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本来私のものだった奨学金が、彼氏から女友達への留学祝いになっていました  作者: 熾星


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1/2

本来私のものだった奨学金が、彼氏から女友達への留学祝いになっていました


新学期初日、青葉工科大学の奨学金候補者が発表された。


 水野清香、GPA3.78――一位。


 私のGPAは3.92。


 なのに、私の名前はなかった。


 LINEで確認すると、送ったメッセージは三度とも削除された。


 消したのは、彼氏の橘悠斗だった。


「日和、今年は清香に譲ってくれないか。あいつには交換留学のチャンスが必要なんだ」


「……私の書類、出さなかったの?」


 悠斗は否定しなかった。


「三十万くらい、バイトすれば何とかなるだろ」


 その直後、彼から三千円が振り込まれた。


 そしてInstagramには、清香の新しい投稿。


【悠斗から留学祝い♡】


 写真には、BVLGARIのネックレス。


 私は手首の安いブレスレットを外し、ゴミ箱へ落とした。


 壊れたものは、早めに捨てたほうがいい。



1



 その日の夕方、悠斗が学科のオープンチャットにメッセージを投稿した。


 青葉駅近くの高級ホテルにあるレストランで、清香の交換留学推薦を祝う食事会を開くらしい。


「橘、今日はずいぶん太っ腹だな」


「清香、留学から帰ったら今度は奢ってよ」


 チャットが一気に賑やかになった。


 すぐに清香が私をメンションする。


「日和ちゃんも絶対来てね!」


 もう彼女と関わりたくなかった。


 幸い、ほかの学生たちのメッセージですぐに流れていったので、返事をせず、着替えてアルバイト先のカフェへ向かった。


 レジに立ったばかりで、まだ最初の「いらっしゃいませ」さえ言っていなかった。


 店のドアが開き、悠斗が花束を抱えて入ってきた。


 私を見つけると、目に見えてほっとした顔をしてカウンターまで歩いてくる。


「日和、まだ怒ってる?」


「今回のことは、俺のやり方も悪かった。でも俺なりに理由があったんだ」


 差し出されたのは、きれいな黄色いバラだった。


 私は何度も言っている。


 好きなのは、ひまわり。


 黄色いバラが好きなのは清香だった。


 私は受け取らなかった。


「ご注文されないのでしたら、後ろのお客様の邪魔になりますので」


 悠斗の顔が固まった。


 結局、花束をカウンターの端に置く。


「日和、前からお母さんが俺に会いたがってるって言ってただろ」


「二日後、一緒に病院へ行こう。俺が顔を見せたら、お母さんも少し元気になるんじゃないか?」


 手にしていたコーヒーカップが止まった。


 悠斗のほうを見る。


 彼が自分から母に会うと言ったのは、初めてだった。


 母は何度も悠斗のことを話していた。


 身体が弱っていくにつれ、自分に残された時間を気にするようになり、娘が三年間付き合っている相手を一度くらい見ておきたい、と言っていた。


 私も何度か悠斗に頼んだ。


 でも、そのたびに何かが起きた。


 だから、いつしか私から言わなくなった。


 反応した私を見て、悠斗が手を握る。


「明後日でいい?」


「お母さんだって、気持ちが明るくなったほうが回復にもいいだろ」


 掌から伝わる温かさに、三年前の悠斗を思い出した。


 大学へ入ったばかりの頃、私は飲食店でアルバイトをしていた。


 店長が給料を払ってくれず、地方の小さな町から出てきたばかりだった私はどうしていいか分からなくて、店の前で泣くことしかできなかった。


 そんな私に声をかけたのが悠斗だった。


 労働相談窓口へ電話するのを手伝い、シフト表やメッセージの履歴をまとめてくれた。


 そして店長に、払わないなら資料を提出すると言ってくれた。


 ようやく私は、働いた分の給料を受け取ることができた。


 そのあとも悠斗は、電車の乗り方から大学の手続きまで、都会で私が困るたびに助けてくれた。


 長い間、母以外では、彼だけが私の安心できる場所だった。


 だから、その場ですぐ突き放すことができなかった。


「明後日でいいよ」


 小さく答えた。


 明後日は、私にとって特別な日でもあった。


 悠斗は目に見えて安心した。


 黄色いバラを私の腕へ押しつけるように渡し、笑う。


「やっぱり日和は、本気で怒ってるわけじゃないと思ってた」


「清香も、今日の会に日和が来ないかもって心配しててさ。ちゃんと機嫌直してもらってって頼まれたんだ」


 花を受け取った手が止まった。


「どういう意味?」


 悠斗は私の顔色に気づかないまま、テーブルのQRコードを読み取り、飲み物を一つ注文した。


「日和って、たまに本当に空気読めないよな」


「清香がみんなの前でメンションしたのに、返事しなかっただろ。あれじゃ清香だって気まずい」


「それでも清香は全然怒ってないし、俺に日和の様子を見に行ってって言ってくれたんだぞ」


 当然のような顔で続ける。


「だから今夜は絶対来いよ」


「そうしないと、奨学金を取れなかったから清香に当たってるって思われるだろ」


 目の奥が熱くなった。


 ずっと堪えていた涙が、とうとう落ちた。


 店内の冷房は心地よいはずなのに、身体の芯まで冷えていく。


 私を慰めに来たのではなかった。


 清香の祝賀会に私を出席させるために来ただけだった。


 ようやく母に会うと言ってくれたことさえ、私の機嫌を直すための餌にすぎなかった。


 悠斗は私が泣くのを見ると、反射的に頬へ手を伸ばした。


 今度は顔を背けた。


 彼はため息をつく。


「日和、いつまでそんなに感情的なんだよ」


「社会に出たら、嫌でも人と上手く付き合っていかなきゃいけないんだぞ」


 出来上がった飲み物を私の前へ置いた。


「日和の分。ちゃんと飲めよ」


 そう言い残して出ていった。


 同僚はずっと黙っていた。


 悠斗が見えなくなってから、テーブルのカップを見て、遠慮がちに声をかける。


「相原さん……これ、マンゴーのドリンクじゃない?」


 私を見る。


「マンゴー、アレルギーじゃなかった?」


 涙を拭った。


 カップを手に取る。


「大丈夫」


「自分で捨てるから」



2



 アルバイトが終わると、いつものように青葉市立医療センターへ向かった。


 看護師さんが病室を出たばかりで、母はベッドの上で身体の向きを変えようとしていた。痛みが走ったのか、一瞬眉を寄せる。それでも私に気づくと、すぐ笑った。


「日和、来たの?」


「今日はなんだか元気ないね」


 それだけで鼻の奥がつんとした。


 ベッド脇に座り、母の胸元へ顔を埋める。


「何でもないよ」


「今日、バイトがちょっと疲れただけ」


 母は何も聞かなかった。


 子どもの頃と同じように、何度も髪を撫でてくれた。


 しばらくして涙を拭い、顔を上げる。


「お母さん、白峰市に行こう」


「白峰医科大学附属病院なら、今より専門の先生も多いし……」


 一度言葉を切った。


「私も、もう青葉市にいたくない」


 母は少し驚いたようだった。


「悠斗くんも一緒に行くの?」


 胸の奥が重くなる。


 視線を落とした。


「行かないよ」


「もう、同じ道を歩いてないから」


 三年生の夏、私は白峰科学大学のサマーリサーチプログラムに参加したことがある。


 担当だった榊原真紀先生は私の研究の進め方を気に入ってくれて、終了時に、卒業後は自分の研究室の修士課程を受けてみないかと声をかけてくれた。


 でも、その時は断った。


 悠斗が海外企業のインターンに参加する予定で、交換留学にも応募しようとしていたからだ。


 大学の海外派遣制度の資料を手に、彼は嬉しそうに言った。


「日和も推薦取れたら、同じ国にいられるかもしれない」


「そうしたら離れなくて済むだろ?」


 私は自分の成績を何度も計算した。


 そして榊原先生の誘いを断った。


「彼氏と同じところまで行ってみたいんです」


 あの時は、笑ってそう言った。


 榊原先生は残念そうだったけれど、気が変わったらいつでも連絡して、と言ってくれた。


 今になって思う。


 いつから悠斗の進む道は、私の地図から外れていたのだろう。


 あるいは最初から。


 彼の未来の設計図に、私は入っていなかったのかもしれない。


 スマートフォンが鳴った。


 悠斗だった。


 母が心配そうに見ている。


 目の前で喧嘩したくなくて、仕方なく電話に出た。


「日和、店の場所送ったから」


「俺は先に清香と美容院寄ってくる。今日は主役なんだから、少しくらいちゃんとして行かないとな」


「ケーキ、途中で受け取ってきて。あとは自分で来てくれ」


 数秒黙った。


「分かった」


 電話を切った。


 病院を出ると、雨が降り始めていた。


 タクシーを呼ぼうとしたが、近くに空車がなく、スマートフォンには「迎車まで40分以上」と表示されている。


 雨脚はどんどん強くなる。


 悠斗に電話した。


 出ない。


 四十分。


 一時間。


 ようやく自分でタクシーをつかまえた頃、悠斗から折り返しが来た。


 向こうはかなり騒がしかった。


 どの個室か尋ねても、聞こえていないようだった。


 すると突然、大勢の声が聞こえる。


「王様ゲーム負けた!」


「清香、罰ゲーム!」


「橘にキスしろよ!」


 笑い声と悲鳴のような歓声が重なった。


 数秒後。


「日和、何て言った? うるさくて聞こえなかった」


 悠斗の声が戻ってきた。


 ちょうどその時、店員が個室の扉を開けてくれた。


 私は入口に立った。


 短いスカートを履いた清香が、悠斗にほとんど身体ごともたれかかっている。


 悠斗は片腕を彼女の腰に回し、もう片方の手には私と通話中のスマートフォン。


 二人はキスをしていた。


 あれほど騒がしかった個室が、一瞬で静かになった。


 空調の音だけが聞こえた。


 悠斗が異変に気づき、振り返る。


 私を見た途端、慌てて清香を離した。


「日和、違う。これは――」


 清香も立ち上がる。


「日和ちゃん、誤解しないで!」


「王様ゲームで私が負けて、みんなが誰か選べって……」


「私、悠斗と一番仲いいから、それで……」


 私の腕をつかもうとする。


 一歩後ろへ下がった。


 その手がテーブルの酒瓶に当たる。


 瓶が床へ落ち、粉々になった。


 私と清香は同時に身をかがめた。


 破片が清香の脚を切る。


 私の脚にも刺さった。


 清香が悲鳴を上げる。


 悠斗はすぐに彼女へ駆け寄り、その身体を抱き上げた。


「動くな!」


「病院に連れていく」


 清香を抱え、出口へ向かう。


 私には一度も目を向けなかった。


 脚の傷を手で押さえた。


 指の間から血が滲んでいく。


 遠ざかる背中を見ていると、不思議なくらい頭の中が静かになった。


「橘悠斗」


 彼が止まった。


「別れよう」


 悠斗の表情が一気に険しくなる。


「相原日和、いい加減にしろ」


「こんな時まで感情的になるなよ」


 清香が腕の中で目を潤ませた。


「悠斗、私が悪いの」


「私のことはいいから。自分で病院へ行けるし、日和ちゃんと喧嘩しないで」


 思わず笑った。


 壁につかまり、ゆっくり立ち上がる。


 その時になって、悠斗は私の脚からも血が流れていることに気づいた。


 一瞬迷った顔をする。


 ちょうど清香が痛そうに息を呑んだ。


 結局、悠斗は何も言わず彼女を抱いたまま出ていった。


 私は足を引きずりながらホテルを出た。


 軒下でスマートフォンを取り出し、ずっと連絡していなかった番号を探す。


 すぐにつながった。


「榊原先生」


「相原日和です」


 深く息を吸った。


「以前、先生の研究室を受けてみないかと声をかけていただいたこと、覚えていますか?」


「今から準備しても、まだ間に合いますか?」


 電話の向こうが一瞬静かになる。


 すぐに、嬉しそうな声が返ってきた。


「もちろん覚えてる」


「推薦入試の出願にはまだ間に合うわ。まず研究計画書を送って」


「本気で来るつもりなら、そのあとのことは一緒に考えましょう」


 電話を切った。


 手を軒先から外へ伸ばす。


 雨はもう止んでいた。


 湿った空気には、土と木の葉の匂いが混じっている。


 長く息を吐いた。


 初めて思った。


 誰か一人から離れることは、想像していたほど怖いことではないのかもしれない。



3



 翌朝、榊原先生から白峰科学大学大学院の推薦入試要項と、研究室の短期研究プログラムについての資料が届いた。


 まだ間に合うから焦らなくていい、と書いてあった。


 研究計画と推薦書類に問題がなければ、まず面談と選考を受ける。青葉工科大学側の許可が下りれば、卒業前の最終学期から学外研究プログラムの学生として榊原研究室へ参加することもできるらしい。


 さらに短期研究プログラムには、生活支援を目的とした研究奨励金制度があった。


 榊原先生は、条件を満たせるようなら申請してみようと言ってくれた。


 数日後。


 白峰科学大学から、支援申請が認められたという連絡が来た。


 口座に振り込まれた最初の研究奨励金を見ながら、私は初めて「安心」というものを具体的に理解した気がした。


 人生が突然崩れた時。


 それでも、自分の足で次の一歩を踏み出せる。


 そのための力こそ、安心なのだ。


 榊原先生から電話が来た。


「日和、お母さんの転院の件、白峰医科大学附属病院に知り合いの先生がいるから相談してみたの」


「今の主治医の先生が必要と判断すれば、病院同士の地域医療連携で手続きを進められるそうよ」


「必要な書類だけ準備して。全部一人で抱え込まなくていいから」


 スマートフォンを持ったまま、反射的に何度も頭を下げた。


「先生、本当にありがとうございます」


 向こうで笑う。


「ちゃんと戻ってきてくれてよかった」


「いい学生を二度も逃したくないもの」


 私は急いで病院へ向かった。


 入院棟のロビーへ入ると、向こうから悠斗が清香を支えながら歩いてくる。


 脚には新しい包帯が巻かれていた。


「日和ちゃん」


 清香がすぐ笑う。


「悠斗が、傷の処置に付き添ってくれたの」


「うちの母からも、昔から私のことよろしくって頼まれてるから」


 悠斗は否定しなかった。


 ただ、少し不機嫌そうに私を見る。


「明後日、お母さんに会いに行くって話だっただろ?」


「何で今日来てるんだよ」


「俺、予定を急に変えられるの好きじゃないって知ってるだろ。今日は予定あるから、お母さんのところには行かないぞ」


 私は言いかけて、やめた。


 悠斗がそんなに「予定」を大切にする人だとは知らなかった。


 私との予定だけは、一度もまともに守らなかったから。


 一度目。


 ゼミのコンテストでトラブルが起きたと言った。


 母は体調が悪い中、料理をたくさん作って待っていた。


 二人で三日かけて食べた。


 二度目。


 学生団体の当番が急に入ったと言った。


 母と二人でレストランの閉店まで待った。


 三度目。


 体調が悪く、母にうつしたら困るから行けないと言った。


 ずっとあとになって、悠斗のスマートフォンの予定メモから本当のことを知った。


 コンテストのトラブルは、清香が実験データをなくし、悠斗が後始末をしていた。


 学生団体の当番は、清香が落ち込んでいたから夜遅くまで一緒にいた。


 体調が悪いというのも嘘だった。


 生理痛のひどい清香を、一晩中彼女の部屋で看病していた。


 問い詰めた時、悠斗は必死に説明した。


 清香とは子どもの頃から隣近所で育った。


 母親同士も知り合いだ。


 目の前で清香の母親に電話までかけた。


「俺は本当に、妹みたいに思ってるだけなんだ」


 その言葉を信じたかった。


 だから、それ以降は聞かなかった。


 でも今はもう。


 どうでもよかった。


「勘違いしないで」


 バッグを肩に掛け直す。


「母の転院手続きに来ただけだから」


 悠斗の眉が寄った。


「転院? そんな金どこにあったんだよ」


 私は笑った。


「もう橘くんには関係ないでしょう?」


 清香が前に出てきた。


 手に白い封筒を持っている。


「日和ちゃん、無理しなくていいよ」


「昨日、本当はちゃんと謝りたかったんだけど、私が怪我したあと悠斗がずっとついててくれて、考えすぎるなって言われて……」


 封筒をこちらへ差し出す。


「三十万円入ってる」


「私のお金だから、先にお母さんのために使って。返さなくていいよ」


 封筒を見た。


 笑いそうになった。


 本来なら、自分の成績で受け取れるはずだった額。


 今は彼女から差し出される「善意」になっている。


 私は押し返した。


「いらない」


「自分のお金じゃないものは、受け取らない」


 清香が何か言おうとする。


 悠斗が彼女を後ろへかばった。


「清香は善意で言ってるんだぞ」


「日和はどうして、いちいち人の言葉を悪く取るんだよ」


 疲れたように続ける。


「俺たちは日和の家族じゃないんだ。毎回日和の感情に付き合う義務なんてないだろ」


 顔を上げた。


 もう視線を逸らさない。


「そう」


「じゃあ、彼女が怪我したからって、私の彼氏が一晩中付き添ったのも善意?」


「私の奨学金の書類をわざと提出しなかったのも善意なの?」


 人通りの多いロビーだった。


 声は自然と周囲にも届いた。


 何人かがこちらを見る。


 清香の顔が赤くなり、すぐに涙が浮かんだ。


「日和ちゃん、私はお母さんを助けたかっただけなのに」


「どうして私が何かを奪ったみたいに言うの?」


 また封筒を差し出してきた。


 押し返そうと手を伸ばす。


 指先が触れる寸前。


 清香が突然、自分から後ろへ倒れた。


 床に尻もちをつく。


 周囲の何人かがスマートフォンを向けた。


 悠斗の顔色が変わった。


 私を強く押しのけ、清香の前に立つ。


「相原日和」


「何でお前がいると、いつもこんな面倒なことになるんだよ」


 よろめいて一歩下がった。


 昨日、ガラスで切った傷が開く。


 温かいものが脚を伝った。


 でも、痛みは感じなかった。


 付き合い始めた頃。


 悠斗は言った。


「困ったことがあったら俺に言え」


「全部一緒に解決するから」


 今では。


 私自身が、彼にとっての「面倒なこと」だった。


「橘悠斗」


 まっすぐ見る。


「私たちはもう別れたの」


「もう私にそんな言い方する権利ないよ」


 悠斗が深いため息をついた。


「日和、もうやめろよ。いつまで怒ってるんだ」


 そう言って、清香の手を取る。


 そのまま二人で去っていった。


 スマートフォンが光った。


 榊原先生からのメッセージ。


【研究計画書、読みました。大学側とも確認できたので推薦選考は予定どおり進められます。明後日、白峰に来られる? 一度直接話しましょう】


 画面を閉じた。


 明後日。


 悠斗がようやく母に会うと約束した日でもある。


 彼は何度も約束を破った。


 今度は。


 私が行かなくてもいいだろう。



4



 脚をもう一度処置してもらい、寮へ戻った。


 ルームメイトたちがすぐ集まってきた。


「日和、大丈夫?」


「水野さんと揉めたの?」


「どういうこと?」


 一人がスマートフォンを見せてきた。


 学生の間でよく見られている匿名のXアカウントに、投稿が上がっていた。


【情報工学科四年の女子学生、海外奨学金を取られたことを逆恨みし、病院で同級生を突き飛ばす】


 短い動画が添付されている。


 私が清香へ手を伸ばした瞬間から始まり。


 清香が倒れ。


 悠斗が私を押しのける。


 きれいに編集されていた。


 そこだけ見れば。


 自分でさえ、私がわざと清香を突き飛ばしたように見えた。


 投稿は急速に広がった。


 ほどなく大学の学生支援課から電話が来る。


「相原日和さんですね。インターネット上の動画について確認されていますか?」


「見ました。でも実際の状況は違います」


「正式な申し出が届いています。明日、一度学生支援課へお越しください」


 電話が切れた。


 部屋が静かになる。


 ルームメイトたちは互いに顔を見合わせていた。


 無理もない。


 あの動画だけなら、誰でもそう思う。


 翌朝。


 まず私は一人で学生支援課の面談室へ呼ばれた。


 担当職員と学生委員の教員に、最初から事情を説明する。


「私は水野さんを押していません」


「病院のロビーには防犯カメラがありますし、周囲に最初から撮影していた人もいました」


「ネットの映像は途中から切り取られています。全体を確認してもらえれば分かるはずです」


 そのあと、清香も別室で事情を聞かれた。


 二人の説明が食い違ったため、現場にいた目撃者として悠斗も呼ばれた。


 しばらくして三人が同じ部屋へ入る。


 清香は私と目が合うなり、目を潤ませた。


「先生、私はもう大丈夫です」


「日和ちゃんも怪我してたし、最近いろいろ大変だったみたいだから、責めるつもりはありません」


 担当者が悠斗へ尋ねた。


 悠斗は私を見なかった。


「俺も現場にいました」


「日和が手を伸ばさなければ、清香は倒れていなかったと思います」


「ここまで大きくなった以上、日和がきちんと謝って、清香もそれ以上追及しない。それが一番穏便だと思います」


 頭の中が真っ白になった。


 清香が嘘をつくことは分かっていた。


 動画を編集したのも彼女だと思っていた。


 でも。


 悠斗まで、私が悪いと言うとは思わなかった。


 清香は慌てたように手を振る。


「もういいんです」


「日和ちゃんもわざとじゃないと思います」


「それに以前は悠斗の彼女だったし……悠斗にはいつも助けてもらってるから、その顔を立てて私はもう何も言いません」


 担当職員が私を見る。


「防犯カメラの映像確認には時間がかかります」


「水野さんが個人的な申し出を取り下げるのであれば、現時点では双方の言い分を記録し、正式な懲戒判断は映像を確認してからにします」


 私は長く黙った。


 明後日は白峰へ行く。


 大学院の推薦選考も始まっている。


 もう、この人たちに時間を使いたくなかった。


 立ち上がった。


 一歩後ろへ下がる。


 深く腰を折った。


「水野さん」


「昨日は、不快な思いをさせてしまってごめんなさい」


 涙が床へ落ちた。


 拭かなかった。


 面談が終わる。


 廊下へ出ると、悠斗がすぐ追いかけてきた。


「日和」


「これ以上きちんと調べられたら、清香は大学の調査記録が残るかもしれない」


「交換留学の審査もあるんだ。今、問題を起こすわけにはいかない」


 一度言葉を切る。


「だから……悪かった。日和には我慢してもらった」


 しゃがみ込み、私の脚を見る。


「傷、濡らすなよ」


「明日はちゃんとお母さんのところ行くから」


 私はその顔を見下ろした。


 もう、なぜ我慢するのがいつも私なのか聞く気さえなかった。


 脚を引いた。


「来なくていい」


「もう別れたんだから、こういうこともしなくていいよ」


 悠斗は立ち上がり、まだ拗ねている子どもを見るように私の頭へ手を伸ばした。


「そういう勢いで別れるとか言うの、もうやめろよ」


「何度も言われたら、本当にそのつもりだと思うからな」


「先に帰ってて。清香を国際交流センターに連れていく。あいつ一人だと手続き分からないんだ」


 軽く手を上げる。


「じゃ、また明日」


 私はその後ろ姿を見ながら、自分も小さく手を振った。


 さようなら。


 橘悠斗。


 たぶんもう。


 私たちが同じ場所へ戻ることはない。



5



 実は匿名投稿を見つけた夜、私はすぐ榊原先生へ連絡していた。


 推薦選考に影響するかもしれないと思ったからだ。


 事情を説明すると、電話の向こうでしばらく沈黙が続いた。


「日和」


「私はあなたを信じるわ」


 思わず尋ねた。


「先生、私が嘘をついているとは思わないんですか?」


 榊原先生は少し考えてから、夏の研究プログラムで起きたことを話し始めた。


 参加していた男子学生が突然倒れた。


 意識がなく。


 呼吸もおかしい。


 周囲の学生は混乱し、誰も動けなかった。


 私は119番通報を頼み、近くにあったAEDを持ってきてもらった。


 以前受けた講習を思い出しながら、救急隊が来るまでできることをした。


 男子学生は病院へ運ばれ、一命を取り留めた。


「日和、もちろん成績も評価しているわ」


「でも私があなたを覚えていた理由は、それだけじゃない」


「研究には、判断力が必要よ」


「みんなが迷っている時、自分がやるべきことを引き受けられる人間かどうか。私はそこも見ている」


「だから、自分が学生を見る目を信じてる」


 私はスマートフォンを握ったまま、しばらく声が出なかった。


 あの時、立派なことをしたつもりなんてなかった。


 母が以前、心臓の病気で倒れたことがあり、その経験から救命講習を受けていただけだった。


 目の前で誰かが倒れた時。


 別の家族に、私と同じ恐怖を味わってほしくなかった。


 それだけだった。


 それでも。


 榊原先生が何の条件もつけずに私を信じてくれたことが、胸に残った。


 翌日、大学から暫定的な連絡が来た。


 病院の防犯映像を確認するまでは、どちらにも正式な懲戒措置は行わない。


 その代わり、調査が終わるまで私と清香は必要以上に接触しないよう求められた。


 同時に、私が申請していた白峰科学大学での学外研究プログラムも承認された。


 青葉工科大学で必要な単位を終えたあと、榊原研究室へ研究学生として先に参加できる。


 大学院の推薦入試も予定どおり受ける。


 資料を抱えて校舎を出る時。


 清香とすれ違った。


 隠しきれない優越感が目に浮かんでいた。


 ほら。


 日和ちゃんの奨学金。


 交換留学。


 彼氏。


 全部、私のものになったでしょう。


 そんな顔だった。


 私は笑った。


 その場で、白峰までの新幹線の切符を二人分予約した。


 寮で片づける荷物は多くなかった。


 寝具。


 服。


 本。


 そしてベッドの下に置いていた、小さな収納箱。


 蓋を開ける。


 付き合ってから悠斗にもらったものが全部入っていた。


 最初の頃。


 私を泣かせるたびに、悠斗は小さな金のチャームを一つくれた。


「日和の涙は高いからな。ちゃんと弁償しないと」


「十個たまったら指輪買う」


「それで一回全部リセットして、もう一生喧嘩しない」


 箱の中にあるのは九個だけ。


 そのあとのプレゼントは、だんだん適当になっていった。


 買い物のおまけ。


 安いキーホルダー。


 その場で買った小物。


 私は悠斗からもらったものを全部まとめた。


 九個の金のチャームも入れる。


 宅配便の集荷を依頼し、すべて送り返した。


 同じ頃、青葉市立医療センターと白峰医科大学附属病院の地域医療連携室でも、母の転院について話が進んでいた。


 主治医が紹介状と検査画像、必要な診療情報を準備してくれた。


 残りの手続きを終えた時。


 スマートフォンには悠斗からの不在着信が二十件以上並んでいた。


 深く息を吸った。


 折り返す。


 本当は、明日の約束に行けなくなったことくらい説明しようと思っていた。


 けれど電話に出た悠斗の第一声は、責める言葉だった。


「相原日和」


「これで満足か?」


 眉を寄せる。


「何の話?」


 悠斗が冷たく笑う。


「清香が通報された」


「特別奨学金の候補資格は保留、交換留学の推薦審査も止まった」


「午前中に日和が学生支援課へ行って、午後には清香が調査対象だ」


「まさか、こんなやり方するとは思わなかったよ」


 怒りが一気に湧いた。


 キャリーケースの取っ手を強く握る。


「橘悠斗」


「自分たちが後ろめたいことをしてるから、他人まで同じことをすると思うんじゃない?」


「何の証拠があって私だって言ってるの?」


 向こうが静かになる。


 数秒後。


「本当に日和じゃないのか?」


「でも清香が……」


 最後まで聞かなかった。


「自分がどうやって推薦候補になったのか、清香本人は知らないの?」


「あなたも知らない?」


 悠斗は黙った。


 かなり経ってから、急に声を落とす。


「日和」


「一度戻ってきてくれないか」


「学校に、日和が自分から海外派遣の候補を辞退したって説明してくれれば、清香の推薦資格が残るかもしれない」


 思わず笑った。


「橘悠斗」


「今日が何の日か、覚えてる?」


 電話の向こうは無言。


 答えなんて期待していなかった。


「ありがとう」


「すごく忘れられない誕生日になったよ」


 電話を切った。


 母の病室へ戻る。


 車椅子を押して、二人で病院を出た。


 二十二歳の誕生日。


 私は母と一緒に。


 白峰市へ向かう新幹線に乗った。



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― 新着の感想 ―
時々フルネームで呼び合ってるのが凄く不自然。行間隔が等分に空いてるのが読み辛い。
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