し寝てなきゃ。せめてサワさんが朝食を持ってくるまでは横になっていてください」
無理に起きる理由もない。おとなしく浮かせかけた体をそのまま横たえた。
それを待ちかまえたように、飛香はまた洸の額のタオルを整える。
「こんな時に帰らなきゃいけないなんて」
飛香の瞳が潤んで見えるのはまだ熱がある証拠なのかもしれないと思いながら、また戯言が口をついて出た。
「帰らないで、ずっとここにいたらいい」
そう言いながら、飛香の頬に手を伸ばそうとしたその時だった。
コンコン
沈黙を破るノック音が響く。
いつだって邪魔というのは肝心な時を狙って来る。洸は溜め息をついて、伸ばしかけた手を下ろした。
「お兄さま」
「洸、具合はどうなんだ?」
入ってきたのは飛香の兄碧斗とアラキだった。
「あぁ、もう下がったよ。お迎えご苦労さん」
起き上がった洸はうぅーっと唸りながら上に腕を伸ばす。
「お土産に。とてもいいワインを頂きました」
「そ、ありがとね」
「じゃあ、あとで改めて会いに来る。お大事に」
碧斗はそう言って、さあ、と飛香を連れて部屋を出て行った。
廊下に一歩出たところで振り返った飛香は、深々と頭を下げて、ニッと笑顔を作り、そっと手を振った。
最後に残ったアラキも、微かな笑みを残し扉の向こうに消えてゆく。
ポツンと宙に浮いたのは、飛香に向かって振り返した手。バタッとその手を下ろし、洸は倒れ込むようにまたベッドに横になった。
――寝よう。
目が覚めた時には、いつもと同じ朝が待っているに違いない。
――何も問題ない。
全ては夢だ。熱がもたらしたただの夢。
朝になれば、きれいさっぱり忘れる。
だから大丈夫……。
次の日の朝、普段通りに目覚めた洸は、普段通りに起きた。
昨夜は熱も上がらなかったし、頭は少し重たく感じたが寝覚めもそう悪くはない。そのままシャワーを浴びて、ガウンを羽織ったままリビングに行った。
するとそこには、アラキと話をしている鈴木がいた。
「大丈夫ですか?」
「え? いたの」
鈴木は既にスーツを着ている。
「体調が良くないと聞いたものですから、状況次第では予定を変更しようと思いまして」
「あぁ、それなら変更の必要はないよ、大丈夫。もうすっかり良くなった」
「そうですか、大事に至らなくてよかったです」
アラキが立ち上がった。
「では朝食にしましょう。どうぞ鈴木さんもご一緒に」
「すみません、ありがとうございます」
そこにいるはずの洸の母とサワの姿がない。
「もう行ったの?」
「ええ、今頃ニューヨーク行きの便に乗った頃だと思います。洸さまがよくお休みになっていたので、よろしく伝えてとおっしゃっておりました」
「そっか。すっかり男所帯になってしまったな」
「ええ。火が消えたように」
飛香がこの家を出たのが昨日。
更にこの家で暮らす女性二人がいなくなったとなれば、邸に残るのは洸とアラキ、通いの使用人のみである。
他に警備員はいるがむさくるしい男に違いなく、華やぐとは言えない。
「寂しいですね」と鈴木が言った。
「ま、いいんじゃないの。静かで」
洸が言ったその答えは強気なわりに力はなく、負け惜しみのように空しく響いた。




