3-3.〝被害者〟
賢志郎の隣で、野々崎が大きくうなずいた。当の賢志郎は、まだ理解が追いついていない顔をする。
「被害者……?」
「ええ、そうです。警察やマスコミの方々は、刺された本人のことを『被害者』と呼びます。ですが、事件の被害者は刺された本人だけじゃない。周りの人間だって、ゆかりや杏由美さんと同じように深く傷ついているんです。事件が起きて、大切な人が傷つけられて、つらい思いをしているのは周りの人間も同じでしょ? あなただって、これまでずいぶんと苦しい時間を過ごされたのではないですか?」
はっとして、賢志郎は一葉を見た。
彼女にすべてを見抜かれていた。心の奥まで見透かされていた。
つらいのは俺じゃない、あゆなんだと、ずっと言い聞かせてここまできた。心がどんどん弱っていることを知りながら、あゆの前では強くいなければと、賢志郎はずっと、自分の心にそう信じ込ませてきた。
本当は賢志郎だって、深く、深く傷ついている。自らのからだを自力で支えられないほど、心に痛みや苦しみを抱えている。
けれどそれらは、決して口にしていいものではないと思っていた。襲われた本人でもないのに、どうして俺が弱ってるなんて言えるのかと。
「無理をする必要なんてないんですよ」
一葉は柔らかく口もとを緩めた。
「確かに、ゆかりが殺された時に犯人が捕まっていれば、杏由美さんが傷つけられることはなかったかもしれません。そういう意味では、わたしも一刻も早く犯人が逮捕されればいいと思っています。ですが、あなたや杏由美さんがこれからの人生を前向きに生きていけるかどうかって、犯人逮捕とは別のところで決まると思うんです」
「別のところ……?」
「ええ。幸いにして、杏由美さんの命はこの世につなぎ止められました。逆に言えば、どれほどの苦しみを背負っていたとしても、杏由美さんはこの先の人生を生きていかなくてはならないということです。杏由美さんにとって、川畑さん、あなたは命の恩人も同然です。そんなあなたがいつまでも事件のことを引きずって、暗い顔をして毎日を過ごしていたら、杏由美さんはどう思うでしょうね?」
「それは……」
「ほら、わかっているじゃないですか。大切なのは、犯人を捕まえることじゃない……あなたと杏由美さんが、互いに手を取り合って、痛みや苦しみをともに乗り越えていけるかどうかなんですよ」
一葉の紡ぐまっすぐな言葉に、賢志郎は吐息と瞳をぐらりと揺らした。
「後悔するなとか、事件のことを忘れろだとか、そんなことは言いません。杏由美さんが生きていらっしゃる以上、犯人が捕まらないことに不安を覚えるのは当然です。ですが、すべてを受け入れてなお、顔を上げて前に進んでいく方法はあります。ゆかりを永遠に失った翔吾くんでさえ、今という時を懸命に、前向きに生きているんですよ? 生きて杏由美さんの手を取ってあげられるあなたに、それができないはずはありません。ふたりで支え合って、時にはご家族の方やお医者様の手を借りながら、少しずつ傷を癒やしていけばいいんです。いつまでも事件に囚われていることなんてないんです。そうやってあなたがずるずると過去を引きずっていると、その分杏由美さんが前に進んでいく力を失ってしまう……あなたが苦しんでいる姿なんて、杏由美さんはきっと見たくないはずです」
穏やかに、一葉は次の言葉で話を締めくくった。
「無理して笑うことはありません。つらいのなら、正直にそう言えばいい。杏由美さんもきっと、あなたが本音を聞かせてくれる時をずっと待っているんだと思いますよ」
一葉の紡いだ言葉たちが、ひとつひとつ、余すところなく賢志郎の心とからだに染み渡る。
――そうか。
賢志郎は、右手でそっと顔を覆った。
最初から間違ってたんだ。現状が、周りの様子が少しも見えていなかった。
――バカだ、俺。
あゆはずっと、犯人なんて捕まらなくていいって言ってたじゃねえか。
それなのに、勝手にひとりで空回りして。貴義や横山だって、何度も俺に冷静になれって言ってくれてたってのに。
頭を抱え、賢志郎は目を伏せる。
胸が苦しくてたまらなかった。悔しくて、悔しくて、全然顔が上げられない。
「あぁ、もう……!」
かすれた声がこぼれ落ちる。
結局俺がやってきたのは、あゆを苦しませることばかりだったってことかよ――。
「あなたの気持ちは、痛いほどわかるんですけどね」
一葉が苦笑まじりに言った。
「わたしも最初は、犯人のことが憎くて憎くてたまらなかった。早く逮捕してくれと、警察の方を相手に怒鳴り散らしたこともありました。けれど今では、そういう時こそ少し時間をおいたほうがいいのだと思っています」
その言葉に、賢志郎はようやく少しだけ顔を上げることができた。
「時間を……?」
「そう。傷が癒え、心の荒波が鎮まって、普段どおりの息づかいで生きていけるようになるまで待つんです。それでもなお、犯人を捕まえたいと思ったら、その時はおもいきり動けばいい。冷静さを取り戻している分、これまで見えてこなかった大切ななにかが見えることがあるかもしれません。そのためにも、まずはあなた自身が元気にならなきゃ。心に受けた傷が完全に癒えることはありませんが、わたしたちのように、それでもなんとかがんばって、笑って生きていこうと思えるところまでは、あなただってきっとたどり着けるはずですからね」
にこりと賢志郎に微笑みかけると、今度は野々崎に視線を移して一葉は言った。
「今日のところはお引き取りいただいたほうがよろしいかと思います。彼、すごく顔色が悪いですし」
「ええ、そうします。ありがとうございました、貴重なお時間を割いていただいて」
「とんでもない。またなにかお訊きになりたいことがあれば遠慮なくおっしゃってください。できる限りのご協力はお約束します」
ありがとうございます、と野々崎は起立して慇懃に頭を下げた。賢志郎もふらつきながら席を立ち、弱々しい声で「ありがとうございました」と言った。
「あの」
見送られた玄関先で、賢志郎はこれで最後とばかりに一葉を振り返った。
「もうひとつだけ、訊いてもいいですか」
「ええ、どうぞ」
「瀧沢さんは……犯人のことを殺したいと思っていますか」
一葉の表情が一瞬にして強張った。その瞳に赤く燃える復讐の色を宿し、一葉はまっすぐ賢志郎の双眸を射貫いた。
「もちろんです。できればこの手で、殺してやりたい」
自らの右手にそっと視線を落とし、一葉はぶれることのない強い口調でそう告げた。賢志郎は息をのむ。
「でもね」
しかしすぐに、一葉はふっと表情を緩めた。
「ゆかりは優しい子でしたから。わたしや主人、それから翔吾くん……誰かひとりでも復讐の鬼になってしまうようなことがあれば、あの子はきっと悲しむでしょう」
一筋の涙を頬に伝わせ、一葉は賢志郎に微笑みかける。
「もうこれ以上、あの子を苦しませたくはありません」
言いようのない安堵感が、賢志郎の冷えた心をそっと包んだ。改めて深く頭を下げると、賢志郎は野々崎とともに瀧沢家をあとにした。




