【練習番号T-1】萩原素子~邂逅、そして・・・①
「あの、すみません・・・」
後で考えても、その時、私――萩原素子――がなぜそんなことをしたのか思い出せなかった。
小学生が自分と倍ほども歳の離れている知らない大人に話しかけるのだから、よほど興味をそそられたのだろう。
唯一、私が覚えているのは、夕日に輝く“その人”の長い髪だけだった。
ハーフアップにまとめられたロングヘアーが、初夏の気持ち良いそよ風にたなびいていたことが印象に強く残っている。
もしかすると、その絵のような美しさにほだされ、魔が差したのかもしれない。
だが、やりとりの詳細はよく覚えている。
このときの思い出を、その後なんども反すうしたからだ。
私が声をかけてしばらくの「間」のあと、
「何?」
彼女はそう言ってゆっくりと私の方へ振り向いた。
ちょっと音高が高目の、透き通るような綺麗な声だった。
また、その顔は逆光の夕日の影になっていたにも関わらず雪のように白く、高い鼻を中心に各パーツのバランスのとれたその美しい顔貌と相まって、正に“白皙の美女”のそれそのものだった。
ゆったりしたワンピースを着ていたため、体型はよく分からなかったが、きっと良いスタイルをしていたに違いない。
年齢は、自分の母親よりは少しだけ若く見えたと記憶している。
とはいえ、高校生でも大人と区別がつかなかった当時の私の記憶だから、もっと若かったかもしれないけど。
「えっと、その・・・それ、トランペット――ですよね?」
私はこの状況を持て余し、気もそぞろのままなんの変哲もない、詰まらない言葉しか出なかった。
「ああ・・・うん。そう、トランペットよ。よく知ってるわね。中学生?」
「トランペットくらいなら、分かります。音楽の授業で習いましたから」
私は最後の質問にはすぐには答えず、それだけ言ってから
「それに――」
そう付け加えた。
トランペットの彼女は可愛らしく首を傾げ、続く言葉を待っていたようだった。
「私、中学生じゃありません。背が高いからよく間違われるんですけど、小学6年生です」
私のその言葉を聞いたトランペットの彼女は、驚いたような、感心したような、 当然のこととして受け入れるかのような、複雑な表情をしていた。
そういう表情は、私には――特に公共交通機関で――見慣れたものだったので、なんとも思わなかったけど。
「そうなんだ。それなら私の――いえ、なんでもないわ。ところでクラブ活動は何をやっているの?」
トランペットの彼女は、楽器を持っていない右手で、風で乱れた髪を優しくかき上げながら言った。
その時は、なぜそんな質問をされたのか分からなかった。そのせいで、彼女が言いかけた言葉を気に掛ける暇がなかった。
「クラブ活動は、色々です。4年生のときは読書クラブ、5年生のときは一輪車クラブで、今は英語クラブです。受験に役立つので」
私は、これまで所属してきたクラブ活動を、一つずつ指折り数えながら思い出していった。
「へー。色々やっているのね。受験て、私立中学受験するんだ。好きなんだね、勉強」
さっきより驚いた表情で、トランペットの彼女は言った。
「勉強は、好きかどうかはわかりません。担任の先生から、私の成績だと公立の中学に進学するのはもったいないとかなんとか。お父さんとお母さんが本気になっちゃって・・・。良い学校はだいたい中高一貫校で、高校からは募集してなくて。中学からしか入学できないので。私の志望校も。女子校なんですけどね」
「女子校かあ。実はね、私も女子校出身なのよ。高校からだけど。公立だから」
「公立の女子校・・・ですか。というと、この辺だとF女学院ですか・・・?」
F女学院の名は、両親と進学する中学を調べているときに知った。
当時の私は、女子校というと私立しかないと思い込んでいたので、その名が強く記憶に残っていたのだ。
当時はいくつか公立の女子高はあったが、F県の公立女子高は共学化が進み、今ではF女学院だけになっている。
「ご明答。さすがによく知ってるわね。私、見てのとおり、トランペットばかり吹いるでしょう? 小学生に言うようなことじゃないかもしれないけど、勉強は得意じゃないし、あんまり好きでもなかった。だから、家の近くであんまり偏差値の高くなかった学校に行っただけね。私は、人は自分が好きだったり得意なことを伸ばしていくことが、幸せになれると思っているの。スポーツが好きな人はスポーツの能力を伸ばしていけばいいし、勉強が出来る人は、その能力を伸ばしていけばいいって。勉強ができないことの言い訳かな」
トランペットの彼女がワハハと豪快に笑う。
「私にはそういう難しいことはまだよくわかりません。けど、好きなことがある人は羨ましいと思います。 勉強が得意っていっても、私、そんな好きなことなんて・・・。クラブ活動も、毎年違うクラブに入ったり、習い事も長続きしなくて・・・」
「そっか。正直なのね。好きじゃないのに勉強が得意だなんて、そうじゃない私にとっては違う星の住人みたいな話。でも、その正直さがあれば、自分の“好き”を見つけたとき、その“好き”に素直に向き合えばいいと思うわ。そのチャンスを逃して、後悔する人を私は何人も見てきたし。私自信――」
その時、防災無線の夕焼けチャイムの鳴る音が聴こえた。
何やら、そこから重要な話題になっていくような気がしたが、タイムリミットの時間だ。
「あの・・・、私から話しかけておいてなんですけど、お話し中申し訳ありません。実は塾に行く途中なんです。バスの時間が過ぎそうなのでこの辺で・・・」
私は、ペコリと頭を下げて言った。
「それは大変! 急いで行った方が良いわね。私の方こそごめんね、話し込んじゃって」
「いいえ、そんなことないです! 話しかけたのは私の方で、トランペットの練習まで邪魔しちゃって」
そこまで言うと、本当にバスに乗り遅れそうだったので、私は「失礼します」と言って、走ってその場を立ち去った。
翌日、私はまたトランペットの彼女に会えるかと思い、同じ時間にその場所に行ってみたが、空振りだった。
そして、その翌日も、またその翌日も。
2週間ばかりそんな習慣を繰り返したが、トランペットの彼女と再開することはなかった。
その後は、学期末が近づき、夏休みにもなって夏期講習や塾の合宿勉強など受験勉強が忙しくなってきたこともあり、私が川辺に通うことは自然に忘れていった。
やがて月日が経つにつれ、あの日の出来事はいつしか遠い記憶の中に、甘美なイメージとともに思い出されるようになった。
夢の中での出来事のようにさえ感じられるようになった。
ただ一つ心残りだったのは、当時の私の考えの及ばないことであるのは事実だが、トランペットの彼女の名前を聞きそびれてしまったことだった。
――それから4年。
幸いにも無事に第一希望の私立中学へ入学できた私は、エスカレーター式に高等部に進学し、高校1年生になっていた。
「どうしたの? ボケっとしちゃって。素子らしくない」
いつの間に座ったのだろう。空席だった私の隣の席から、同学年の仲良し友人、森田清美が話しかけてきた。
隣に清美が座ったことに気づかないほど、私は自分の考えに集中していた。
清美は人懐っこい性格で、中学に入学したときも、最初に話しかけてきたのは彼女の方からだった。
彼女はショート・ボブのよく似合うボーイッシュな顔立ちで、バレー部員かバスケ部員のようなスポーティーな印象が強かった。
清美の言では、髪を短くしているのは髪が長いと、勉強や読書、そして食事のとき下を向くと邪魔になるからだそうで、運動はどちらかといえば苦手な方だという。
また、その明るく開けっぴろげな性格は私とはまるで正反対だった。それだけに、私と清美はすぐに意気投合した。
「ごめん。ちょっと、昔に出会った人のこと思い出してた」
私は、前の座席の網ポケットに入っていたエチケット袋のポリ袋をみつめながら言った。
4年前が昔のことかどうか微妙なところだけれど。
「昔のこと? 小学校のとき付き合ってた元彼のこととか?」
大きな瞳をキラキラと輝かせて清美が訊く。
“中学のとき”ではなく“小学校のとき”なのは、中学時代、私が異性と付き合ったことがないことを清美は知っていたからだ。
「ばか。小学校のときのことには変わりないけど、そんなんじゃないわよ。この時期になるといつも思い出すの。今となっては、夢か現実かわからなくなっちゃったけど。それに、その人、女の人だし」
「なーんだ」と言って、アハハと笑う清美。
「なにそれ、ウケる。そんなことある?」
清美は笑いを必死に抑えながら言った。
「さーね。中学受験することが決まって、その勉強でずっと忙しかったから、他の記憶が曖昧になってるのよ。人の記憶なんて、そんなもんでしょ? だから、実際にあったことなのかもしれないし、明晰夢だったのかもしれないし」
「ふーん・・・。学年トップの超完璧優等生・萩原素子でもそんなことあるんだ」
「超完璧優等生、ねぇ――。実は私、勉強って好きなわけじゃないのよね。その頃から。でも、いつの頃からかそう呼ばれるようになって。ただ、そのときにその人に言われた『好き嫌いにかかわらず得意なことを伸ばせ』を守り続けて来ただけ」
「あのさ・・・。それ、嫌味に聞こえるからあんまり言わないほうがいいわよ。ってか、嫌味そのもの。勉強好きなのに、逆立ちしても素子に勝てないガリ勉ちゃんに何されても知らないから」
「それって清美のこと?」
「私・・・? 私も・・・勉強は好きとは言えないかな。それに、私の成績なんて素子に遠く及ばないし。月とスッポン。とりあえず、今は部活が一番。1年生だし、大学受験のことはまだ一番に考えなくていいでしょ」
清美は、親指を立てた拳を私の眼の前に突き出した。
「清美とは中学の時からの仲だけど、いくらなんでも少しは勉強のことも考えた方がいいわよ。朝練はいつも一番最初に来て練習してるし、放課後だって最後まで。山田が愚痴ってたわよ。“先輩が練習してるといつまでも帰れない”って」
「山田め。いつも愚痴ってばっかりいやがって。来年、高等部に上がってきたら、みっちりしごいてやらなきゃ」
清美は、突き立てた親指をそのまま真下に向けて言った。
「止めてよね。理不尽なしごきが発覚して、コンクール出場自粛とか。それこそ、部員から何されても知らないわよ」
言って、私は頭を小刻みに左右にふった。
「わかってるわよ。私は、全国大会優勝の目標に足手まといになる要素は排除したいだけ。そんなこと言って、素子だって練習量は相当なものじゃない。さっき人ごとみたいに言ってたけど、あなただって朝一番に来て、一番最後に帰ってる。なんなら、私より後にね。それで、よく学年トップ維持していられるわ」
清美は、私の行動を真似するように頭を左右にふりながら言った。
「それも、あのとき会った人のお陰。飽きっぽい私が吹奏楽部に入ってトランペット始めて、4年も続いているのだって、その“トランペットの彼女”の影響なんだから」
「トランペットの彼女? 何それ?! 私、始めて聞いたんだけど!」
清美が語気を強めていった。
「そりゃそうよ。今まで、誰にも話したことないし。さっき言ったように、もう現実だったかどうかも分からなくなっちゃったし」
清美のテンションとは逆に、私はまるで独り言のように静かに言った。
「で、どんなことがあったのよ? その“トランペットの彼女”と!」
清美が、座席の肘掛けから身体を乗り出してきた。
「あまり長い話じゃないけど、今その話をしている時間はないわ。ほら、もうすぐ会場に着くし。バスがインター降りたら、数分で到着よ。そろそろ降りる準備しなきゃ」
私はそう言って、清美の身体を押し返した。
中学のときから毎年参加しているイベント会場への道のりだ。
私も清美も、バスの車窓の外を流れる風景が、視界の端に見えただけでわかる。
ただ、会場は中学と高校で分かれており、バスは中学の時に使用した駐車場を行き過ぎ、公園の裏手へ回っていく。
「ホントだ。もうこんな場所。話してると早いわね。あとでその話、絶対聞かせてもらうからね!」
清美はそう言うと、揺れるバスの中をよろよろと歩いて、自分の席に戻っていった。
今年のバラ・フェスティバルは、私が待ちに待ったイベントだった。
各学校の演奏順を見たとき、この学校の入試で受かったときよりも、私の心は躍った。
バラ・フェスティバルは、会場の混乱を避けるため、各校、早くとも出番の30分間前に会場に着き、遅くとも30分後には会場を出発するのが習わしというか、各参加校の暗黙の了解になっていた。
人数も多いし、荷物も多い吹奏楽部にとって、その時間内で準備と後片付けを終えるというのは、かなりギリギリのスケジュールだ。
はっきり言って、吹奏楽コンクールの本番のときよりタイトといえるスケジュールといえる。
コンクールではないので、会場到着がやむを得ず大幅に遅れた学校の出演は後回しになるそうだが、今までそんなケースはなかったそうだ。
そして本番の直前には、一つ前の学校が演奏している間、コンクール同様、客席からは死角になっているステージの袖で順番待ちとなる。
つまり、直前の学校の演奏はまるまる聴くことが出来るということだ。
今年、自分の高校の直前に演奏をする学校は、“トランペットの彼女”がOGの、県立F女学院高校だった。
あのとき、“トランペットの彼女”は確かにそう言った。
F女学院高校の吹奏楽部は、昔――ちょうど、“トランペットの彼女”が在学中くらいだろうか?――は強豪校だったそうだけど、私が中1で吹奏楽部に入ったときには、コンクールでは無名の弱小校だった。
けれど、年を経るごとにコンクールの成績は着実に上っていった。
もっぱらの噂では、今年はブロック(地区)大会を突破して、府県大会への出場もあり得るのではないかと、実しやかに云われている。
3年生の先輩によると、今年入学したトランペットの1年生が滅法巧く、プロ並みの実力者らしい。
“トランペットの彼女”の件もあるし、私はその1年生の演奏をぜひ生で聴いてみたかった。
私の望みそのままに、F女学院高校吹奏楽部の演奏を客席ではなく、間近なステージ袖で聴くことが出来るのは本当にラッキーだ。
バスがフェスティバル会場の駐車場に到着すると、1年生から一人、また一人とバスを降りていく。続いて2年生、3年生という順番だ。バスの席順自体がそうなっていた。
1年生はバスを降りると、バスの胴体に収納された打楽器やバリトン・サックス、テューバなどの大物楽器を次々に搬出していく。
吹奏楽部は、未だに上下関係が厳しい。
肉体労働は、どうしても1年生が中心に働かなければならないからだ。
更に大きな、ティンパニ、バス・ドラム、チューブラーベル、マリンバ、コントラバスなどは、別便のトラックで既に会場に到着している。こちらは打楽器が多いので、打楽器担当者の仕事だ。1年生だけでは人数が少ないので、上級生も含めて荷下ろしを行う。
打楽器パートは、基本的にティンパニ以外は一人が様々な楽器を扱うので、このような体制になっている。
「整列!」
バスから楽器の積み下ろしが完了したことを見極めた部長が号令をかける。
それまで忙しく作業をしていた部員たちは、一息つく暇もなく一箇所に集まり、整然と並んでいく。
部長が列の方を向いて、最前に立つ。
部長は背があまり高くなく、中学生のような背格好の3年生だが、声のとおりはよかった。
「各パートリーダーは身の回りを確認して、忘れ物や体調の悪いメンバーなどの問題がないか報告してください!」
間もなくして各パートリーダーからの報告を聞いた部長は、満足した表情になって、再び号令をかける。
「では、これから楽器をケースから出して演奏会場に移動します! 毎年の注意だけど、準備時間に余裕はありません。楽器の用意とチューニングは速やかにしてください。移動中、木管はリードの乾燥と破損に気をつけて。ただし、リードを口に咥えての移動は禁止です。それじゃ、チューニングを済ませたらまた整列してください。では、始め!」
部長の合図とともに、各自ケースから自分の楽器を出し始める。
楽器を出し終わった楽器ケースはバスの近くに纏めて置かれ、その上にブルーシートが被せられる。
トランペットは、楽器をケースから出してマウスピースを付けるだけで、基本的に演奏準備完了となる。
一方、木管楽器は楽器をバラしてケースに入れているので、組み立てる作業が必要となる。
低音の大きな楽器ほどパーツが多く、バラすのも組み立てるのも大変だ。
そんな事情で、チューニングは金管楽器から順々に進んでいく。
あまりにも早く楽器の準備が完了してしまい、手持ち無沙汰だったので、チューニングを始める前に、私はピストン・バルブへ念の為にオイルを塗る。その作業も、ほんの1、2分で終わってしまうけど。
部には、備品のチューナーが各パートに一つづつ用意されている。しかし、チューナーとメトロノームは個人練習でも必要な重要アイテムだ。だから、チューナーとメトロノームの機能をいっしょに備えた携帯用のチューナー&メトロノームの部員所有率は100%。
もっとも、スマホのアプリでも、その両方がいくつも配布されている。
でも、スマホのアプリだと、他の音が鳴っている状況下ではチューナーの反応は悪いし、楽器を吹いていると自分の音でメトロノームの電子音が聞こえにくい。
携帯用のチューナーやメトロノームは、楽器の音が出る箇所にクリップで集音マイクを付けるタイプや、イヤホンでメトロノームの電子音を聞き取れるタイプのものがある。だから、多くの部員は、スマホのアプリはその充電を忘れたりして、練習中にバッテリー切れを起こしたときの緊急用くらいでしか使っていない。
すべての楽器のチューニングがほぼほぼ終わり、部員の整列を確認すると、部長は再び満足そうな表情で「出発!」と叫ぶ。
そして踵を返して進行方向に向き直ると、マーチングバンドのドラムメジャーよろしく、その先頭に立って歩き出す。
本番への緊張がないとはいえない。
今日は、高校生になって初めての公開演奏だから。
でも、私の気持ちは、F女学院高校吹奏楽部の演奏を聴ける嬉しさの方が勝っていた。
ゴールデン・ウィーク最終日。5月上旬とは思えない暑い日差しを感じながら歩く私の心は、その期待でいっぱいだった。
こんなんだったら、日焼け止めクリームを塗っておけばよかったなと、私は少し後悔した。
演奏ステージの裏手に設けられた「演奏者待機所」付近に到着すると、時間が押しているのか、私たちが早く着きすぎてしまったのか、まだ前の学校――F女学院高校――が野外ステージの入り待ちをしていた。
ここまで来ると、ステージでの演奏はPAで音量が増幅されていることもあり、かなりはっきり聴こえるようになる。
「みんな、聞いて! ここで、少し時間待ちをします」
部長が、実行委員と思われる若い女性から耳打ちされてから、みんなにそう伝えた。
「あれがF女――」
私は、F女学院高校の制服が、公立高校らしい地味な濃紺のブレザータイプであることを知っていた。だから、間違いない。
確か、ブラウスの襟元に付けるタイは、学校指定のいくつかのタイプから選ぶものだったはずだが、今日は正式な郊外活動だからか、女子校らしいリボンタイで統一されていた。
リボンタイの色は、学年ごとに違う“学年色”らしい。
黒い塊の中に、時折チラチラと揺れ動く三色が見える。
うちの学校の制服は、ブルーグレーのセーラー・ブレザーの中に白いブラウスを着て、えんじ色の大きな成形リボンを付ける。いわゆる“ブランド制服”だ。
私は、家からの距離と自分の実力を考慮してこの学校を選んだが、この制服に憧れて中学受験を希望する小学生もいるという。
「確かに、こうして比べてみると、うちの学校の制服は可愛いな。まあ制服で勝っても、コンクールの成績で負けたら意味ないんだけど」
私がくだらないことを考えていると、
「先輩先輩、F女、コンクールの曲演奏しないらしいですよ」
私の前の方に並んでいたホルンの2年生が、意外な言葉を口にした。
「え、そうなの? まさか、コンクール出ないとか?」
その話を聞いて、ホルンのパートリーダーが驚いて訊き返す。
さすがに、コンクールに出ないなんてことはないと思うけど。
「いえいえ。プロの指揮者を外部コーチにつけたといいますし、コンクールには出張ってくるかと」
「それじゃ、なんでコンクールの曲やらないのよ?」
それは、私たちにとってはあまりにも当然の疑問だった。
この時期、コンクールで演奏する曲は、課題曲はもちろん、自由曲も決定しているはずだ。
だけど、普通、コンクールで演奏する曲の他に、フェスティバルで演奏する曲の練習までする余裕はない。
曲の長さにもよるが、どの学校も概ね2曲は演奏する。
正直、コンクール前にこのような大きなイベントに参加すること自体おかしいのだ。
だからこのフェスティバルでは、コンクールを重視している学校ほど、コンクールの自由曲を演奏することになる。
つまり、このフェスティバルはコンクールの前哨戦というわけだ。コンクールはもう始まっているのだ。強豪校ほど、その意識が強い。
このフェスティバルが、この辺りのブロックの参加団体の間で“コンクールのブロック(地区)大会第0次選考”といわれている所以だ。
もっとも、コンクールの課題曲は4曲なので、課題曲を演奏すると同じ楽曲ばかりになる可能性があるから、自由曲を選ぶのが暗黙のルールになっているけど。
なのに、コンクールの自由曲を演奏しないなんて、驚いて当然だ。
「それはわかりません。妹の友達がF女の部員の1年生と知り合いで、そう聞いたということしか」
「京子ちゃんも吹奏楽部だったっけ?」
「 はい。小学生の頃からなんでも私の真似ばかりして、変な妹です。中学でも当然のように部活は吹部で。クラリネットばっかり吹いて、全く勉強しなくて困ってます」
「はは。それにしても、プロ指揮者の外部コーチつけたってことは、それなりにコンクールに対しては本気ってことよね。もっとも、バラフェスでコンクールの自由曲演奏しなきゃいけないって規則はないし。まだ公の場で演奏できるほど仕上がりが十分じゃないとか?」
「かもしれません。でも、自由曲の仕上がりが不十分なのに、フェスティバル用に他の曲を演奏するのはおかしい気がしますし・・・。まさか、課題曲も自由曲もまだ決まってないとか・・・?!」
「さすがにそれはないでしょ。コンクールで上位入賞狙うなら、ゴールデン・ウィーク前から仕上げてこなきゃ。ゴールデン・ウィーク開けたら、すぐに中間テストの試験休み入っちゃうし、集中して練習できる時間ないよ」
「そうですよね。1学期は長いようで短いですものね。修学旅行とか生徒会選挙とか、練習の妨げになるイベントも多いから。少なくともブロック大会では、新1年生の受け入れが終わってから、ゴールデン・ウィークの一週間が、一番集中できる期間です」
私たちも、2曲演奏する楽曲のうち、1曲はコンクールの自由曲だ。
「でも残念です。噂のF女の実力、コンクールの自由曲がどこまで仕上がってるかで確かめたかったんですけど。演奏順、せっかく私達の前なのに・・・」
「F女は、コンクールでは私たちと同じブロックだからね。F女が噂通りのレベルなら、私たちの対策も変わってくる。まあ、コンクールの曲を演奏しないにしても、大体のレベルはわかるでしょ」
「そうですね・・・。もちろんF女だけでなく、他の強豪校の演奏も気になりますけど。部長・副部長と各パートリダーは、演奏が終わったあとも会場に残って、他の学校の演奏を聴かれるんですよね?」
1年生や2年生他の一般部員は、演奏が終わったら学校にとんぼ返りして、撤収作業を行う。
「そうよ。でも、テレビの放送、予約録画してあるんでしょ?」
フェスティバルの演奏は、フェスティバルに協賛している地元テレビ局が特別番組を組み、生中継している。
「生演奏と録音は違うんですけどね。そうします・・・」
ホルンの2年生が渋々答える。
その時、ステージの演奏が終わった。
「それでは、移動を開始します。列を崩さず、前へ!」
前の方から部長の号令が聞こえ、列が徐々に動き出して行く。
トランペットは列の最後の方になるので、私が演奏者待機場に来たときには、F女学院高校はもうすぐ演奏の準備が終わりそうになっていた。
私がF女学院高校のステージ・セッティングを眺めていると、前の方から部長が右腕を上げて、手招きして私を呼んでいるのが見えた。
トランペットのパートリーダーから「素子、ほら、呼ばれてるよ。行ってきな」と言われて、私は部員をかき分けながら、いそいそと部長の元へと向かう。
「部長、私に・・・何か?」
「萩原さん。見える? F女のトランペットの1st。えっと、緑色のリボンタイよ」
部長にそう言われて、私はステージを見た。
バンドの編成にもよるが、1stトランペットは概ねトロンボーンのすぐ横の席に座っているので、すぐに分かった。
「はい、見えます。ストレートのミディアムヘアをセンターパーツ別けした、色白で割と可愛い・・・」
「そう、金色のトランペットの。彼女が、今話題のF女の1年よ」
そういえば、まだ部活の勧誘期間に上級生が騒いでいて、聞いたことがある。
3年生を差し置いて、1年生で1stトランペットの座を射止めたという。
一時期、F女吹奏楽部の公式サイトで動画が公開されていたから、彼女の演奏の巧さは全国の吹奏楽部員に知れ渡っている。
なんでも、吹奏楽界隈で最大のSNS掲示板で大騒ぎになり、ファンクラブも設立されたとかなんとか。
私はそういうことには疎いので、あまりよくわからないけど。
ということは、F女の今年の1年は緑色が学年色か。
どうりで、彼女の隣の赤いリボン――多分3年生――の人と比べると、まだ子供っぽさが残っている印象があった。私と同い年だけど。
「それで、私はどうすれば・・・?」
「あなたも1年だし練習熱心だから、特別に彼女の演奏を近くで聴かせてあげる」
なぜかドヤ顔で言う部長。
しかし部長は私よりタッパが低いので、上目遣いになってどこか可愛い。
もっとも、小学生の時には中学生に間違えられるほど背の高かった私も、中学では思ったほど伸びず、あまりタッパのある方ではないけれど。
「いいんですか?」
年功序列の厳しいうちの部で、私だけ特別扱い。驚きを隠せない。
それは、私の希望でもあったのだから。
「いいのいいの。これも勉強だし。他のラッパ連中には後でテレビの録画見せるしね。F女はコンクールでうちの学校と同じブロックだから、敵の学校の1年がどういう演奏をするか、自分で確かめてみて。練習のモチベーションにもなるでしょ」
部長は何かを察しているのか、私の目を見つめながらそう言った。
「はあ。それでは、お言葉に甘えてここで聴かせていただきます」
私はそう言って、部長に一礼する。
「それじゃ、もうすぐ演奏始まりそうだから、しっかり観察するのよ。曲は『アッピア街道』と『キエフの大門』。どれもラッパにとっては大変だけど、おいしい曲でしょ?」
部長が話し終わると、会場に演奏者紹介のアナウンスが鳴り響いた。
そのアナウンスが終わると、盛大な拍手とともに指揮者が登場する。
F女のトレーナー兼指揮者は、プロの指揮者だと聞いていたから、私はてっきり年配のおじさんを想像していた。
しかし、ステージに現れたのは、自分の母親と同い年くらい――だからそんなに若いとはいえないけど――の、ファッション・モデルみたいな長身の美しい女性でびっくりした。
髪はポニーテールにまとめられているが、きっとロングヘアーなのだろう。
こんな素敵な女性、どこで捕まえてきたんだF女は。
いや、指揮者のことはどうでもいい。少なくとも今は。
問題はトランペットの1年生の実力だ。
とはいえ、そのときの私は、この1年のことをまだ甘く見ていた。
いくら巧いと言っても、所詮は部活でトランペットを吹いている高校1年生。
ちょっと人より指が速く回って、高音を吹くのが得意なくらいだろう、程度にしか思っていなかった。
高い音が出れば、だいたいトランペットは“巧い”といわれるのだ。
ところが――。
私の余裕は、見事に打ち砕かれる。
指揮者が会場に向かって一礼した後、バンドに向かい合い、静かにタクトを下ろすと、『アッピア街道の松』の演奏が始まった。
一定のリズムを刻むティンパニとコントラバスなどの重低音によるドローン(持続音)が不気味な雰囲気を醸し出す。
今でも残る、霧のかかった夜明け前のアッピア街道を行進するローマ軍の兵士たちの歩みだ。
ステージは野外だが、音はステージに何本も配置されたマイクを通してPA(増幅器) で増幅されているので、小さな音も聴き取りやすい。
しばらくすると、付点八分音符が特徴的な動きがクラリネットに現れる。
この動きは、曲の中盤以降でローマ軍の勝利を象徴する音型として、ファンファーレのように高らかに奏でらるが、この時点ではまだか細いつぶやきのようにしか聴こえない。
その後、五連譜や三連符、そして装飾音を伴った複雑で長いイングリッシュ・ホルンのソロが来る。
イングリッシュ・ホルンのソロは、後半でファゴットやクラリネットと絡むが、特に発展のないままぶっきらぼうにぶった切られると、変ロ短調から変ロ長調の同主調へと転調される。
同主調への転調なので、低音のドローンは相変わらず同じ音高を保持し続けるが、音の響きはにわかに明るく変化する。
転調したところで、ホルンに先ほどのクラリネットと同じ動きが現れるが、臨時記号のない四度と五度の自然倍音に基づいた跳躍が「勝利の響き」を暗示させる。
ホルンが同じフレーズをもう一度くりかえすと、ようやくトランペットが加わり、同じフレーズを弱音で演奏する。
でも、最初は下の方のパートからだ。
F女は、本来オフ・ステージで演奏するパートを、下のパートにもってきているようだった。
意外に、このトランペットの人たちの演奏も巧かった。
この曲はコンクールでよく演奏されるし人気が高いので、私も何度か聴いたことがある。去年はうちの高等部の定期演奏会で聴いた。でも、実際に演奏したことはない。だから詳しくは分からないないけど、ピアニッシモかピアノの弱音が指定されている音量の指示を守りながら、萎縮せずしっかりとした発音で歯切れよく吹くのは簡単じゃない。
制服のリボンタイの色から判断すると、彼女たちも1年生らしい。少なくとも中学からトランペットを吹いている経験者のようだったが、それにしても、だ。
もし1stの1年生がいなかったら、彼女たちも1stパートの候補に上がっただろうか?
いやいや、F女の上級生もそれなりには巧いだろうから、それはないか。
もちろん、演奏の上手い下手でパートが決まるわけではないから、彼女たちが下パートを吹いているのには合理的な理由があるのだろう。
ホルンと下パートのトランペットのパッセージがさらに上の音域でもう一度繰り返されると、調号はそのままで臨時記号によって再び変ロ短調になる。
今度はトロンボーンにそのフレーズが出ると、いよいよ1stトランペットの出番だ。
指揮者はトロンボーンのパッセージが終わると、左手で1stトランペットにキュー(合図)出しをする。そして、そのまま1stトランペットに向けて棒を振る。
これは、別にリズムがズレたから指揮に合わせるようにさせているのではなく、指揮者がトランペットの演奏に合わせて指揮をしているのだ。
つまり、ここでの演奏の主導権を、指揮者が完全にトランペットに受け渡したことを意味する。
吹奏楽に限らず、オーケストラでもトランペットの音は目立つ。横幅20メートル、奥行き15メートルは余裕であるステージのどこからでも、トランペットの音は確実に聴こえる。だから「音楽の集合点」として、トランペットの音はよい目印になる。
吹奏楽やオーケストラの一般的なイメージとして、演奏者は指揮者に演奏の全てのタイミングを合わせると思われている。
汗だくで一生懸命に身体全体を使って動いている指揮者を見ていると、そういうイメージを抱くのも不思議ではない。
実際「指揮をよく見なさい」と言う指導者は多い。
しかしその一方で、実は優れた楽団ほど演奏者は指揮者を“見ていない”ものだ。
それは、演奏者個人個人の演奏は音楽の全体の流れの一部だからだ。
そこで無理やり指揮者に合わせようとすると、その流れからはずれ、常に遅れてしまう。
自分の演奏を、音楽の全体の流れにどう合わせるか。
そう考えた時、指揮者に合わせるより、今実際に鳴っている音楽の流れに合わせる方が、理にかなっているだろう。
その中で、テンポが速くなったり遅くなったりしないように、演奏全体を客観的に聴いている指揮者という存在が必要になってくる。
だから、そうなる可能性が少ない箇所では、指揮者は「私に合わせろ」オーラを出す必要はない。
ラヴェルの《ボレロ》など、テンポ変化の少ない音楽では、最初から最後までしっかりとリズムを刻まない指揮者も多い。
そういうことを分かっている指揮者とそうでない指揮者とでは、演奏の質も違ってくる。
やっぱり、この指揮者はプロとして何度も本番を経験してきた“本物”だ、と私は思った。
そしてその時、私の心は“1stの彼女”の音に釘付けになった。
「ローマの松」のこの箇所は、一度変ロ長調に転調した後、再び変ロ短調になり、仄暗い雰囲気がまた戻ってくる。
そこで1stトランペットが入って、そのフレーズの頂点でhighB♭(実音シ♭)にまで上り詰めると、そこでまた変ロ長調に転調される。
このトランペットをきっかけに、登った朝日が行進するローマ軍の軍列を徐々に明るく照らし出していくという描写だ。
“1stの彼女”が演奏に加わると、変ロ長調に転調したこと以上に、バンド全体の響きや音色が今までとガラリと変わった。
「うそ。highB♭でも顔色ひとつ変えないどころか、こんなに豊かで無理のない響き。確か、この少し後でもう一度highB♭のロングトーンが出てくるはずだけど・・・。てか、1stトランペットってこんなにずっと吹きっぱなしだったかしら?」
素子が以前聴いた「ローマの松」の演奏を思い出そうとしていると、部長が声をかけてきた。
「今のところ、パート割り変えてるわね」
「え、そうなんですか?」
「知っての通り去年の定期演奏会でこの曲やったんだけど、そのとき2、3番トランペットだった先輩が“自分たちの唯一の見せ場”と言ってずっと練習していたから」
どんな理由があってF女はそんなことをしたのか素子は見当がつかなかったが、すぐに出てきた“二度目”のhighB♭に圧倒されて、そんなことはどうでもよくなった。
「highB♭のフォルテピアノ(*筆者注:フォルテで吹き始めてすぐにピアノに音量を落とす強弱記号。fp)からの、一小節間での急激で大胆なクレッシェンドをこんなに綺麗に決めるなんて・・・」
1stトランペットのこのクレッシェンドを切っ掛けに、バンド全体も徐々にクレッシェンドしていき、タム・タム(筆者注:ドラ)の一撃を合図に、最大音量(fff)に達する。
「間近で聴いているせいか、ものすごい音量・・・。F女って、こんなパワーあったんだ。でも、五連符の掛け合いは、確かhighC(実音ド)とかhighB♭以上の高音が連続するはず。1stトランペットは――多分三年生の――ダブりが一人いるだけだから効果的に聴かせるには不十分じゃないかしら・・・?」
一瞬、素子は懸念したが、すぐにそれが取り越し苦労だったことが分かった。
“1stの彼女”は五連符の直前、それまで水平に構えていた楽器を、突然やや斜め上に角度をつけて構え直した。
「え、ベルアップ!?」
楽譜にそんな指示はないはずだ、と素子は思ったが、楽譜のパート割りすら変えてくるバンドだ。
自分たちの演奏を効果的に“演出”することに躊躇はないのだろう。
そういえば、ホルンも途中からずっとベル・アップして吹いている。
素子は気配を感じ、部長を見る。
なにか言いたそうな表情だった。
しかし、この音の洪水の中ではそうとう声を張り上げないと会話は成立しないだろう。
素子と目が合うと、部長は「お手上げ」とばかりに両腕を身体の左右に開くジェスチャーをして微笑んだだけで、再びステージに向き直った。
ベルアップの効果だろうか、“1stの彼女”の音は素子の耳にハッキリと聴こえた。
思わずその運指を確認する。
「highC、highH(実音シ)、またhighC。そしてhighB♭の長音・・・。信じられない。どうしてこんなに“通る”音なの。それも顔色一つ変えずに、あんな軽々と。化け物か」
素子は、部長が自分に彼女の演奏を見せた理由が分かった気がした。
別に、自分はトランペットの演奏がめっぽう巧いわけではない。
それは、自分でよく分かっている。
だからこそ、出来うる限りの努力はしてきたつもりだ。
あのとき、河原で偶然出会った“トランペットの彼女”に少しでも近づきたくて。
中学受験で進学した今の学校の吹奏楽部にも、巧い先輩は何人もいた。
もちろん、吹奏楽コンクールのレギュラーを決めるオーディションにも通りたい。
だが、自分の中では、やはり“トランペットの彼女”の存在が大きかった。
でも、それは漠然とした目標であって、なんだか、闇雲に時間ばかりを掛けていた気がする。
「私、どういうプレーヤーになりたいのか、具体的なヴィジョンが何もなかったな・・・」
素子が今までの自分のトランペット演奏に対する姿勢を考えていると、F女の演奏は終盤に差し掛かっていた。
「最後のフェルマータ。ああ、もう終わりか」
「ローマの松」の最後の音は、楽器にもよるが一拍目にある打楽器の一撃の後、フェルマータ(筆者注:程よく伸ばす)付きの付点二分音符になっている。
最後の音を聴きながら、指揮者が腕をおろして演奏を止める合図をするのを素子は待っていた。
しかし――。
「え、ちょっと待って・・・。どういうこと?」
通常、どんなに長いフェルマータでも5、6秒もあれば終わる。
それなのに、指揮者は左右に両腕を大きく開いたまま。
当然、バンドも最後の音をずっと伸ばし続ける。
それも指揮者が両腕を開いたままゆっくり上げていく動作に合わせて、クレッシェンドしながら。
さらに、“1stトランペットの彼女”はどうやらhighB♭で吹いているようだった。
「ここ、highB♭だったけ? 確かにhighB♭は変ロ長調の基音だけど、いくら彼女でもこんなんじゃもたないんじゃ・・・」
素子が心配しながら“彼女”を凝視すると、相変わらず顔色一つ変えず、平然とした表情で吹いている。
「あの子・・・やっぱり化け物だ・・・。この指揮者も大概だけど」
指揮者がほとんど万歳をした格好で上まで上げた両腕を、身体を激しくねじ回して「音止め」のポーズをすると、永遠とも思えるフェルマータが終わった。
間髪入れず、演奏会場全体が一斉に万雷の拍手に包まれる。
素子が客席を見ると、演奏が始まったときよりも明らかに人数が増え、立ち見の客席後方は隙間がないくらいの人だかり。
SNSで拡散でもされたのだろうか。
どうやら、中学の会場の方からも観客が集まってきているようだった。
「どうだった? 期待値、上げられちゃったね」
にこやかに微笑みながら部長が話しかけてきた。
「まさか、これほどクオリティの高い演奏だとは思ってませんでした」
「それは私も同じ。トランペットのあの子だけじゃなく、バンド全体のレベルも予想以上。さ、次の曲がはじまるわよ」
一団体あたりの持ち時間があるので、指揮者は客席に向かって一礼だけし、すでに指揮台に上がってバンドの方を向いている。
二曲目の《展覧会の絵》も素晴らしい演奏だった。
“1stトランペットの彼女”は、『アッピア街道の松』で高音をあれだけ吹いたのに、最後の最後まで輝かしい音色で吹き切った。
鳴り響く拍手の中、部長が素子に言う。
「さあ、次は私たちの番よ。あの子に対抗しようとせず、あなたはあなたの演奏をしてね。話があるなら、後で聞くから」
素子が部長に激励され、トランペット・パートの元に戻ろうとしたときには、列はすでに会場に入り始めていた。
「あんな演奏を聴かされた後に、自分の演奏をしろって言われてもね・・・。でも、切り替えていくしかないか」
素子は自分が座る位置に進みながら、何度も深呼吸を繰り返した。
しかし、素子の脳裏からは、ずっと以前からあった「考え」がどうしても拭い去れなかった。
というよりも、F女学院高校の“1stトランペットの彼女”の演奏を聴いているうちに、その「考え」が自分の思考を支配的するようになっていった。
素子は、自分の席に着いたとき、 その「考え」を実行に移す決心が付いた。
(つづく)




