1.親友
起き抜けにそのニュースをテレビで見た時、雷に打たれたような衝撃が全身に走った。
ダイニングテーブルの前に佇み、賢志郎は食い入るようにニュースを見る。
画面右上に『速報』の赤い二文字が踊っている。聞けば、事件が発覚したのは今日未明のことらしい。
現場は賢志郎の住む左座名市のすぐ隣、汐馬市内の住宅街。桜介の所属する汐馬警察署の管轄だ。
被害者の名は小橋真奈。十八歳、聖ベルナール女子高校の三年生。高校は汐馬市内ではなく少し離れた園山市にあり、普段から電車で通学しているのだろうと賢志郎は勝手に想像した。あるいは私立高校なので、スクールバスを利用しているのかもしれない。後者であれば、彼女が襲われたのは一体どのようなタイミングだったのか。
詳しい事件の状況についてはほとんど報道されなかった。わかっているのは被害者が誰であったのかということと、腹部を刺されて亡くなったということだけだ。おそらく警察による捜査もまだ始まったばかりなのだろう。
聖ベルナール女子高といえば、県内でも有名なお嬢様学校だ。小・中・高・大学を擁する学校法人で、中学・高校の制服は昔ながらのセーラー服。制服そのものが明紺で、リボンの色はセーラーに入っているラインと同じ白だったと賢志郎は記憶していた。配色はともかく、セーラー服姿の女子高生が腹を刺されたことに違いはない。胸のリボンが盗み取られていたのならば、これまでの一連の事件となんらかの関係があると考える他にないだろう。
テーブルにつき、賢志郎は「しまった」と頭を抱えた。
どうして昨日のうちに桜介と連絡を取っておかなかったのか。なにも桜介でなくたっていい。邪推せず、杏由美が記憶を取り戻したことを素直に警察に伝えていれば。
後悔しても仕方がないとわかっていながら、やはりその念を拭い切れない。
昨日、迷わず動いていれば、あるいは新たな被害者を出さずに済んでいたかもしれないのに、と。
「賢志郎」
母・加代が、テーブルに突っ伏す賢志郎に声をかける。
「大丈夫? 学校、行けそう?」
うん、と力なく返事をした賢志郎は、朝食もそこそこに家を出た。誰とも話したくない気分だった。今話をすべきなのは、桜介ただひとりだけだ。
今日はバレー部の朝練があるため、杏由美はすでに学校へ向かっている。一応三船家の駐車場を覗いてみたが、やはり杏由美の自転車はない。無事についてるかな、と賢志郎はやや不安げに自転車を漕ぎ出した。
昨日の雨の影響で、路面がところどころ湿っていた。一晩中降り続いていたのだろうか。だとすれば、新たな被害者である小橋真奈もまた、雨の中襲われたことになる。彼女も傘を差して歩いていたとするなら、いよいよ同一犯の可能性が濃厚になってくる。
マンホールなど、滑りやすくなっている箇所を意識的に避けながら、賢志郎はいつもより慎重に自転車を走らせる。体調は万全で、からだのどこにも違和感を覚えなかった。
事件の捜査からは手を引くと決めたばかりだというのに、今朝発覚した新たな事件のせいで、賢志郎の頭の中は一連の事件のことでいっぱいになっていた。
雨。セーラー服。女子高生。
傘。携帯。リボン。
断片的な共通項が徐々に集まりつつあるだけで、犯人の狙いはかけらほども見えてこない。どのような人物が、なんの目的で、いつ、どんなタイミングで事件を発生させているのか。現段階では一向に判断のしようがない。
なにかもっと、決定的な事実がほしい。十中八九こうであると、自信を持って結論づけることのできる事実が。
そのためにも、早く桜介と話をしなければ。あの人ならきっと、大切なことに気がつくことができるはずだ。
はやる気持ちを抑え、賢志郎は左座名西高校の校門をくぐった。
駐輪場は学年ごとに分けて設けられていて、賢志郎は二年生の置き場に向かってゆっくりと自転車を走らせる。いつも停めている場所の青い屋根が見えたところで、賢志郎は眉を上げた。
「よぉ、賢志郎」
整然と並べられた自転車の中に、貴義がニヤリと笑っている姿を見つけた。賢志郎が来るのを待ち構えていたかのように、腰を預けていた自らの自転車からスッと離れて立ち上がる。
「風邪、治ったか」
「おう。もう平気」
短く返事をして、賢志郎は貴義の隣に自分の自転車を停め、鍵をかけた。
「悪かったな、貴義。この前、話をするって約束してたのに」
「しゃーねえよ。まさかぶっ倒れるとは思わなかった」
俺もだよ、と賢志郎は苦笑いする。思い出したくないくらい恥ずかしい。散々みんなから無理をするなと言われてきたというのに、結局迷惑をかけることになるなんて。
「で、どうする?」
貴義が言った。
「今なら少し時間あるぞ」
「あぁ、うん……」
賢志郎はポケットからスマホを取り出し、時間を確認した。八時十分。始業までまだ二十分あるが、問題はそこではない。
頭の中が事件のことでいっぱいで、部活の話にうまく切り替えられる自信がなかった。できることなら、一刻も早く桜介と連絡を取りたい。今朝のニュースで見た女子高生刺殺事件についての捜査の進捗状況も気になるし、なにより、杏由美から証言が取れたことを伝えたかった。初動捜査の段階で犯人像が浮き彫りになれば、その分だけ犯人逮捕に近づくはずだと、素人である賢志郎にもそれくらいのことは理解できた。
だが、そうかといって貴義のことを簡単に無視できるほど、賢志郎の心は強くない。
一度約束を反故にしているのだ。それも、賢志郎自身に落ち度のあることで。
これ以上待たせるわけにはいかないし、待たせたくなかった。事件のことももちろん大事だが、貴義だって大切に思っている友人なのだ。天秤にかけるような真似はしたくない。そんなことをする自分自身も許せない。賢志郎は、またもや頭を抱えることになった。
――どうする?
なにから片づけていけばいい? どうやって優先順位をつける?
俺にとって、今もっとも大事なことはなんだ――?
「珍しいな」
顔を上げると、貴義が目を丸くして賢志郎を見下ろしていた。
「おまえが迷うなんて」
「は?」
「いや、おまえって結構即決タイプというか。山積みされた問題を前にしても、要領よく捌けちまうとこあるだろ?」
「それは……」
いつもならそうだ。だが今は状況が状況だけに、そう簡単にはいかない。
わかっている。賢志郎は唇を噛んだ。
二兎を追う者は一兎をも得ず。最初の一歩を間違えれば、最終的にすべてを失うことになりかねない。
「ちくしょう」
吐息混じりに悪態をつき、賢志郎はくしゃくしゃと髪を触った。
「守りたいものが多すぎんだよ」
ぽつりとつぶやいたひと言に、貴義は少しだけ驚き、すぐにふっと笑みをこぼした。
「おまえらしいな」
「あ?」
「おまえはすぐそうやって、ひとりでなんでも背負い込もうとする」
ちくりと胸を刺す痛みが走る。賢志郎は首を振った。
「そんなかっこいいもんじゃねえよ。単に欲張りなだけだ」
「三船の事件を解決したい。けど、部活にも戻りたい?」
「それだけじゃねえ」
右手に握ったままになっていたスマホを、賢志郎はそっと見つめる。
「もうひとつ、どうしてもやりたいことがあって」
真に迫る賢志郎の表情に、貴義は顔を強張らせる。
「まさか、この前言ってたことじゃねえよな」
違う、と賢志郎は自信を持って答えた。
「その逆だよ」
「逆?」
「ああ。人を……事件の犯人を殺したいと思ってるのは俺じゃない。俺はその人を止めたいんだ。あの人が復讐の鬼にのみ込まれちまう前に、犯人が逮捕されることを祈ってる」
手にしたスマホを強く握る。
確かに、犯人に対する憎悪の感情は存在する。流されて、復讐心に一度は小さく火がついた。
けれど、賢志郎の周りには、その火を吹き消してくれる人たちがいた。
貴義。野々崎。ふたりめの被害者である瀧沢ゆかりの母・一葉。誰に訊いても、最後には復讐なんてと口を揃えて否定した。
今、賢志郎にははっきりとわかる。復讐のあとに残るまともなものなどないのだと。
だが、桜介は違う。
双子の姉・咲良を失った十年前から、彼は犯人に復讐するためだけにその命を燃やしてきた。他に生きる目的のない彼にはすでに、己の力で自身の心をセーブすることができなくなっている。
だったら、と賢志郎は決意する。
硲さん自身が暴走を止められないのなら、周りの人間が止めるしかない。
あの人の本心を知り、大切な人を傷つけられたという同じ痛みを分かち合える俺になら、きっとあの人を止められる。その手を掴んで、引き戻すことがきっとできる。
――させねえ。
顔を上げる。ただ前だけをじっと見つめる。
やっぱり間違ってるよ、犯人への復讐なんて。
だから、させない。そんなこと、絶対に。
「なにがあっても、どんな手を使っても……俺は、硲さんを止める」
あの人を、殺人鬼になんてさせない。深い悲しみの先にあるのが、破滅だけなんて信じない。
刺し違えることになるかもしれない。
それでもいいと賢志郎は思った。あの人を止められるのならそれでいいと。
そうして賢志郎は気がついた。
今の自分にとって、それがもっとも譲れない思いだということに。
「そうか」
うなずきながら、貴義は笑った。
「つくづくおまえらしいことを言ってくれる」
賢志郎はやや顔をしかめる。バカにされているのかと一瞬思ったが、すぐに勘違いだったことを悟らされた。
「オレのことは後回しでいいぞ。なんなら一番最後でいい」
そう言って、貴義は賢志郎に背を向けて歩き出した。心地よい秋の風を受け、清々しく、軽快な足取りで、賢志郎から離れていく。
「貴義!」
大きな背中を、賢志郎は呼び止めた。貴義がゆっくりと振り返り、ふたつの視線がまっすぐ交わる。
「ごめん」
うつむき、小さく謝った賢志郎。しかし貴義は、胸を張って笑みを湛えた。
「後悔すんなよ」
視線を上げ、はっとした。そこにあったのは、三十人の部員を率いるキャプテンとしての顔。
「負けてもいい。ただし、最後まであきらめるな。――大切なのは、敗北の絶望から立ち上がるための強さだ」
かけてもらったのは、貴義のもっとも好きな言葉。
大事な試合で勝てなかった時、彼はすぐに気持ちを切り替え、次のことを考え始める。他のメンバーが悔しさと悲しみに打ちひしがれる中、貴義だけは一瞬で、自分の力だけで絶望を蹴散らすことができてしまう。
それが賢志郎の親友・笹岡貴義の強さであり、試合における司令塔である賢志郎ではなく、彼がチームを率いるキャプテンである所以だ。
「ああ」
賢志郎は答えた。
「『今がどん底なら、あとは這い上がるだけだ』……おまえはいつも、そう言うよな」
「おう。それ以外にねえからな」
「ったく……マジでうらやましいよ、おまえの超絶プラス思考が」
「そうか? オレにはおまえみたいになんでも器用にこなせる力のほうがうらやましく思えるけどな」
賢志郎は苦笑した。
「無い物ねだりだな、俺たち」
「そんなもんだろ、人生。本当にほしいものなんて、たいていはそう簡単に手に入らねえ」
完璧な人間なんていねえよ、と貴義は笑った。そうだな、と賢志郎も自嘲気味に相づちを打つ。
貴義と肩を並べ、賢志郎は歩き出した。
答えは出た。今すべきことがひとつに決まった。
迷いから解放された賢志郎の足取りは、ここ最近では一番の軽さだった。




