1軒目:【理想のタワーマンション】
世間には、1つの都市伝説がある。「理想のおうちが手に入る」というものだ。
ただし、そこには厳格な条件がある。
そこにたどり着くためには、まず全財産を現金で集めなければならない。もしくは、スマホのインターネットバンキングですぐに入金できるよう、アプリを開いておくこと。
そして和紙に、自分の理想の家の間取り図、条件、好みのもの、欲しいものを全て書き込む。可能ならば具体的な絵や写真も添えて、和紙の封筒にそれらを全て入れ、手に持っていなければならない。
お金や自分が大切に思っているものをスーツケースに入れてもいい。だが、スーツケースの大きさは決まっていないが、色だけは「金色」か「銀色」と決められており、荷物の多い人は両方持ち込んでも良いとされている。
その場所は、ある山奥の中にある洞窟の前。
しかし、そこにたどり着く前に、麓の村からその山への入山ルートは普段完全に封鎖されている。厳格に守られた山であり、足を踏み入れることができるのは限られた者だけ。山道を整備するのも年に一度、決まった日に決まった人が入るような、それほど厳しい条件なのだ。
どうしても「理想のおうち」が欲しい者は、満月の夜、特定の条件が揃った日に指定の品を持ち、さらに「自分の命を差し出しても構わない」という覚悟を持ってその場所に立つ。すると、洞窟までの山道が不思議と開かれ、通れるようになるという。
ある満月の夜。
彼女は重いスーツケースを二つ引きずり、スマホと和紙の封筒を握りしめて、洞窟の入り口の前に立っていた。
周りは真っ暗で何もないというのに、麓の入り口からここまで来る間は、不思議とうっすらと道が見えた。熊などの野獣の気配は一切なく、「本当に守られた場所なのだ」とピンと張り詰めた空気が漂っている中を歩いてきた。
麓の入り口ではスマホの電波が全く立っていなかったため不安だったが、この洞窟の前に来ると、不思議なことに電波が完全復活していた。
彼女は急いでインターネットバンキングのアプリを開き、すぐに入金できる状態にした。すると、画面のかすかな光の中で、振込口座の欄に勝手に口座番号や文字列がスルスルと書き込まれていく。でも、彼女には読めない文字だった。
彼女はぎょっとしたが、そのままスマホを見つめていると、全財産が容赦なく送金され、残高が「0」になった。
途端、洞窟の入り口に、おしゃれないかにもタワマンのモデルルームで見た扉が現れた。
彼女は震える手でドアノブを掴み、扉を開けた。
彼女には、学生時代から付き合っている彼氏がいた。
ゼミで隣になった日から気が合い、ずっと一緒に過ごしてきた。大学を卒業するときには「将来は絶対に結婚しよう」と約束した。
彼とはいつも、「将来どんなところに住みたいか」という理想を語り合っていた。彼が「子供が苦手」だと言うので、彼女は子どもが好きだったけれど彼の願いに合わせて、お互いDINKsとして2人で生きる道を選んだ。夜景の見えるお気に入りのタワーマンションに住み、好きなおしゃれな家具に囲まれて暮らす――それが彼女たちの未来の計画だった。
その目標に向かって、彼女は彼と一緒に共同資金を貯め始めた。
タワーマンションを買うにはかなりの頭金が必要だ。出世しなければならないと、彼女はなりふり構わず働き、洋服も化粧品もプチプラで済ませた。デートも部屋で過ごすか、近くの居酒屋で飲む程度。すべては理想の未来のためだった。
「同棲しないの?」と聞くと、彼が「理想の家に住むまでは恋人同士の新鮮なままでいたいんだ」と言うので、彼女も仕事が忙しかったこともあり、「そうだよね」と納得していた。
そして、もうすぐ頭金が揃い、いよいよ結婚の目処が立ったその時のことだった。
ある日突然、彼が「会社の後輩とできちゃった結婚をするから、別れてほしい」と言い出した。
「何言ってるの!? あなたが子供はいらないって言ったから、私も子供好きだけど諦めて、理想のマンションのためにこんなに頑張ってきたのに……!」
そう叫ぶ彼女に、彼は冷たく言い放った。
「お前のそういう重いところが嫌なんだよ。それに、お前は性格がきつすぎて全然休まらない。あの子のほうが癒やされるんだよ」
さらに彼は、共同で貯めていたお金まで「返せ」と言い出した。
頭に血が上った彼女は言い返した。
「ふざけないでよ! これは慰謝料代わりよ。あなたの会社の集まりでバーベキューや飲み会にも婚約者として参加したし、知り合いだって何人もいるんだからね! みんなにあなたの最低なクズっぷりを言いふらしてやるから!」
「それは頼むからやめてくれ……! 共同資金のぶんの権利は諦めるから……」
彼はそう言って怯えたが、彼女は引き下がらなかった。
「当たり前よ! あの子だって私が婚約者だって知っていながらあなたを奪ったんだから、あの子からもたっぷり慰謝料を巻き上げてやるんだからね。それだけは絶対に譲らない!」
それだけでは収まらなかった。彼女は彼の両親の元へも乗り込んだ。
彼の両親は「ぜひ謝りたいから会ってほしい」と言い、目の前で頭を下げて、今後の生活の足しにしろとばかりにまとまった現金を積み上げてきた。
だが、彼女は知っていた。彼のいとこがわざわざ私に連絡してきて、「今回はうちの奴が悪かったな。運が悪かったと思って次いい男見つけなよ。あの親も、孫が欲しくてしょうがなかったから、できちゃったって聞いて喜んじゃってさ……」と、ねっとりと裏話を教えてくれていたからだ。
だから彼女は、彼の両親に対してもう何の感情も湧かなかった。ただ提示されたお金だけを淡々と受け取り、とっととそこをあとにした。
今まで積み上げてきたキャリアも、何のために頑張ってきたのかわからなくなった。
「もうすぐ結婚する」と周囲に言いふらしていたのに、こんな形でダメになったなんてプライドが許さない。会社も辞めて、退職金も手に入れた。
すべてを集めると、かなりの大金になっていた。「いっそ海外旅行でも行くか、海外留学でもしようか」とヤケクソになってネットサーフィンをしていたとき、たまたま画面の端に映り込んだのが、『理想のおうち』という都市伝説だった。
そこからの彼女の行動は早かった。
全財産をインターネットバンキングに集約し、住んでいたアパートも即解約。彼からもらった思い出の品や、持っていけるものはすべて「金色と銀色のスーツケース」に詰め込み、それ以外のゴミはすべて処分した。
そしてネットで調べた山へ、満月の条件が揃った夜にやってきた――こうして、彼女はここにたどり着いたのだ。
扉を開けた先は、まさに完璧な「理想通りの部屋」だった。
まるで宝石を散りばめたようにキラキラと輝く東京の夜景。天井まで届く大きなガラス窓の向こうには、彼女が夢見た景色が広がっている。
「私には夜景だけでいい。昼間の景色なんかいらない。一生、この夜景だけで充分なのだから」
そして、部屋に満ちる彼との思い出のムスクの香り。
それは彼女が初めての給料で彼にプレゼントしたもので、彼はいつもこの香りをまとっていた。
リビングには、カッシーナのソファ。現実の彼女にはとても手の届かない高価なものだが、この理想のおうちなら、何でもリクエストして手に入る。
そして――そのおしゃれで洗練されたソファの上には。
「ニコニコと笑顔を張り付けた、人形のような彼」が座っていた。
彼女はリクエストしたのだ。
いつも自分だけを見つめ、自分だけに微笑みかけ、自分の話だけを聞いてくれる――『私だけの彼』を。
「ねえ、あなた……これから一生、この夜景を見ながら私と見つめ合って話そうね」
ここは間違いなく、私の理想のおうちだ。
私は、心の底から幸せだった。
そして、それから1週間後。
ある町の定食屋のテレビから、ワイドショーのニュースが流れていた。
スタジオのコメンテーターが、鼻で笑うようにこう言っている。
「いやぁ、これ本当に現代の七不思議なんですかね? フェイク動画じゃないですか? こんな人間が突然消えるなんて、現代科学じゃありえないですよ、絶対」
画面には、とあるオフィスの防犯カメラ映像が映し出されていた。
昼下がりのオフィスのワークルーム。パソコンに向かってプレゼンの資料を作っていた一人の男性が、何の前触れもなく、不意に、大勢の同僚たちの目の前から――すっと音もなく「姿を消した」その瞬間の映像が、繰り返し流されていた。




