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短編作品

婚約白紙のあとの結末は

『──すまない、シエナ』


 唐突に謝罪の言葉で始まった文面。

 届いたばかりの手紙を読むなり、わたしは目を見開く。


「……姉上、大丈夫ですか?」


 驚いた様子のわたしを見て、弟のリュシアンがひどく心配して声をかけてくれる。


 その日、朝一番で屋敷に来るはずの婚約者が来なかった。


 口数は多くないが誠実で、約束は必ず守る人だ。だから何かあったのではないかと心配になって、こちらから相手の家門へ連絡するも、一向に音沙汰がないまま時間だけが過ぎていった。


 夕方になり、ますます不安を募らせていたところ、封筒に差出人名が書かれていない一通の手紙が届いたのだ。



『──すまない、シエナ。

 きみがこの手紙を読む頃には、僕はこの国を発っているだろう。

 これまで僕は婿入りするきみのクロフツ伯爵家、そして我がダルトン伯爵家のために生きることが、自分に課せられた人生だと思っていた。でも──。

 アリエットが余命一年の宣告を受けた。

 僕はずっと自分の気持ちに蓋をしてきた。でももう限界だと気づいてしまったんだ。

 僕は彼女のそばにいたい。残された時間を一緒に、ただ静かに過ごしたい。

 アリエットは海を渡り、医療の進んだ国で余生を過ごすらしい。僕はそれを追いかけるつもりだ。

 だからシエナ、僕たちの婚約は白紙に戻してほしい。

 本当にすまない。


 ──マークス・ダルトン』



 わたしの婚約者である、いや、もうだったというべきなのか、ダルトン伯爵家の次男、マークス・ダルトン。


 そして手紙に書かれているアリエットは、マークスの幼馴染の男爵令嬢。マークスからも紹介され、わたしも会ったことがある。好感の持てる小柄で可愛らしい女性。


 ふたりはただの幼馴染だと聞いていた。だから、まさかそんな想いをマークスが胸に抱えていたなんて、まったく気づかなかった。


「……リュシー、どうやらわたし、婚約が白紙になるみたい」


 わたしは手紙を手にしたまま、起こった事実を確認するように、隣に立つリュシアンに目を向ける。


 五つ違いのわたしの義弟、リュシアン。


 彼も驚きのあまり言葉を失っている。それはそうだろう、リュシアンにとってはマークスは将来義兄になる相手だったのだから。男同士ということもあり、そんなに目に見えて親しくしている様子はなかったけれど、長い付き合いもあって驚くのは当然だった。


 今年十六歳を迎えたリュシアンは、今ではわたしの背を追い越すまで成長した。


 血のつながりはないけれど、幼い頃から見守ってきたこともあり、わたしは実の弟のように可愛がっている。


 つい先ほど、この手紙をこっそりわたしに手渡してくれたのもリュシアンだった。我が家の屋敷の前をうろついていた平民の少年から受け取ったらしい。おそらくマークスがあらかじめ頼んでおいたのだろう。


 わたしはどうしたものかと息を吐き出す。


「……とりあえず、お父さまに報告しなければいけないわね」





  ◇ ◇ ◇





「──すべて私のせいだ。シエナ、こんなことになって本当にすまない」


 普段威厳のある姿しか見せたことのないお父さまだが、今回ばかりはひどく後悔しているようで、先ほどから何度もわたしに謝ってくれる。


 夜になって屋敷に戻ってきたお父さまは事態を把握すると、すぐさまマークスのダルトン伯爵家に抗議の手紙を送り、婚約を白紙にした。そして、後日それ相応の償いもしてもらうと怒りをあらわにしていた。


 お父さまにしてみれば、娘のわたしに瑕疵(かし)をつけられたことはもちろんだけれど、マークスのことを気に入っていただけにショックも大きいのだろう。


 それに将来彼が婿入りするからこそ、これまで定期的にこちらの屋敷に通わせ、当主となるわたしを支えられるよう事細かく教育を行なってきたのに、それらはすべて無駄になってしまった。


 この王国では、女性でも爵位を継げる。


 お母さまはわたしが物心つく前に病で亡くなっていたため、わたしにはお母さまの記憶がほとんどない。お父さまは再婚するつもりはないようで、だからクロフツ伯爵家のひとり娘であるわたしは、幼い頃から婿を取ることが決まっていた。


 わたしが十三歳のとき、ダルトン伯爵家の次男で、二歳年上のマークスが婿候補に上がった。ダルトン伯爵家はクロフツ伯爵家と同格で領地も近く、昔から商業的なつながりもあったことから最適な家門と言えた。


 そして将来婿入りすることを条件に、わたしとマークスは婚約した。


 恋愛小説のように胸が高鳴るほどの恋に憧れる気持ちがないわけではなかったけれど、伯爵家の娘としての責務は幼いながらも理解していたので、わたしは反対することなく受け入れた。




 この国では、貴族間での婚姻が許される年齢は、男性の場合は十六歳、女性の場合は十八歳と決められている。これは家門を引き継げる年齢でもある。


 わたしは十八歳になってからマークスと結婚するはずだった。


 しかし十八歳を迎える前に、なぜか急に国王陛下がわたし達両家の婚姻に難色を示したため、しばらく様子を見ることになった。双方の家門の周囲で政治的な対立が浮上しているという、事実と異なった噂が流れたことも、もしかすると影響したのかもしれない。


 思わぬ形での婚姻の先延ばし。


 でもそのとき、なぜかわたしはほっとした。


 家門のために覚悟はできているはずだった。でも自分でも気づかないうちに小さな迷いが生まれていたことに、そのとき初めて気づいた。だから、心の整理をする期間を持てたのはよかったのかもしれない、そう思った。





  ◇ ◇ ◇





 そしてそのまま状況は変わらず、気づけば三年が過ぎた。わたしは二十一歳になっていた。


 このままの状態が続くようなら婚約自体を考え直す必要があるだろうと、お父さまが口にしていたけれど、今年になって国の情勢に変化が生じたことで国王陛下も考えを方向転換されたようで、来年以降の婚姻を許可するというお達しが届く。


 突如として動き出した話。急いで今後の準備を進めなければいけない。


 そう思っていた矢先──、マークスが一通の手紙とともに姿を消してしまった。


 わたしとマークス、お互い恋愛感情はなかったけれど、わたしは彼を信頼していたし、尊重できる家族になれるだろうと思っていた。


 これまで八年という決して短くない年月を一緒に過ごしてきた中で、彼のことは異性というよりも将来領地を共に守る同志として感じていた。


 だからこそ何の相談もなしに、たった一通の手紙だけで去られたことには、少なからずショックを受けた。


 しかし余命宣告されたというアリエットのことを思えば、彼を責めることもできない。


(せめて、もっと早く打ち明けてくれていたらよかったのに……)


 恋愛感情がなかったからだろうか、どちらかといえば、悲しみよりもその思いのほうが強い。


 打ち明けてくれてさえいれば、わたしから婚約を解消するよう働きかけられたし、マークスの両親ダルトン伯爵夫妻を説得するよう協力もできた。マークスがアリエットと結ばれるようきっと応援しただろう。


 でも今さらどうしようもない。





  ◇ ◇ ◇





 その後、お父さまの執務室を出たところで、リュシアンに声をかけられた。


「あの、姉上……」


 心配して待っていたのだろう。リュシアンはわたしに近づくと、心配そうにわたしの手を両手でぎゅっと握り締めてくれる。


 その優しさに心を温められながら、わたしは軽い口調で言う。


「マークスも言ってくれればよかったのにね、そう思わない? そうしたらわたしにできることがきっとあったはずなのに」


「……俺からすれば、姉上はお人好しすぎです」


 リュシアンが渋い顔をする。


 そう返されるとわかっていたので、わたしは苦笑するしかない。


 そんなつもりはないのだけれど、普段のわたしの言動はリュシアンにしてみれば思うところがあるようで、いつも今みたいに渋い顔で『姉上はお人好しすぎる』と心配してくれる。


 わたし自身、領地と領民を守る次期当主として、善意と悪意も見分けられないまま無意味に搾取されるつもりはない。でも最初から相手を疑うよりは信じて対話したいし、困った末に頼られればできる限り応えたい。苦しんでいたり、悲しんでいたりする人がいるなら、助けになりたいと思う。


 だからマークスのことも、姿を消すほど切羽詰まる前に一言相談してくれればよかったのに、と思ってしまう。


「それで……、姉上は大丈夫なんですか?」


 心配そうにリュシアンが再度訊いてくる。どこまでも姉思いな子。リュシアンはわたしがマークスと婚約する前の幼い頃から一緒にいるため、今となってはお父さまよりもわたしのことを理解してくれている。


「そうね、ちょっと驚いたけれど、わたしは大丈夫よ」


 〝ちょっと〟というには予想外過ぎたが、わたしはリュシアンを安心させようと微笑む。


 薄茶色の髪に薄紅色の瞳を持つわたしに対して、義弟のリュシアンは亡き実母から受け継いだらしい、淡い金髪に澄んだアイスブルーの瞳という目を惹く容姿。




 今から十年ほど前、わたしがマークスと婚約する二年前に、リュシアンは我が家にやって来た。


 当時まだ六歳だったリュシアンは、クロフツ伯爵家の遠縁にあたる生家の子爵家で虐待されていた。


 彼は正妻の息子だったけれど、父で当主の子爵には昔から平民の恋人がいて、政略結婚した貴族令嬢の妻が亡くなるや否や、その恋人と、恋人との間にもうけていたリュシアンよりも二歳年上の義兄を、子爵家に正式に迎え入れた。


 当然ながら温かい家庭が築けるわけもなく、リュシアンは父である子爵からは放置され、義母と義兄からは日常的に虐げられていた。


 それを見かねたわたしのお父さま、クロフツ伯爵が、リュシアンを引き取ったのが十年ほど前のこと。


 我が家に引き取られたときのリュシアンは、やせ細ってあちこちに痛々しい傷や痣があり、ひどい有り様だった。


 最初はひどく怯えていたけれど、徐々にわたしのことを信頼してくれるようになり、気づけば「姉上、姉上」といつもあとを付いてくるほど懐いてくれるようになった。


 天使のように可愛らしいリュシアンが笑顔を見せてくれたときは、本当に嬉しかった。


 わたしはお母さまを早くに亡くしているし、きょうだいもいない。唯一の家族であるお父さまは、常に多忙で屋敷を留守にすることも多く、わたしは口には出せないものの寂しく感じていた。


 そんな中リュシアンがそばにいてくれるようになり、心が慰められ、支えになった。リュシアンを守るのは自分だと感じ、より一層何事にも努力するようになった。


 初めて会ったときはリュシアンのひどい有り様にどうなることかと思ったけれど、今やすくすくと成長し、わたしよりも背が伸び、時々ハッとするほど大人びた表情を見せることも増えてきている。


 この先リュシアンがどういう将来を望んでも、安心してその先を叶えられるよう精いっぱい応援したいと思っている。





  ◇ ◇ ◇





 わたしの婚約が白紙になってから、三日が経った。


 マークスの両親であるダルトン伯爵夫妻は、わたしに謝罪したいと何度も申し出ているらしいけれど、怒りが収まらないお父さまが断固として拒否し続けている。


 あとでわかったのは、婚約が白紙になったあの日、マークスから手紙を受け取ったのはわたしだけではなかったということ。


 どうやらマークスは自室に置き手紙を残していて、ダルトン伯爵夫妻はわたしが送ったマークスを心配する連絡を受けたあとで、確認のために息子の部屋に入ったところ、その置き手紙を見つけたらしい。


 そして手紙を読むなり、大慌てで息子を連れ戻すよう港に使用人を向かわせたものの、すでにそれらしい大型客船は数時間も前に出航していた。


 幼馴染であるアリエットの男爵家を訪ねれば、アリエットの両親の男爵夫妻は、

「娘は一週間前から旅行に出ていて……! 出発前は普段と変わらない様子で、まさかそんな……」

 と混乱しながら答えたそうだ。アリエットは余命宣告の件を両親に伝えていなかったのだろう。


 さらに、男爵夫妻はアリエットとマークスのことはまったく知らなかったという。男爵家からすれば、格上のダルトン伯爵家とはよい付き合いをしてもらってはいるが、マークスにはわたしという婚約者がいることもあり、何か起こるとは思ってもいなかったらしい。


 ダルトン伯爵家としては息子のマークスの行方をなんとか追っているものの、国外に出てしまっているということもあり、まだ時間はかかりそうだった。





  ◇ ◇ ◇





「──え、お見合いですか?」


 さらに一週間が経った日のこと。


 新たな相手を探す必要があるのは承知していたけれど、思っていたよりも早かった。


「ああ、無理にとは言わないが、会うだけ会ってみたらどうかと思ってな」


 無理にとは言わない、そう言っているが、お父さまの瞳には焦りが滲んでいるようにも感じる。


 すでにわたしは婚姻が三年も延期になったことが影響し、もう二十一歳。


 この国の貴族令嬢は大抵、十八歳頃までには嫁にいくのが普通だった。二十歳を過ぎても未婚の場合、何か重大な問題でもあるのではと冷ややかな目を向けられるほど。


 つまりわたしは世間で言う、婚期を逃した嫁き遅れ令嬢となっていた。


 我が家の伯爵家と釣り合う家格で、わたしと年が大きく離れていない令息はもうすでに結婚しているか、婚約者がいるかのどちらか。婚約者もおらず未婚で、婿入りすることを了承できる人は多くはないと、わたしでもわかる。


「家格は子爵家になるが、人柄も手腕も申し分のない令息がいてな。三男だから当主の座につくわけではないし、なかなか縁がなかったようでまだ婚約者もいない。先方の子爵家もお前さえよければぜひ、と言ってくれている。どうだ、会うだけ会ってみないか? もしお前が気に入らなければ、断ればいい」


 そう言われてしまえば、受ける以外にない。思ったよりも早かったけれど、このまま何もしないで時間だけが過ぎようものなら、ますます相手を見つけるのが難しくなる。


「ええ、わかりました」


 わたしはそう答えて、話を進めてもらうことにした。





  ◇ ◇ ◇





 それからすぐにお見合いの日程が決まり、あっという間に当日を迎える。


 その日、わたしは我が家のクロフツ伯爵邸で相手を出迎えた。


 子爵家三男のその方は、実際に会ってみると柔らかな笑顔が印象的な感じのいい男性だった。


 エスコートはスムーズで、会話ではこちらが退屈しないよう巧みに話題を広げながら、言葉の端々には知性が見え、お父さまがこの人のことを『人柄と手腕も申し分のない』と評していたのも納得だった。むしろなぜ婚約者がいないのかしらと思ったくらい。


 ひとしきりお茶を飲みながら会話をしたあとで、「もしよければ、このあと絵画の特別展を観に行きませんか?」と誘われ、王立美術館に行くことになった。


 どうやら彼は美術方面の造詣が深いようで、一緒に鑑賞しながらその絵の時代背景や作者の意図なども解説してくれ、思いの外楽しい時間を過ごすことができた。尋ねれば、絵を描くのが趣味なのだという。これまで趣味に没頭するあまり、女性との縁も遠のいていたとのこと。




 屋敷に帰ってからお父さまに彼の印象を訊かれたので、感じのいい男性だったと、思ったままを伝えた。


 リュシアンにも同じことを訊かれたので、同じように答えておいた。


 特にリュシアンは、わたしとマークスとの婚約が白紙になって以来、より一層わたしの将来を心配してくれている。


「大丈夫よ。あなたに迷惑がかかることはないと誓うから、安心して」


 不安を取り除くためにあえてそう伝えたのだけれど、逆に不安が増したのか、リュシアンは眉間に深いしわを寄せる。


 その不安そうな顔を見たわたしは、内心焦ってしまう。


(ああ、わたしが思っている以上に心配をかけているのね……。リュシーの不安を取り除くためにも、早くお相手を決めなければいけないわ……)




 その後、わたしはお見合い相手である子爵家三男の彼と二度会った。


 このまま双方に問題がなければ、婚約に進むだろうと思われた。しかし──。





  ◇ ◇ ◇





「本当に申し訳ありません、お見合いさせていただいておきながら、こんなことになってしまって……」


 待ち合わせした王都のカフェ。向かい合わせに座っているわたしの前で、子爵家の彼が鎮痛な面持ちで頭を下げて謝る。


 対するわたしは、相手の気持ちが少しでも軽くなるように笑みを見せ、明るく声をかける。


「もうこれ以上謝っていただく必要はありません。それよりも素晴らしいじゃないですか。芸術の国で知られる隣国の最高峰のコンテストで認められたんですから」


 彼は絵を描くことが趣味だと言っていたが、趣味なんてレベルではなかった。本当は画家になりたかったのだ。しかし両親に猛反対されていた。

 そして最後の挑戦という約束で昨年国内で行われたコンテストに応募したが、結果は落選。吹っ切るつもりで、その絵はただ同然で売り払った。


 ところが、その絵が今年になって隣国の有名な評論家の目に留まり、本人も知らない間に最高峰のコンテストに応募され、あろうことか最高賞を受賞したらしい。




「……ありがとうございます。そう言ってくださったのは、シエナ嬢だけですよ。それに両親への説得まで……」


 今回の婚約を白紙にし、画家になると宣言した息子に反対する子爵夫妻を率先して説得したのは、わたしだった。


 さすがに子爵夫妻も、家格が上でお見合い相手のわたしが応援している手前、それ以上反対することもできず最後には折れた。


 彼の目には涙が浮かんでいる。諦めていた夢が叶うのだ、これほど嬉しいことはないだろう。


 彼の足元には旅行用のトランクが置かれている。これから今後の活動拠点となる隣国へ向かうという。


「ぜひ今度絵を買わせてください。と言っても、もう人気画家でいらっしゃるのだから、無理でしょうか」


「買うだなんて、そんな……! 人物画でも風景画でも、ご要望があればなんでも言ってください。あなたのお好きな絵を描いて、プレゼントさせていただきます」


「それは申し訳ないです。ほかのファンの方に恨まれてしまいます。個展を開かれたら一番に観に行きますね」


「ええ、ぜひ、お待ちしています」


 わたし達は力強い握手を交わしたあとで、笑顔で別れた。


 彼には伝えなかったが、画家になると決めた彼を応援しようと、わたしは密かに隣国の画家組合に連絡していた。これから先、隣国ではその組合が彼を支えてくれるはず。少しでも手助けになればいいと思う。


 お父さまにはお見合いを白紙に戻すことは事前に相談しておいたものの、結果を報告すると頭を抱え、苦悶の表情を浮かべていた。

 お父さまの顔を目にしてしまうと申し訳なさに胸が痛むが、自分が下した判断には後悔していない。素晴らしい画家の誕生をこの目で見られたのだから。


 『姉上はお人好しすぎる』。またそうリュシアンに言われる気がしたけれど、むしろあのまま結婚まで進んでしまっていれば、彼の人生を潰してしまっていた。そのことを思えば、結果的にはこうなってよかったと感じる。


 縁がなかったのだから仕方ない。


 焦りはあるものの、わたしはさほど落胆することなく、そう思った。





  ◇ ◇ ◇





 その後、わたしは立て続けに二人目、三人目とお見合いをした。


 お父さまはあの手この手で、わたしのお相手を探してきた。


 しかし、なぜかどれも話が白紙になってしまう。




 二人目の相手の方は、伯爵家の四男の方だった。


 この方と初めてお見合いをした直後、彼が以前秘密のお付き合いをしていたという貴婦人との仲が相手の旦那さまにバレて大騒動になり、彼は伯爵家から破門。当然ながら、すぐさまお見合いはなかったことになる。


 彼は何を思ったか、たった一度会っただけのわたしに「助けてくれ!」と泣きついてきたけれど、さすがに自業自得。わたしはそこまでのお人好しではない。

 だから彼のことは、彼を血眼で探している貴婦人の旦那さまのもとへ丁重にお送りしておいた。




 その次、三人目にお見合いした方は領地を持たない宮廷貴族で、上級官僚として王城に勤めている方だった。


 官僚としての実績もあるため、当主となるわたしの領地運営の執務を手伝える実力があると、お父さまは踏んだのだろう。


 しかしこの方とのお見合いも、すぐに白紙になる。


 本人は関与していなかったようだが、彼のお兄さまが犯罪組織とつながっていることが明るみになったからだ。


 彼の実家は代々官僚を輩出していた家門だっただけに信用を失い、お兄さま以外の者も本当に関与していないのか厳しい取り調べを受けることになり、お見合いどころではなくなった。


 事が事だけに手を貸すことはできない。ただわたしとお見合いをした彼は、本当は官僚ではなく多くの国を相手に商売をしたいと考えていたようで、ひとしきり謝罪を口にしたあとで、この機会に家を出てひとりでやっていく決心がついたと前を向いていた。


 人柄もよく頭の回転も早い方なので、きっとうまくやっていけるはず。それでもこれから先、彼の苦労を少しでも減らせるよう、わたしは知り合いの貿易商に声をかけておいた。何かあればこっそり手を貸してくれるだろう。





  ◇ ◇ ◇





 そうしてわたしは婚約白紙だけでなく、そのあとのお見合いも白紙になるという予想外の事態に見舞われた。


 すべて相手側の問題とはいえ、こうも立て続けにお見合いまで白紙になると、わたしが何か影響を及ぼしているのではないかと疑いたくなるほど。


 さすがにお相手探しは一旦保留にしたほうがいい。そう思ったわたしは、すぐさまお父さまに相談する。


 お父さまは苦悩するも、「……わかった、一度保留にしよう」と言ってくれた。


 わたしはほっと胸を撫で下ろす。


 正直なところ、心身ともに疲れていた。わたしが直接何かしたわけでもないけれど、罪悪感にも駆られてしまう自分もいる。


 リュシアンにそのことを打ち明けると、

「姉上が気にすることはないですよ。むしろそんな相手と姉上が婚約せずに済んでよかったです。今はゆっくり休んでいてください」

 と言ってわたしを気遣ってくれた。


 昔も今も、リュシアンはわたしの心の支えになってくれている。幼い頃は生家で虐待され傷ついた彼を守るのはわたしの役目だと感じていたが、今ではわたしのほうが頼ってしまっている。


(リュシアンももう十六歳、結婚できる年齢だわ。婚約者だっていてもおかしくないのに……)


 そこでふと、そういえばと思う。


 つい先頃から、リュシアンは夜会や人が集まるサロンなどによく出かけているらしい。これまではわたしが参加するときについてくるくらいだったのに。


(考えが変わってようやくお相手を探している、というのもあり得るわよね……)


 弟の積極的な行動を喜ばしいと感じる一方で、わずかに寂しさを覚えた。





  ◇ ◇ ◇





 お相手探しを一旦保留にしてから二週間ほど経ったその日、夜会があった。


 王城で開かれるもので、王都に滞在しているすべての貴族が招待されていた。


 お父さまとリュシアン、わたしの三人を乗せた馬車が王城に到着する。


 すでに多くの貴族が到着しているらしく、華やかな衣装を身に纏った招待者たちが、次々と城内へと吸い込まれていく。


 馬車を降りようとすると、リュシアンがすっと手を差し出してエスコートしてくれる。


 こういった夜会ではこれまで、婚約者だったマークスが同伴していたけれど、相手がいなくなった今その代わりを弟にしてもらうことに申し訳なさを感じる。


 会場に入るなり、わたしは悪い意味で多くの注目を集めていた。


 婚約が白紙になったうえに、お見合いまでも三度も流れたという事実を知っている人は多いのだろう。だから来たくなかった。でも王都に滞在しているすべての貴族が招待されている手前、そういうわけにもいかなかった。


 わたしはリュシアンにちらりと視線を向けると、ぽつりと謝る。


「あなたにエスコートさせてしまって、ごめんなさい」

「どうして? 俺は姉上をエスコートできて嬉しいのに」


 微塵も苦に感じていないような笑みを浮かべてそう言ってくれるリュシアンの優しさが、余計に心苦しい。


 本当はエスコートしたい女性がいるかもしれない。でも姉であるわたしがこんな状態のために、言い出せずにいる可能性もあるのに。




 会場に入ると、主要な方々にあいさつをしたあとで、お父さまは親しい方と話しをするため、別行動を取る。


「姉上、ほかに何か飲まれますか?」


 リュシアンが、空になったフルートグラスをわたしの手からさりげなく取りながら訊いてくれる。


「あ、ええ、そうね……」


 すぐに答えられずにいると、向こうから近づいていた中年紳士がリュシアンに話しかけてきた。


「ああ、リュシアンくん。ちょうどよかった。ちょっときみの──」


「──失礼。姉上少し離れますが、大丈夫ですか?」


 まるで続きを聞かれたくないように、リュシアンはやけに早口で中年紳士の言葉を遮り、わたしに確認する。


「え、ええ、もちろん、大丈夫よ」


「では、ここから離れないでください。すぐに戻りますから」


 どことなく不自然な感じを覚えるも、わたしは素直に頷く。リュシアンにだって色々な付き合いがある。


 わたしは周りを見回す。知り合いの令嬢でもいれば話し相手になってもらえるのにと思ったけれど、見つけられてもあいにくダンスをしているか、婚約者とあいさつ回りをしていて気軽に声をかけられる雰囲気ではなかった。


(ここから離れるなと言われたけれど、会場内ならいいわよね)


 わたしはその場を少しだけ離れ、風に当たろうと会場の端にあるひと気のないバルコニーに出た。





  ◇ ◇ ◇





 やや風が冷たいが、人混みにいるよりもいい。


 新鮮な空気を吸い込み、夜空をぼんやりと見上げていると、ふいに話し声が聞こえた。


「──ねえ、さっきすれ違ったの、リュシアンさまよね?」


 リュシアン、と聞こえて、ドキリとする。


 耳を澄ませれば、どうやら下の階のバルコニーにどこかの貴婦人が出てきたようだった。わたしがここにいると気づいていないのだろう。声が届いているとも知らず、話しを続ける。


「あの話、本当なのかしら?」


「ああ、あの話のこと? リュシアンさまの義兄が意識不明の重体で、このままいけば子爵家はリュシアンさまが継ぐことになるっていう?」


「ええ、でもそうすると養子になっているクロフツ伯爵家からは出ることになるのかしら?」


「そうなんじゃない? 伯爵家はシエナ嬢が家門を継がれるのでしょう? このままクロフツ伯爵家にいたって爵位がもらえるわけでもなし、利点なんかないもの」


「まあ、そうよねぇ。実の弟ならまだしも、養子でいらっしゃるものね」


「未来のない養子のままでいるよりも、子爵家とはいえ当主になるほうが面倒な義姉と離れられて、いいんではなくって? リュシアンさまに熱をあげている若いご令嬢も多いようだし、格上の家門のご令嬢を嫁にもらえればこの先も安泰よね。最近では夜会なんかにもよく顔を出されていらっしゃるようだし」


 わたしは聞き耳を立てている気まずさを感じながらも、その場を離れることができなかった。


「あら、でもリュシアンさまが次期当主のシエナ嬢に婿入りする可能性もあるのかしら?」


「まさか、いくらなんでもそれはどうかしらね。だって血のつながりはないとはいえ、幼い頃から姉弟として育ってきたんでしょう? 今さら異性として見られないのではなくて?」


「まあ、それもそうね」


「こう言ってはなんだけど、シエナ嬢は婚約もお見合いも白紙になるような方でしょう? 自分が当主になれるならまだしも、婿入りで瑕疵つきの年上令嬢を押し付けられるなんて……、ねえ?」


「ふふ、でも断らせないように、これまで育てた恩を返せとでも言うのかもしれないわよ」


「あら、やだ」


 クスクスと嘲笑するような声が響く。貴婦人達はひとしきり噂話に興じたあとで、会場へと戻っていく。




 わたしはふらりと後退りする。


 貴婦人達の話を聞いて、このままわたしが相手を見つけられなければ、リュシアンにわたしという瑕疵付きの義姉が押し付けられる可能性もあるのだと、今さらながらに気づく。


(もしお父さまから打診でもされれば、リュシーは優しいからきっと我が家に恩を返そうと、無理に了承してしまうかもしれないわ……)


 その可能性を考えると胸が苦しくなる。


 姉であるわたしが不甲斐ないばかりに、リュシアンの未来を潰してしまうかもしれない。


 それに……、と思う。


 生家の子爵家をリュシアンが継ぐ可能性があるという。


 リュシアンはクロフツ伯爵家の養子になったときから、子爵家の実父のことは父とは呼ばなくなった。幼い頃は子爵家と自分はもう関係ないと言い切っていたが、やはり自分の生まれた家門、取り戻せるなら断るわけがない。


「そうね……、いい機会なのかも。わたしは一刻も早くお相手を見つけて、心から喜んでリュシーを送り出してあげなきゃ……」


 そう思うのに、なぜか胸がズキリと痛む。





  ◇ ◇ ◇





 そのとき、カチャッと背後で音がした。バルコニーのガラスの扉が静かに開く。


 振り返れば、ひとりの紳士が立っていた。


「──クロフツ伯爵令嬢?」

「アディンセル侯爵……」


 驚きながらも、わたしはすぐにカーテシーをする。


 アディンセル侯爵家と言えば、この国の中でも歴史と権力を兼ね備える有力貴族。この方は現当主である、ダライアス・アディンセルに違いなかった。


 現在二十八歳の侯爵は、幼い頃に年の離れた当時の侯爵家当主だった兄夫妻を汽車の事故で亡くし、若くして当主になった経歴を持つ。兄夫妻を亡くして以来、兄の息子である甥と一緒に暮らしているという。


 結婚していてもおかしくない年齢にもかかわらず、いまだに未婚。確か来年、侯爵の甥が十六歳を迎えるとのことだけれど、早々に爵位を譲るつもりで、本人はあくまで中継ぎという立場を貫いているという噂も聞く。


「風に当たっていたのか?」

「あ、はい」

「お邪魔しても?」

「え、ええ、どうぞ……」


 今日みたいな夜会などでお父さまと一緒にあいさつ程度なら交わしたこともあるけれど、こうして一対一で接するのは初めてだったのでわたしは内心驚く。


「ああ、少し冷たいが、風が気持ちいいな。会場の中は人が多くて」


 物静かな方だが、こうして笑みを見せてくれるとまた違った印象を受ける。

 自分と同じことを思っているとわかり、わたしの頬も自然とゆるむ。


「華やかですが、少し息苦しいときもありますから」


 同意するように言ったあとでふと視線を感じて横を見れば、アディンセル侯爵がこちらを見ていた。


「あの……」


「唐突だが、クロフツ伯爵令嬢は婿入りできる相手を探していると聞いた。私では駄目だろうか?」


「は──」


 本当に唐突だった。あまりのことに、わたしは不敬にも相手の顔を凝視する。


「どうして、という顔だ」

「……ご冗談、ですよね?」

「真剣なのに、心外だ」


 苦笑するようにアディンセル侯爵が言う。こんな表情もされる方だったのかと意外に感じる。


「だって理由がありません」

「私があなたに好意を抱いている以外、何かあるか?」

「まさか」

「そこまで驚かれると、さすがの私でも傷つくんだが」


「あ、えっと……、申し訳ありません。ですが正直に申し上げて、なぜそのようなお言葉をいただけるのかと感じています。恐れながら、これまでごあいさつを交わす程度のやり取りしかなかったように思いますが……」


「ああ、そうだな、直接的にはそうなるだろう。ただ私は以前からあなたに好意を抱いていた。しかしあなたにはすでに婚約者がいた。さすがに婚約者がいる令嬢に個人的に声をかけるわけにはいかなかった……、歯痒く思ってはいたがな。それに私には、兄夫婦の息子である甥に爵位を渡す義務がある。兄夫婦が汽車の事故で亡くなったのは、私のせいだから──」


 わたしは目を見開く。

 先代侯爵夫妻が乗った汽車が脱線事故に巻き込まれたという話は聞いたことがあった、でも──。


 アディンセル侯爵は視線を下げ、

「兄たちが出かける前、私は早く帰ってきてほしいと言ったんだ。その言葉がなければ、彼らは旅程を早めてまであの汽車に乗ることはなかった。残された甥に私ができることは、彼が爵位を継げる年になる来年まで家門を守ることだ。だから、そんな状態であなたに気持ちを伝えることは許されなかった。でもあなたの婚約が白紙になり、相手を探していると聞いて、居ても立っても居られず──」


 わたしは言葉を失う。


(アディンセル侯爵が甥に爵位を渡すという噂は本当だったの──?)


 アディンセル侯爵はそっとわたしの手を取ると、持ち上げ、お辞儀をしながら手の甲に口付けるしぐさをした。


「今日の夜会ならあなたに会えると思って、これだけは伝えたかったんだ。いい返事をもらえることを祈っている」


 そう言うと、わたしをその場に残し、会場に戻っていった。




 現実味のない出来事にわたしは呆然と立ち尽くす。すると、


「──姉上? こちらにいるんですか?」


 わたしを探していたのか、リュシアンがバルコニーのガラスの扉を開けて顔を覗かせる。わたしに目を留めると怪訝な顔を見せる。


「ついさっきアディンセル侯爵とすれ違ったのですが──」


「……あ、ええ、少し風に当たりにいらっしゃったみたい。でもすぐに戻られたわ」


 どことなく気まずい気がして、わたしはリュシアンの視線から逃れるようにそう言って誤魔化した。





  ◇ ◇ ◇





 夜会が終わり、帰りの馬車の中。目の前に座っているリュシアンは、なぜか先ほどから一言も口を開かない。


 こんなことはこれまで一度もない。何度も話しかけようとしたが、肌を刺すようなぴりついた空気のせいでそれもためらわれる。


 せめてこの場にお父さまがいてくれればと思ったが、あいにく用事ができたようで、わたし達だけで先に帰るようにと言われたのはつい先ほどのこと。


 息苦しいほどの時間を耐え、ようやく屋敷に着いたときには心から安堵した。




 馬車を降り、屋敷に入ったあとで、私室に行く前に一言声をかけようと、後ろを歩いているリュシアンを振り返る。


 そのとき突然、ぐいっと手首を掴まれ、引っ張られた。


「リュシー⁉︎ 何を──!」


 驚いたわたしは声を上げる。

 しかしリュシアンはわたしの手首を掴んだまま、無言で廊下を足早に進む。


「リュシー! ──ッ、リュシアン! 待って、痛いわ! お願い、止まってちょうだい!」


 必死に叫ぶが、彼はこちらを振り返りもしない。掴まれている手首が痛い。なんとか手を離してもらおうとするも、びくともしなかった。


 気づけば、リュシアンの私室に連れ込まれていた。


 ──ダンッ!


 大きい音とともに、月明かりしかない薄暗い部屋の中、リュシアンは壁に両手をついてわたしを囲い、逃げられないよう退路を塞ぐ。


 見上げた先、ヒュッと息を呑むほど冷ややかな目だった。まるで怒りを堪えているように、わたしに詰め寄る。


「──姉上、さっきの夜会でアディンセル侯爵に何を言われたんですか?」

「何って、それは……」


 わたしは視線をそらす。


 あのアディンセル侯爵からまさか婿入りしたいと言われたなんて、自分でも信じられない。しかもいつからかわからないが、以前からわたしに好意を抱いていてくれていたという。


「──は、何か言われたんですね? まさか婿入りしたいなんてこと──」

「──そ、それは」


 つい先ほど言われた言葉を思い出し、動揺する。無意識に頬まで赤くなる。


 すると、わたしの反応でリュシアンはすべてを悟ったのだろう。一際目が鋭くなる。これほど怒っている彼を見るのは初めてだった。


 リュシアンは片手で顔を覆うと、さもおかしげに笑う。


「はは、まさか、ここに来てアディンセル侯爵が出てくるなんて──。本当に、姉上はいったいどれだけ──」


「リュ、リュシー……?」


 いつもわたしを慕ってくれている弟からは想像もできない様子に、わたしは不安に駆られる。


 同時に、なぜこんなにも彼が怒っているのかわからなかった。


 すると唐突に顎を掴まれ、唇を塞がれる。


「──ッ! リュ、シー……ッ、やめ、て……」


 怒りをぶつけるように、何度も何度も唇を押し当てられる。


(こんなの、知らない──。目の前にいるのは、誰──?)


 わたしは怖くなる。誰よりも理解していると思っていた弟が、まったく知らない別人に見えた。


 息苦しさに唇を開いた瞬間、口内に何かが強引に割り入ってくる。ぬるっとした未知の感覚に、ぞくりと背筋が震える。


 考えるよりも先に、わたしはリュシアンの体を押し除けていた。


「──、いやッ!」

「──ッ」


 弾かれたように、リュシアンが動きを止める。


 わたしが彼の唇を噛んでしまったようだった。


「あ……、ごめ……」


 リュシアンは口元に手を当て、ぐいっと親指で拭う。いつもは澄んでいるアイスブルーの瞳に仄暗い色が浮かぶ。


 ふっと薄ら笑いをしたあとですぐさま、また唇を寄せられそうになり、わたしは慌てて身をよじって壁伝いに距離を取る。


「な、何をしたかわかってるの──」

「何をって? 姉上にキスをしたんですよ、いけませんか?」

「いけないもなにも、わたし達は姉弟で……」

「血はつながってません。それに俺は、あなたを姉だと思ったことは一度もない」


(──姉だと思ったことは一度もない……)


 強引にキスされたことよりも、その言葉のほうがわたしの胸を深く抉った。


 幼い頃『姉上、姉上』と、いつもあとをついてきてくれたリュシアンの姿が脳裏に浮かぶ。


 大切な弟、大切な家族、いつの間にか心の支えになっていた、なのに──。


「姉上が悪いんです。俺から離れようとするから」

「……っ」


 苦しげな表情で吐き出された身勝手な言い分。

 わたしはますます混乱する。


 リュシアンが場違いなほど、にっこりと無邪気に微笑む。


「姉上、あいつが訪ねてきても絶対会わないでください」

「あいつって……」

「アディンセル侯爵。──本当、邪魔だなあいつ。ね、姉上、俺のお願い聞いてくれますよね」


 確認しているようで返答など求めていない言い方に、わたしは言葉を失う。


「俺のお願いを聞いてくれないないなら、……そうだな、逃げられないようにこの部屋にずっといてもらおうかな」


 そう言うと、なぜかリュシアンはおもむろに首からネクタイを外す。


 彼の冷ややかな視線がゆっくりと、されど明確な意思を持って、わたしの手首や足首に向けられる。


 まるですべてを壊そうとするような狂気──。


「どうして、こんなこと……っ」


 気づけば、わたしの目から大粒の涙があふれていた。

 止めようにも、堰を切ったように涙が頬を伝う。

 頭の中がぐしゃぐしゃだった。わたしは力なくその場にへたり込む。


「あ、姉上……!」


 先ほどまでの狂気じみた雰囲気から一転、リュシアンがぎょっとしたあとで顔を真っ青にして慌て始める。


「あ……、俺……、すみません、姉上……っ! こんなつもりじゃ……」

「わたしのこと姉じゃないって……」

「それは……っ!」


 ──姉だと思ったことは一度もない。


 突きつけられたその言葉は、確実にわたしを深く傷つけた。


 先ほどまでのリュシアンは知らない人みたいで怖かった。蔑ろにされたようで悲しかった。


 でも──。


 こちらの意思を無視してあんなにも強引にキスをされたのに、なぜか先ほどの熱を唇がたどって心が震える。


 ずっと一番そばにいて、誰よりもわかっていると思っていた相手。


 わたしの背をリュシアンが追い越したとき、男の人になりつつあると感じた。


 そう、わかっていたのに、でも本当の意味でわたしはそれに気づかないふりをしていた。


 大切な家族なのに、家族という言葉だけでは収まらない、もっとずっと特別な相手──。


「──っ、違うんです──!」


 リュシアンがひどく焦るように、声をあげる。恐る恐るわたしに両手を伸ばし、ぎゅっとわたしを抱き締める。


「俺はあなたをひとりの女性として好きなんです! だから姉だなんて思えなかった──」


(リュシーがわたしを好き……? 女性として……?)


「いつから……?」


 震える声で訊ねると、リュシアンはわたしから体を少し離し、瞳を覗き込むようにじっと見てくる。


「──昔から、一緒に暮らすようになった幼いときから……」

「そ、そんなときから?」


 思わぬ告白に、わたしは目を見開く。


「最初はこの気持ちがなんなのかわからなかった。でもあなたに婚約者ができて、どうしようもなくむかついた。俺じゃない相手がいつかあなたに触れるのかと思うと、怒りで我を忘れそうになるくらいに──」


「リュシー……」


「姉上、……いや、シエナ、俺はあなたが好きです。だから、俺を選んでください、お願いです。あなたがそばにいてくれないと、俺は生きていけない……」


 〝姉上〟ではなく、初めて愛おしげに自分の名前を呼ばれ、わたしの心臓がドクンと跳ねる。


 まるで幼い頃に戻ったかのように、リュシアンがわたしの肩に頭を押し付け、甘えてくる。首筋に当たる彼の髪の毛がくすぐったい。


 変わったように思えてとても怖かった。でもそうじゃないのだと気づく。


「……俺のこと、嫌いにならないでください」


 肩を震わせながら、リュシアンが哀願するように漏らす。


「……馬鹿ね、嫌いになんてなるわけないじゃない」

「本当ですか……?」

「ええ、何があっても、わたしはあなたを嫌いになったりしないわ」


 怯えたふうのリュシアンを安心させるように伝える。いつの間にか広くなったその背中に手を添え、あやすようにポンポンと優しく叩く。


 実の父からは顧みられず、義母と義兄からひどい虐待を受けた幼い頃の出来事が、いまだに彼をこうして不安にさせている。簡単に人を信じられないのは仕方ない。


 わたしのことを失いたくないと思ってくれているなら、なおさら不安になるのは当然だと感じる。


 リュシアンが顔をゆっくりと上げ、涙に濡れる瞳をわたしに向ける。


「じゃあ、ずっとそばにいてくれますか? 俺と結婚してくれますか?」


 その切実な告白に、ようやくわたしは自分の気持ちを自覚する。そしてゆっくりと頷いた。


「……ええ、ずっとそばにいる。あなたと結婚するわ、リュシー」

「本当に?」


 信じられないといった顔で、リュシアンがわたしを見つめる。


「でも、父上が……。じつは父上にシエナと結婚したいと言ったら、反対されたんです」


 まさかすでにお父さまに願い出ていたとは思わず、わたしは目を瞬かせる。


「そうね、お父さまにはわたしからもお願いするわ。きっと許してくれるはずよ」


 リュシアンが心の底から安堵したように微笑む。


 わたしは両手を伸ばし、リュシアンの顔をそっと引き寄せ、ほんのわずか唇に触れる。


「好きよ。わたしも、あなたのことが。多分、ずっと前から──。きっとあまりに近くにいすぎたせいで、気づかなかったのね」


 まさかわたしからキスをするなんて思ってもいなかったのだろう、リュシアンが目を見開く。しかし次の瞬間には、幸福そうにとろけるような笑みを浮かべる。


「──シエナ、愛してる。ずっと俺のそばにいて」


 リュシアンがわたしをきつく抱き締める。


 その気持ちを受け止めるように、リュシアンの背中にもう一度両手を回す。そして精いっぱい彼を包み込む。


「──ねえ、リュシー」


 しばらくしてから、わたしはゆっくりと体を離すと、リュシアンをじっと見つめた。


「もうわたしに隠し事をするのはやめてね」


 リュシアンが息を呑み、ハッと顔を上げる。





  ◆ ◆ ◆





 ──生家の子爵家で過ごしていた頃は、悪夢のような毎日だった。


 実の父からは存在を疎まれ、母上が亡くなったあとにやってきた義母と義兄は、俺を痛めつけることに快楽を見出しているような連中だった。


 ただ息をして、生きながらえるだけの毎日。幼いながらも、死んだら楽になれるとさえ感じていた。


 しかしある日、そんな日々が一変する。




 突然現れたのは、遠縁にあたるクロフツ伯爵と名乗る中年の紳士。


 わけもわからず連れていかれた伯爵邸で、義姉となるシエナに出会った。


 シエナはまだ子どもにもかからず凛としていて、同時に包み込むような優しい空気を纏った人だった。


 彼女は突然できた義弟の俺にも嫌悪を示すことなく、常に優しく接してくれた。俺の傷を見れば、自分のことのように心を痛め、俺が怯えるそぶりを見せるとそっと抱き締めて、背中をさすり頭を撫でてくれた。


 誰も俺を必要としない。生きてる価値なんかない。そう思っていた俺の冷え切った心を、彼女の柔らかなぬくもりが、優しく胸を打つ言葉が、ゆっくりと溶かしてくれた。


 シエナのそばにいると無条件で安心できた。


 俺を引き取ってくれたクロフツ伯爵も尊敬できる人物で、この伯爵家で過ごす日々は本当に夢のようで、こんなに毎日が幸せでいいのかと思うほどだった。


 でもある日、俺はどん底に突き落とされる。




 シエナに婚約者ができたのだ。


 クロフツ伯爵家とも付き合いのある、ダルトン伯爵家の次男、マークス。


 婚約者ができたことで、シエナと過ごす時間は少なくなり、シエナは俺よりもマークスを優先するようになった。


 ──俺のほうがシエナと早く出会っていたのに。

 ──シエナのそばにいていいのは、俺だけなのに。

 ──シエナは俺のものなのに……。


 仄暗い気持ちが渦を巻いていた。


 実の父でさえ俺を疎み、実の兄でさえ俺を虐げる。血のつながりなどなんの意味もない。


 優しいシエナは俺のことを実の弟のように可愛がってくれていたが、俺はシエナのことを姉だと思ったことは一度もない。


 こんな気持ちを抱いていると知られれば、シエナが離れていってしまうかもしれない。


 だからひた隠した。今はまだシエナが望む、純粋に姉を慕う可愛い弟でいられるように──。




 幸いなことに、シエナは婚約者のマークスに恋愛感情は抱いていないようだった。


 そしてそれはマークスも同じで、あいつは幼馴染の男爵令嬢アリエットに好意があるらしい。どう見てもシエナのほうがすべてにおいて素晴らしい女性なのに、本当に趣味が悪い。


 俺が喉から手が出るほど欲しているシエナの婚約者という地位を得ておきながら、いったいお前は何様のつもりだと詰め寄ってやりたかったが、そこはぐっと堪えた。


 この国の婚姻年齢、そして家門を引き継げる年齢は、男性が十六歳、女性が十八歳と決められている。


 クロフツ伯爵家の当主となるシエナがマークスと婚姻するにしても、十八歳になってからだ。シエナが十八歳になる頃、五つも年下の俺はまだ十三歳。年齢差ばかりは縮めようもなく、どうしようもない。


 きっとマークスがシエナの婚約者から外れても、新しい婚約者ができるだけだ。


 だから俺はあえて、マークスをシエナの一時的な婚約者として置いておくことにした。時がくれば婚約を解消すればいい。ただそれだけだ。それまではせいぜい虫除けとして役に立ってくれればいい。





  ◆ ◆ ◆





 そしてシエナが十八歳になる前に、俺はかねてからの計画どおり、シエナとマークスの婚姻が進まないよう裏から働きかけた。


 国王の側近につながりのある人物に、それとなくクロフツ伯爵家とマークスのダルトン伯爵家、それぞれの配下の家門に共謀する動きがあるようだ、両家が縁付けば脅威になるだろう、という偽情報を人を介して流した。


 目論見どおり、危険視した国王は両家の婚姻に難色を示し、表面上は政治的な対立を理由に婚姻が延期となった。


 その後、俺が十六歳になってから、マークスを誘導して婚約が白紙になるよう仕向けた。


 マークスは責任感だけは強い。幼馴染のアリエットに想いを寄せていても、家門のためにと馬鹿みたいに自分を抑え込んでいる。


 だからそこを刺激してやった。アリエットが余命一年だと、アリエットの友人役の女性を仕込んで、こっそり教えてやったのだ。


 案の定、マークスは自分の感情を抑えられなくなった。


 手紙を寄越して婚約白紙をシエナに求め、アリエットを追いかけていった。


 でもそのアリエットを見つけたとき、果たしてどうなるか。


 なぜなら、アリエットは余命一年どころか、そもそも病になど侵されてはいないのだから。


 彼女は両親にも告げていない恋人と長期旅行に出ているだけ。アリエットはマークスのことはただの友人としか見ていない。マークスがアリエットに想いを伝えたところで、受け入れられることはないだろう。


 そのときになって後悔してももう遅い。





  ◆ ◆ ◆





「姉上と結婚させてください」


 シエナとマークスとの婚約が白紙になったあと、俺は父上、養父のクロフツ伯爵に願い出た。


「はあ……、そう言うだろうと思っていたが……。許可はできない。──まさかシエナの婚約白紙になった件、お前が裏で手を回していたなんてことはないだろうな、リュシアン?」


「いいえ、まさか。でも前々からマークスは姉上には合わないと思っていました。姉上を裏切るような相手ですから、婿入りする前でよかったのでは?」


 俺は淡々と答える。


 父上は疑うような視線を向けてくるが、俺が関与したという証拠はないはずだ。それにたとえ父上にバレても別に構わない。シエナが俺のものになるなら──。


「それはそうだが、しかしな……」


「なぜ俺との結婚を許可していただけないのですか?」


「……ふう、私はね、あのときお前を引き取ったのは、将来婿にしようと思ったからじゃないんだよ。どんな感情であれ、お前が昔からシエナを想ってくれていることはわかっている。でも私の目にはその想いが危うく映る。私はシエナに見合いをさせるつもりだ」


「──父上! 俺は姉上じゃないと──」


「いいか、リュシアン、まずはシエナに機会を与えることだ。それにね、私はお前にも機会を与えたいんだよ、視野を広く持ったほうがいい。そのうえで、シエナが最終的にお前を選ぶなら、そのときは私も考えよう」


 これ以上食い下がることは得策ではない。苦渋の思いで、俺は一旦呑み込んだ。





  ◆ ◆ ◆





 その後、シエナはお見合いすることになる。


 シエナがほかの男に会わなければいけないのは我慢がならなかったが、堪えるしかない。


 今の状況でシエナの相手にふさわしい家格で、年齢がそう離れていない男はそうそう見つかるわけがない。候補になるやつはすでに結婚しているか、婚約者がいるはずだ。


 それに父上は有能でも、人を見る目が完璧ではないため、その点は俺を安心させた。


 人間生きていれば、人に言えない秘密や後ろめたいことのひとつやふたつはある。ならば、それを探り出して表に出してやればいい。もし仮に品行方正な相手なら、マークスのように秘めた願望が叶うよう刺激してやれば済むことだ。


 シエナよりも優先することなどありはしない。でもそうしないやつなら、そもそも彼女の隣に立つことすら許されない。


 そして、俺の思惑どおりに事は進んだ。




 一人目の見合い相手、子爵家三男の男は、画家を夢見ていた。だから叶うよう裏から手を回してやった。元々絵の実力はあったが、独創的すぎたがゆえに国内では評価されなかっただけ。評価してくれる相手を見つけさえすれば、あとはそう難しいことではなかった。



 二人目の伯爵家の四男の男はクズだった。

 浮気が明るみに出た貴婦人以外にも貴族、平民問わず多くの女性に手を出し、特に平民の女性は楽しむだけ楽しんであとは何食わぬ顔で捨て去るようなやつだった。こんなやつとシエナが会っていたなんて考えただけでも怒りが込み上げる。やはり父上の人選は当てにはならない。



 三人目の上級官僚は、その男の兄に問題があった。そこで、その兄が犯罪組織とつながっている証拠を意図的に流し、捜査機関が動くよう仕向けた。





  ◆ ◆ ◆





 婚約白紙に続き、お見合いも立て続けに白紙になったことで、シエナは心身ともに疲れていた。その姿を見ると胸が痛んだが、どいつもシエナにはふさわしくないのだから仕方ない。


 でもその結果、お見合いが保留になったので満足している。これ以上新しい男が出てくることはないだろう。


 父上はまた俺の関与を疑うだろうが、結果的にシエナにふさわしくない男を排除できたのだから、納得せざるを得ないはず。


 そして俺自身についても、父上が納得できるようにこれまで遠ざけていた夜会やサロンに参加するようにした。

 視野を広く持てというならそうしてやる。でも結果は目に見えている。

 俺にとっては、シエナだけが唯一の人なのだから。




 生家の子爵家の爵位についてはすでに縁を切っていることもあり、まったく興味はなかった。

 でもよく考えてみれば、シエナと結婚するためには、養子の俺は伯爵家から一旦外れなければいけない。

 そしてクロフツ伯爵家当主となるシエナの婿になるなら、いっときでも爵位があったほうが身分的にも都合がいいだろうと思えた。


 爵位は、俺が婿入りする際に改めて遠縁の者にでも譲ればいい。俺よりも若い者を後継者に据え、俺が後見人になってしばらく摂政として代わりに政務を行えばいい。そうしてその者に恩義を感じさせておけば、今後何か起こったときに使える駒になるだろう。


 そこで俺は爵位を得るための第一歩として、義兄が泳げないことを義兄を恨む連中に教えてやった。


 後日、義兄は狩りの最中に誤って川に落ちたらしい。運よく助け出されたそうだが意識不明とのことで、おそらくもう目を覚ますことはないだろう。


 義母は発狂し、実父である子爵はそんな義母から逃れるように酒と賭博に溺れ、借金まみれになった。


 そのうえで俺は子爵に接触し、助けるふりをして借金返済に関するいくつかの書類にサインをさせた。子爵はあんなに俺を嫌悪していたくせに、過去のことなどなかったかのように目に涙を浮かべ感謝した。

 そのサインした書類の中に、俺に爵位を譲るという内容のものが紛れているとも知らず。

 借金返済についてはもちろん偽の書類だ。それはもう灰と化してどこにもない。


 俺には母からの遺産をもとに投資で得た金があるが、子爵家の借金を肩代わりしてやる気などさらさらない。母の遺産が俺の手元にあるのも、クロフツ伯爵の父上が俺を引き取った際に受け取れるよう手を回してくれたおかげだ。


 そうして色々と準備が整ったところで、改めてシエナとの結婚を父上に願い出ようと思っていた。


 その矢先のこと──。





  ◆ ◆ ◆





 侯爵のダライアス・アディンセルが現れた。


 ダライアスのことは、以前から気に食わなかった。おそらくシエナに気がある。でもダライアスが侯爵家の当主である限り、クロフツ伯爵家に婿入りすることはできない。


 調べたところ、爵位を譲りたい甥が十六歳になるのは来年だった。ならば、それまでにシエナが俺と結婚してしまえばなんの問題もない。


 それなのに──。


 まさかこのタイミングで接触してくるとは思わなかった。


 あいつは本当に邪魔だ。これまでの男たちと違い、隙もなく、シエナのことを真剣に想っている。そう、いやになるくらい、純粋に──。


 相手が動き出せば、シエナを奪われるかもしれない。それが怖かった。




 だから、あの夜会でシエナと会っていたことを知り、我を忘れるほど怒りと嫉妬に駆られた。


 焦りから、怖がらせるほどシエナに乱暴に迫ってしまった。誰よりも大切にしたいと思っていたのに、勢いに任せて強引にキスまでしてしまう。


 もう止まれなかった。


 これまで我慢していたものが一気にあふれ出る。初めて感じるシエナの甘美でとろけるような唇を知ってしまえば、もっともっとと貪欲に求めてしまう自分がいた。


 しかし、シエナの瞳から涙がこぼれるのを目にした瞬間、ハッと我に返った。


『私の目にはその想いが危うく映る』


 シエナとの結婚を願い出たとき、父上から言われた言葉が頭をよぎる。


 シエナに嫌われてしまったら、俺は生きていけない。シエナがいるから、俺は存在できる。

 シエナさえいればいい。シエナのそばには俺だけいればいい。シエナは俺のものなのに。

 その想いが危ういというのだろうか。


 なら、シエナを諦める──?


 まさか、そんなことは死んでも無理だ。


 だからなりふり構わず許しを乞うた。そして、ずっとずっと言えなかった気持ちを伝えた。


 同情でもなんでもいい。嫌わないで、俺を捨てないで、離れていかないで。


 恐る恐るシエナに触れ、その華奢な体を抱き締める。嫌われてはいない。振り払われないことに俺は深く安堵する。


「……俺のこと、嫌いにならないでください」


 そう縋れば、シエナは「嫌いになんてなるわけない」「嫌いになったりしない」と言ってくれる。


 その言葉がどれほど俺の救いになるのか、シエナは知らないだろう。


「じゃあ、ずっとそばにいてくれますか? 俺と結婚してくれますか?」


 ──俺から離れるなんて絶対許さない。

 ──だから俺を選んで。


 狂おしいほどの激情を内に閉じ込め、シエナがよく知る従純な弟の顔で哀願する。


「……ええ、ずっとそばにいる。あなたと結婚するわ、リュシー」


 その言葉を聞いた瞬間、全身が歓喜に打ち震えた。


 優しいシエナ。お人好しで可愛いシエナ。その言葉はもう取り消せない。絶対離さない。


「でも、父上が……。じつは父上にシエナと結婚したいと言ったら、反対されたんです」


 そう言って不安な胸の内をさりげなく伝えると、障害となる父上の許可もシエナ自ら取り付けてくれるという。


 父上の許可さえもらえれば、すぐに婚約して婚姻も最短でしてしまえばいい。


 そうなれば何の不安もなくなる。


 思いがけないシエナからのキス。キスと呼ぶには軽く、ほんの少し触れるだけ。


 でもシエナからしてくれたことに、嬉しさが込み上げる。


「好きよ。わたしも、あなたのことが。多分、ずっと前から──。きっとあまりに近くにいすぎたせいで、気づかなかったのね」


 俺がずっと求めていた言葉を惜しみなくくれる。


「──シエナ、愛してる。ずっと俺のそばにいて」


 目眩がするような幸福感に満たされながら、俺はシエナをきつく抱き締める。

 これ以上の幸せなんかない、そう思った。


「──ねえ、リュシー」


 ふと、シエナが俺を呼ぶ。


 ──何? と視線を合わせれば、


「もうわたしに隠し事をするのはやめてね」


 耳に届いたのは、思いもよらない言葉。心臓が一瞬で凍りつく。


 シエナはどのことを言っている? マークスとの婚約が白紙になったこと? それともお見合いが三度も立て続けに白紙になったこと──? それよりももっと昔のこと──?


 思い当たることがありすぎて言葉を失う。

 体が震え、息苦しさに喘ぎそうになる。


「アディンセル侯爵に何かするのもだめよ? 後日わたしからきちんとお断りを入れるから」


 ──だから、心配しないで。そう言ってシエナが再び俺を抱き締めてくれる。


 深い絶望から一転、与えられる柔らかな温もりに深く安堵する。


「……うん、約束する」


 荘厳な教会の祭壇の前で跪き、許しを乞うように誓う。


 ──ああ、シエナにはやっぱり敵わない。


 俺は心地よい敗北とともに、彼女のぬくもりに身を委ねた。





  ◇ ◇ ◇





 ──わたしは知っていた。


 マークスとの婚約が白紙になったこと、そのあとのお見合いが三度も立て続けに白紙になったこと。


 三人目の方とのお見合いが白紙になったあと、偶然ではあり得ない出来事にさすがに違和感を覚えた。


 水面下で調べたところ、いずれもリュシアンが絡んでいることがわかった。


 驚きはしなかった。もし誰かが動いているなら身近な人物だろうと、なんとなく予想はしていたから。


 でもなぜそんなことをしたのだろうという疑問は抱いた。


 何事においても欲のないリュシアンが、養子としてクロフツ伯爵家の当主の座を狙っているとは考えにくかった。生家の子爵家を継げる話も出ていた。それならば、姉であるわたしの将来を心配しての行動かもしれないと思えた。


 とはいえ、さすがに相手の人生に大きく影響を及ぼすのはいけない。




「──もうわたしに隠し事をするのはやめてね」


 わたしが気づいていること、それを快く思っていないこと、それらをあえてそう言って遠回しに伝えると、リュシアンが驚いてハッと顔を上げる。


 何か思い当たったふうなそぶりで顔色を悪くするも、何を、とは訊き返してこなかった。わたしはさらに続けて言う。


「アディンセル侯爵に何かするのもだめよ? 後日わたしからきちんとお断りを入れるから。だから、心配しないで」


 そう言ってリュシアンを抱き締めると、彼の強張っていた体から力が抜け、子どものようにわたしに身を任せてくれる。


「……うん、約束する」


 そのリュシアンの言葉と態度からも、わたしの意図をわかってくれたと感じ、ほっと胸を撫で下ろす。


 わたし自身、リュシアンへの想いを自覚したばかりだけれど、彼の不安がなくなるよう包み込むように愛していきたいと思う。


 狂愛や執着が過ぎれば、いずれ破綻するのは目に見えている。


 押し付けるだけの感情は、きっと本当の愛とは言えない。


 リュシアンのことが大切だからこそ、信頼し合える対等な関係で、愛を育んでいきたいと思う。


 わたしは微笑み、より一層優しく彼を抱き締めた。





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本当は電子書籍の先行配信開始に合わせて短編投稿したかったのですが、全然間に合わず…(ˊᵕˋ:)

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▶︎ 死に戻りの仮初め伯爵令嬢は、自分の立場をわきまえている

▶︎ 今世は平穏に暮らしたい。悪女と聖女のふたつの記憶をもつ子爵令嬢は、なぜか次期公爵さまに執着される。〜今世ではしあわせな花嫁になります〜



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