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幻影旅行代理店 遊山屋 ~現実逃避の旅、29泊30日プラン~  作者: 加藤泰幸
顧客File4.五十嵐美穂(30) 夫家族からの現実逃避
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其之八 -一歩-

「大切なものは常々変わる……契約の時にも、そうお話ししたでしょう?

 結果として五十嵐様が救われたとしても、それは偶然というものです」


 遊山屋でそう語る天津鞍馬の口調は、この上なく慇懃だった。

 もう季節は師走だというのに、彼は扇子で自身を扇いでいる。その姿がまた優雅で、見惚れさえする。

 だが、彼から受けた行為を忘れてはいけない。

 過去も現在も、一貫して大切に思えるものを失っていてもおかしくはなかったのだ。

 美穂は微かに肩をこわばらせながら、首を縦に振った。



「……それじゃあ、次は大切なものを失わないよう、注意しますね」

「ええ。新しい契約でも制約と代償は存在しますので、ゆめゆめ制約をお忘れなきよう。

 もっとも、五十嵐様なら心配はいらないでしょうね」

「だと、良いのですけれど」

「そうでなくてはいけません。……私は嘘は嫌いです。

 制約を破ったお客様には、それ相応の態度を取ります」

「ええ、伺っています」

「ですが、嘘を付くのはお客様にとっても好ましくないと思うのですよ。

 新たな人生を歩みだした早々に嘘を付く。嘆かわしいものではありませんか。

 せっかくの門出が台無しですよ」

「……気を遣って下さっていたんですか」

「まさか。お客様にとってはそうである、というだけで、私が案じているわけではありません。

 私はただ、嘘を付く方が嫌いなだけですよ」

 天津がにっこりと笑いながら語る。

 その笑顔に釘を刺されたような気がして、美穂は苦笑いしつつ、カウンターに置かれた契約書へと逃げた。


「新しい契約の内容は……基本的には前回と同じ、なんですね」

「ええ。制約と代償の内容も同一です。違うのはただ一点、逃避先ですね。

 ……前回のような、近場の天神ではなく、ご希望通り北海道とさせて頂きました」

「感謝します」

「手配自体は、大豊さんにやって頂きましたから、お礼は彼に。

 ……しかし、随分と離れた土地に現実逃避されるのですね」

「ええ。……北海道は、日本の最北端。九州とは対照になる位置ですから」


 そう言いながら、ゆっくりと目を瞑る。

 義父に真実を告げられて、もう一度現実逃避が出来ると決まってから、最初に思い付いたのが北海道だった。

 これまで一度も行った事がない都市だし、特別興味があるわけでもない。

 それに、いきなり雪国で一人暮らしをするのだから、きっと苦労の連続だろう。

 何も良い事はないのは、分かっている。

 でも、ここじゃなきゃいけない。

 いや、いっそ海外を希望しても良かったかもしれない。

 

「……全てを捨てられるように。

 振り返っても、何があったのか見えないように。

 九州から……生まれ育った故郷から、遠くへ行きたいんです」

 美穂は目を開き、穏やかな口調でそう告げた。



「……承知しました。では、是非サインを」

 天津は言い淀む事なくペンを差し出してきた。

 言われるがままにペンを握ったが、紙上で走らせる直前になって手を止め、視線を天津へ移す。

 だが、一瞬の事だ。

 すぐに、小さく失笑して名を記した。


「はい、これで良いかしら」

「ご契約、ありがとうございます。これで五十嵐様の新たな現実逃避プランが成立しました」

「改めて、お世話になります」

「いえいえ。航空券は後程用意させて頂きます。また、契約期間終了後には……」

「延長か、それとも満了か、聞きに来るのね?」

「……これはこれは。もう五十嵐様も慣れたものですね」

 天津の軽口を受け、美穂は肩を竦めながら立ちあがる。

 こんな事に慣れても、好ましくはない。

 ともすれば、一ヶ月後に天津が来た時の答えも、おのずと定まる。

 今度こそ、最後の現実逃避にしなくてはならない。

 福岡には、もう帰ってこないだろう。

 ……であれば、今のうちに済ませなくてはいけない用事がある。






「……ところで、天津さん、北海道に行く前に聞いても良いかしら」

「おや、なんでしょうか?」

「天津さんの事なんだけれども」

「なんなりと」

 また、あの糸目の笑顔で天津が微笑む。

 どう聞いても望む答えが帰ってくるような気はしなかったが、美穂は小さく息を飲んで口を開いた。


「貴方は、一体何者なの?」

「……ほう」

「前に契約した時は、突然の出来事が沢山あって、立ち止まって考えられなかったけれど……

 寮の管理人代理になった事といい、次彦さんを失った事といい、ただの偶然とは考えられないわ。

 貴方が直接、危害を加えたと言いたいわけじゃないの。

 これまでに起こった出来事は、そんな話で説明できるものでもないと思う。

 ……だから、もう一度聞くわ。貴方は、何者なの……?」

「私は……」

 天津が、パチンと扇子を畳む。

 それをそっと掲げながら、彼は小さく首を傾げた。


「見ての通り、ただの旅行代理店の店主でございます。

 昔々、ずっと昔から、この福岡で代々、現実にお悩みの方の逃避を手伝っている、

 しがない天津一族の末裔です」

「……意味深のようで、なんの答えにもなっていないわね」

「申し訳ございません」

 天津はそう告げて、深々と頭を下げた。

 もやもやとした気持ちは残るが、構わない。

 それもまた、この福岡に置いていくのだ。




「それじゃあ、失礼するわ」

「ご足労頂きありがとうございました」

 天津とあいさつを交わして立ち上がり、踵を返す。

 それから店の扉を出ようとして……半身を壁にぶつけてしまった。


「あつっ……」

「おや、大丈夫ですか?」

「……最近、たまにやるの。それじゃあ」

 首だけで振り返って苦笑してみせ、今度こそ遊山屋の扉をくぐる。

 そういえば、伊藤の部屋に駆け込んだ時も、同じようにぶつかったし、

 今朝も家を出る時、玄関で同じような出来事があった。

 未来ばかり見ていないで、目の前も見ろという事なのかもしれない。

 冬の北海道へ向けて、美穂は小さく、そして大きな一歩を踏み出したのであった。

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