5-2.疑惑
さらに賢志郎は、数日前に行った喫茶店での桜介の仕草を振り返る。あの時、彼は右手で眼鏡を拭っていなかったか? コーヒーへミルクを注いだ手も、カップを持ち上げる手も右だった。十中八九、彼は右利きだ。
杏由美が賢志郎の左腕に触れて彼の気を引く。賢志郎が顔を向けると、『どうしたの?』と杏由美は目で訴えた。
すぐには答えられなかった。頭が混乱していることにはどうにか気がつくことができ、落ち着かなければと賢志郎は一度深呼吸した。
冷静に考えてみよう。賢志郎はスマホをベッドの上に置き、顎にそっと右手を添える。
第一に、桜介が杏由美を襲った犯人だった場合、その動機がわからない。
自身も最愛の姉を失っているのに、なぜ杏由美を姉と同じ方法、同じ場所で襲ったのか。彼が殺したいと思っているのは犯人であるはずだ。罪のない女子高生を手にかける理由があるだろうか。
桜介と直接会って話をした時の印象では、彼は確かにある種の狂気をまとってはいたものの、無差別に女子高生を襲うようなそれではなく、抱える負の感情はおよそ犯人にのみ向かっていたように思えた。もし彼が杏由美を襲ったのだとすれば、そこには必ず硲咲良殺しとの浅からぬ関係があるはずだ。それが動機? なぜ無関係の杏由美が襲われる必要がある?
もう一点。
どうして犯人は、杏由美の命を確実に奪わなかった?
硲咲良、瀧沢ゆかり両名についてはその命を奪われている。そんな中、なぜ杏由美だけが生き残った? 偶然刺し傷が浅かったから? 賢志郎による発見が早かったから? ――杏由美だけが、別の人間に襲われたから?
桜介の話を思い出す。咲良は腹部を五ヶ所も刺されていたらしい。杏由美は一ヶ所。この違いはなにを意味する? 単純に抵抗・無抵抗の差か?
そもそも犯人は、杏由美が今も生きていることを知っているのだろうか?
当たり前のことだが、テレビなどの報道では杏由美の死亡は伝えられていない。犯人にとって、自分の起こした事件の捜査状況は気にならないはずがないので、新聞やテレビのニュースは逐一チェックしているだろう。杏由美の命が助かったことも容易に知り得るはずだ。
自分が犯人だったら、と賢志郎は想像する。
犯人は真正面から杏由美の腹を刺している。つまり被害者である杏由美は、真正面から犯人の顔を見ているということだ。傷が癒え、警察から事情聴取を受ければ、杏由美は犯人像や事件時の状況を詳しく答えることができ、杏由美の証言をもとにモンタージュが作成され、全国に指名手配されるところまで捜査が進展することもあるだろう。
そんな状況下で、平然と逃げ回ることができるだろうか? たとえ一時的な記憶喪失に陥っていたとしても、硲咲良や瀧沢ゆかりとは違い、杏由美の命はこの世につなぎ止められたというのに。
俺なら無理だ、と賢志郎は思った。ただでさえ人を襲って心拍数が上がっている状態で、警察が自分に焦点を絞って捜査に当たっているかと思うと、とてもじゃないが心臓が持たない。杏由美が警察からの聴取に応じる前に、その口を封じてしまったほうがいいのではないかと、そんな風に思うことも十分考えられる。つまり、杏由美の存在は、再度犯人の魔の手にかかる危険性を今なお孕んでいるということだ。
それなのに犯人は、事件から四ヶ月が経とうとする今でもまだ、杏由美の命を狙いに来ようとしていない。なぜ?
答えは簡単だ。杏由美が警察の聴取に応じていないことを知っているから。杏由美があの日、あの事件が起きた瞬間の記憶を失い、今でも取り戻せていないことを知っているから。だから犯人は安心して、現在も逃亡生活を続けられている。そういうことではないだろうか。
この条件に当てはまるのは、杏由美の家族や友人・知人、マスコミ関係者、そして事件の捜査に当たっている警察官のみ。直接杏由美の事件の捜査に当たったわけではないが、捜査情報を握っている桜介もそのうちのひとりにカウントされる。
つまり彼は、杏由美の口を封じずとも自分がおよそ捕まらないことを知っている。捜査が暗礁に乗り上げているとわかっているから、杏由美を手にかける必要がないのだ。
また桜介は、模倣犯の可能性を提示した賢志郎に対し、即座に否定的な意見を述べた。賢志郎には実に論理的に聞こえた彼の回答だったが、その真意は、自らがその模倣犯であることを隠すためだったのではないか。
もしかして桜介は、姉・咲良が殺された時の状況を再現するために杏由美を襲ってみせたのか? 姉の事件を解決に導くために? だから杏由美だけが殺されなかった?
――あり得ねえ。
あまりにもバカげた動機だ。しかしあの桜介であれば、姉を殺した犯人をあぶり出すためにどんな手を使うかわからない。ただの憶測が憶測にとどまらない可能性は、桜介に限って言えば十分ある。
杏由美が賢志郎の左腕を強く引いた。見れば、瞳をぐらぐらと揺らす彼女の姿がそこにある。
「ごめん」
黙り込んでしまったことを、賢志郎はひとまず詫びる。また少し熱くなっていて、負のスパイラルに陥りかけた頭をぶんと振る。
「あのさ、あゆ……この話、一旦俺が預かってもいい?」
メモ用紙を片手に、賢志郎は問いかける。杏由美は不安そうな顔で首を傾げるも、最後には『わかった』といった風にうなずいた。
再び冷静さを取り戻し、賢志郎は考える。
方法としては、杏由美に桜介と会わせて直接顔を確認させれば、少なくとも杏由美の事件において桜介が白か黒かということをはっきりさせることができる。
ただし、これは同時に大きな賭けに出ることを意味する。桜介が黒――つまり杏由美を刺した犯人だった場合、その場で杏由美に襲いかからないとも限らないからだ。
賢志郎が同席するとしても、現役警察官を相手に杏由美を守り切れる自信はない。貴義など、信用して事情を話せる誰かの手を借りることも一瞬考えたが、貴義は親友だ。彼に危険が及ぶようなことはなるべく避けたい。面通しに同席するのはやはり自分ひとりのほうがいいと賢志郎は結論づけた。
では、どのようにすれば最小限のリスクで面通しを実現させられるか。
簡単だ。桜介をどこかへ呼び出し、杏由美には遠くから彼の姿を見てもらえばいい。
窓の外に目を向ける。雨が止む気配はない。スマホで天気予報をチェックすると、どうやら明日には天候が回復するようだ。
明日にしよう、と賢志郎は決めた。
明日の放課後、高校に桜介を呼び出す。杏由美が記憶を取り戻したといえば確実に出向いてくれるはずだ。
連絡も明日、学校についてから入れればいい。今から伝えておいて、今夜中に行動を起こされてはまずい。学校の敷地内であれば人の目があるし、賢志郎自身が杏由美のそばを離れなければいい。一晩中起きて杏由美の身を守るよりもよほど効率的だと言えそうだった。
すぅっと、賢志郎は目を細める。
考えすぎであってほしいと、願わずにはいられなかった。
どうしても賢志郎は、桜介に手を汚してほしくなかった。
もしも手遅れだったのなら、素直に罪を償ってほしい。それ以外、彼に望むものなどなにもなかった。
風が出てきたのか、雨が直接窓を叩き始めた。バタバタとけたたましく鳴り響く雨音が、不穏な空気をつれてくる。
嫌な予感が、賢志郎の胸にへばりついて離れなかった。
そしてその予感は、夜明けとともに現実のものとなる。
またひとり、セーラー服をまとった女子高生が、腹部を刺されて帰らぬ人となったのだ。




