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あの日、雨が降っていなければ  作者: 貴堂水樹
エピローグ

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2.いつか、また

 今朝見たニュースの天気予報で、今晩から明日未明にかけて、初雪が降るかもしれないと言っていた。

 十二月九日。季節は移ろい、日に日に寒さが増していく中、人一倍寒がりの賢志郎は、すっかり冬用のコートと手袋が手放せなくなっていた。


 事件解決から二ヶ月が過ぎた。紆余曲折を経て、賢志郎も杏由美も、今や昔と変わらぬ日常を完全に取り戻していた。


 ただひとつ、賢志郎にはずっと心に引っかかっていることがあった。桜介のことだ。


 粟野誠の逮捕を見届けて以来、賢志郎は一度も桜介と顔を合わせていない。それどころか、声のひとつも聞いていないのだ。

 どうしているかと気になって、何度か携帯に電話をかけてみた。しかし桜介が電話に出てくれることは一度もなく、彼の所属する汐馬警察署に出向いてみても、桜介との面会が叶うことはなかった。


 モヤモヤとした気持ちを抱えているうちに、賢志郎は新聞記者・野々崎経由で桜介が警察を辞めたことを知った。検察が粟野の起訴を決定し、年末に初公判が開かれることに決まったためだと聞いた。


 あの人は今、どうしているのだろう。ちゃんと生きているのだろうか。

 そんな不安が、たびたび賢志郎の心に宿った。彼が姉の復讐に命を捧げた十年間を思うと、最悪の想像ばかりが膨らんで仕方がなかった。


 だから、昨日桜介から連絡をもらった時は飛び上がるほど驚き、同時に嬉しさで胸がいっぱいになった。


 ――よかった、生きててくれて。


 電話口でうっかりそんなことを漏らしたら、『残念ながら』と桜介は電話の向こうで笑っていた。元気そうでなによりだと、賢志郎は心から思った。


 昼休み中、午後一時に左座名西高校へ来てくれると言うので、賢志郎は五分前に教室を出て正門へと向かった。風がひどく冷たかったが、幸いまだが出ているので、カーディガンの上にブレザーを羽織ればコートなしでも我慢できた。


 まもなくして、桜介が姿を現した。黒のピーコートにライトグレーのパンツ。銀縁の眼鏡にリスみたいな丸い瞳は相変わらずだ。変化があったのは、髪が以前よりも伸びていたこと。切る余裕がなかったのか、もう切る必要がないからか。いずれにせよ、なんだか前よりもさらに幼く見えるようになったなぁと感じた賢志郎だった。


「すみません、お待たせしちゃいましたか」


 爽やかな笑顔を湛え、桜介はテノールボイスを柔らかく響かせた。


「いや、俺も今降りてきたとこ」

「そうですか。お変わりないようでなによりです、賢志郎くん」

「どうも。そっちこそ、元気そうでよかった」


 互いにやや緊張気味に挨拶を交わす。ずっと会いたいと思っていたのに、いざ顔を合わせるとなにを話していいのか途端にわからなくなる。賢志郎は頭をかき、ふらふらと視線を泳がせた。


「杏由美さん」


 気を利かせたのか、桜介のほうが積極的に話題を振った。


「その後、お加減はいかがですか?」

「あぁ、もうすっかり元気だよ。ちゃんとしゃべれるようになったし」

「それはよかった。きみは、どうです?」

「俺?」


 ええ、と桜介は眼鏡の奥でかすかに目を細める。


「フラッシュバック……もう体調を崩してしまうことはなくなりましたか?」


 賢志郎は、ほんのわずかに瞳を揺らした。


 今でもまだ、時々あの日のことを思い出してしまうことがある。だが、以前のように無闇に怯えてしまったり、眩暈に襲われたりすることはなくなった。

 完全に忘れることはおそらく一生できないけれど、それでも今の賢志郎は、しっかりと地に足をつけ、前を向いて生きている。ただ、事件の起きたあの公園にはいまだに近づくことができないので、心に負った傷が完治したとはやはり言えない。

 しかしながら、経過はおおむね良好だと賢志郎は感じていた。もうなんの問題もないと、胸を張ることができる。


「うん、大丈夫。あんたには、みっともないところを見られちまったよな」

「そんなことはありませんよ。今を元気に過ごせているのなら、それが一番です」


 相変わらず優しい人だなぁと賢志郎は思った。桜介ならそれを口に出しても調子に乗ったりしないのだろうが、あえて黙ったまま、別の話題を振った。


「警察、辞めたんだってな」


 桜介は一瞬眉を上げたが、すぐにいつもどおりの微笑を湛えた顔に戻る。


「ええ。とどまる理由がありませんので」

「なんでだよ。せっかく頑張って試験受けてなった職業なのに」

「言ったでしょう? あんな仕事、よほど好きでなければ務まりませんよ」


 肩をすくめる桜介に、そんなもんかと賢志郎はうなずいた。


「死のうかな、とも思ったんですけどね」


 賢志郎から視線を外し、桜介はぼんやりと遠くを見つめながら話し始めた。


「もともと、犯人を殺して自分も死ぬつもりでしたから。この世界に未練などありませんし、特別やりたいこともない。このまま消えてなくなって、早く咲良のところへ行こう……そんなことを考えていた時、咲良が夢に出てきましてね」

「咲良さんが?」

「ええ、驚きました。この十年間、一度も夢に見たことがなかったんですよ、咲良のことを」


 へえ、と賢志郎が相づちを打つと、桜介はすぅっと目を細くして言った。


「死んじゃダメだって、言われました」


 賢志郎は眉を上げる。どこでもない遠くを見つめ、ややはにかみながら桜介は続けた。


「生きて、生きて、しわくちゃになるまで生き延びて、誰よりも幸せになってから会いにこいと、彼女はそう言っていました。今すぐあたしに会いにくるなんて絶対に許さない、と」


 咲良は昔から自分勝手でね、と桜介は苦笑する。あんたもだろ、と賢志郎は心の中でツッコミを入れた。さすがは双子、おそらく互いに自分自身のことは棚に上げているのだろう。微笑ましい限りだと、賢志郎は頬を緩めた。


「とはいえ、僕には復讐の他に生きる意味などありませんでしたから、いざ生きてくれと言われても、どうしたものかと迷うばかりで。かれこれ一ヶ月ほど、これからどうやって生きていこうかと、そればかり考えていましたよ」

「で、ようやく決まったわけか。だから俺に会いに来た?」


 はい、と桜介は答え、背筋を伸ばして賢志郎と正対した。


「日本をつことにしました」


 思いがけない答えが飛び出し、賢志郎は目をまんまるにして桜介を見た。


「……マジ?」

「はい」

「えっ、じゃあ……海外に行くってこと?」

「そういうことです」

「どこに」

「ひとまずアメリカへ行こうかと」

「マジか! いいなぁアメリカ! NBA! バスケの本場!」

「賢志郎くん、バスケがお好きなんですか?」

「おう。俺、こう見えてバスケ部員だから」

「そうでしたか。言われてみれば、どことなくバスケ部っぽい顔をしているような気が」

「どんな顔だよ、それ」


 ははは、とふたりして声を立てて笑う。こうして屈託のない笑みを向け合うのは、実ははじめてな賢志郎と桜介である。


「でも、どうしてアメリカなんだ? なにかやりたいことでもあんの?」

「咲良が昔から語学や諸外国の文化に興味を持っていましてね。将来はキャビンアテンダントになりたいとよく話していたことを思い出したんです。なので、僕も外国語やいろいろな国について学んでみようかと」

「そっか。なぁ、あんた自身は夢とかなかったの?」

「咲良ほど大きな夢は抱いていませんでしたが、僕は中学生の頃から数学が得意だったので、数学教師にでもなろうかなーとぼんやり考えていました。ですが、さすがに今さら大学にかよって免許を取るのもいかがなものかと思いまして、そちらの道はすぐに捨てました」


 あっさりとした口調で語る桜介だったが、彼の話に賢志郎は大いに驚き、ぽかんと口を開いてその場に立ち固まった。桜介はそんな賢志郎を訝しげに覗き込む。


「どうかされましたか?」

「いや……実は俺も、教師になりたいと思ってて」


 ほう、と桜介は興味深そうに尋ねる。


「教科は?」

「数学」

「おやおや。変なところで気が合いますね」


 まったくだ、と賢志郎は頭をかく。桜介との出逢いは偶然ではなかったような、運命的ななにかを感じざるを得ない。


「きみはきっと、いい先生になるでしょうね」


 あたたかい、心のこもった声で桜介は言った。


「きみの将来が本当に楽しみですよ」


 どこまでも優しく、桜介は賢志郎に微笑みかける。この人が担任の先生だったらいいのにと、賢志郎は心からそう思っている自分に気がついた。


「そうそう!」


 唐突に、桜介がぽんと手を打った。


「うっかり忘れるところでした。僕はずっと、きみに訊きたいことがあったんです」

「えっ、なに? なんの話?」

「覚えていますか? 僕ときみ、それから杏由美さんの三人で話をしていて、きみが犯人の狙いに気づいた時のことです」

「あぁ……」


 賢志郎はぼんやりと当時の様子を振り返る。失言でもあっただろうかと、少しだけ不安になった。


「あの時、きみはこう言いました……『俺と同じだったんだ』と。あの言葉をきみがどういう意図で発したのか、それがずっと引っかかっていたんですよ」


 なんだ、と賢志郎は胸をなで下ろした。同時に、そんなことを口走っていたのかと驚いた。無意識のうちの発言ほど恐ろしいものはない。


「特に深い意味はないよ」


 すっかり冷たくなってしまった両手をズボンのポケットに突っ込みながら、賢志郎は淡々と当時のことを振り返った。


「あの時の俺は、自分で自分の心をコントロールすることができない状態に陥ってた。事件現場の公園に近づけば吐いちまうし、部活に行こうとしても足がまるで動かない。頭で思ってることと、からだの反応がちぐはぐで、自分ひとりの力じゃどうにも解決できなかったんだ。だから、ひょっとして犯人もそうなんじゃないかって思ったんだよ。ある一定の条件下に置かれると、自分の意思とは無関係にからだが動いちまうんじゃないかって」


 なるほど、と桜介は納得したように大きく首を縦に振った。


「制御のきかない心に悩まされ、その痛みを嫌というほど味わってきたきみだからこそ、犯人の心理を正確に読み解くことができたってわけですね」

「そんなたいそうなもんじゃないって。たまたまだよ」


 ご謙遜を、と桜介は笑った。本当にたいしたことではないと思っていたので、賢志郎はどう反応すればいいのかわからなかった。


「ありがとうございます。スッキリしました。これで心置きなく日本を離れることができる」


 ふたりの髪を、身を切るような冬の風がそっと揺らす。

 別れの時が、すぐ目の前に迫っていた。


「俺のほうこそ、ありがとうございました。硲さんに出逢えてなかったら、俺もあゆも、きっとうまく立ち直れてなかったと思う」

「それはこちらのセリフです。粟野さんを追い詰めた時、きみが僕を止めてくれたから、こうして今でも僕はこの世界に生きている」


 ありがとうございます、と桜介は改めて賢志郎に頭を下げた。賢志郎もそれに倣い、深くお辞儀をして礼を伝える。


「では、そろそろ行きます。夕方の飛行機でアメリカに発つので」

「ええ、今日!? もう行っちまうのかよ!」

「ほら、『善は急げ』と言うでしょう?」


 得意げに右の人差し指を立ててみせる桜介。あんたらしいな、と賢志郎は苦笑した。


 スッと、桜介は右手を賢志郎に差し出した。


「よい人生を」


 凜々しい微笑みを湛える桜介。賢志郎は、迷わずその手を取って握り返す。


「あんたもな。日本に帰ってくる時は連絡してくれよ?」

「ええ、必ず」


 数ヶ月後か、数年後か。あるいはもっと、ずっと先のことになるのか。

 この人とは、いつか絶対に再会したい。賢志郎はそう強く思った。その願いが叶った時、彼に笑われないような大人になっていなければ。立派な教師になってやると、賢志郎は自分の心に誓いを立てた。


「では、賢志郎くん。いずれ、また」

「おう。元気でな」


 ぺこりと小さく頭を下げ、桜介は賢志郎に背を向けて正門を離れた。その背中が見えなくなるまで、賢志郎は旅立つ彼を見送った。


「ケンちゃん!」


 桜介が行ってしまうと、入れ替わるように杏由美が校舎のほうから駆けてきた。


「おう、あゆ。どうした?」

「今の、もしかして硲さん?」

「あぁ。わざわざお別れを言いに来てくれたんだ」

「お別れって……あの人、どこかへ行っちゃうの?」

「うん、アメリカだってさ」


 アメリカ!? と杏由美は目を丸くした。自分と同じ反応を見せたことに、賢志郎は笑みを浮かべる。


 ――よい人生を。


 桜介にかけてもらった言葉を、賢志郎も心の中で桜介に贈る。


 彼のもとへ、明るく実り多き未来が訪れますように――賢志郎はひとり、気持ちを込めて願いを捧げた。


「へっくしゅんッ!」


 長く外で立ち話をしていたせいか、賢志郎はひとつくしゃみをした。すっかりからだが冷えてしまい、震えながら腕を抱える。


「さむ……!」

「やだ、風邪?」


 杏由美が心配そうに賢志郎を覗き込む。


「大丈夫?」

「おう、心配すんな。今おまえにうつる呪いをかけた」

「なにそれ、最低!」


 杏由美が振り上げた左手をひょいとかわし、賢志郎はいたずらな笑みを浮かべて駆け出した。その後ろを、杏由美が笑いながら追いかけてくる。


 低く、淡い冬の空に、太陽の白い光がきらめいている。

 若きふたつの命の温度は、どんな厳しい寒さにも、負けることを知らない。



 【あの日、雨が降っていなければ/了】

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