面影の人と回顧録の影絵
「教授、頼んどいたトランク用意できてるか?」
「玄関に置いておいたぞ。ついでの餞別も用意しておいた、持っていきたまえ」
ダイニングで向き合い、錠剤を飲んでいた紅林は玖珂に問いかけ、得た返答の示した位置を確認すると露骨に妙な顔をした。
「遠慮しといていいか」
「作品作りの一環だ、値段など気にせず携えてゆけ」
「いやそんなに恐縮するほどの価値はねぇだろ。そういうんじゃなくて純粋に要らねえよ」
「まったく不必要ということもあるまい? 道中で使い路を考えてくるのだな!」
足下のそれをためつすがめつして、玖珂はおそらく持っていかないと納得しないと判断したのか、諦めて紅林はトランクと餞別をひとまとめにして持ちあげる。重量はかなりのものだったが、仕方がない。両手で引っ張るように、肩でドアを押して外へ出た。
スリッパのまま表まで出てきた玖珂が手を振り、紅林を見送る。
「紅林くん」
「あ? なんだよ」
「この世は無駄なもので満ちあふれている」
宣言し、白衣のポケットに手を差し入れる。
「突きつめて言えば芸術というのは無用の長物であるが、まず誰よりも製作者という観客の強い需要にて発生し、なにかの無駄を削ぎ落とし本質を見極めんとする作業という点では無用の中で用を成している。伝えるものがあって作るでなく、伝わるなにかがあると信じるのが重要な需要であり、正道だ。ただ、本当に必要とする人はひどく少ない……だがきみら研究者の課題である偽術というものは、本当に必要とする人はいるのかね?」
「利便性はなくてもいいものだ、ってやつか?」
「そうさ。偽術も技術も手垢と欲と利権にまみれた部分が大半だろう?」
「何が言いたい」
「結論を急くなよ、合理性をたまには棄てたまえ。その色眼鏡を棄てさえすれば、すべての無駄を無価値でなくすことすらできるのだからね」
まるで奇跡を見たように、玖珂は快活な、彼にしてはめずらしい笑みを浮かべた。
「無駄は無い、ってことか」
「そうだとも。無駄など無い。無意味など無い。なにもかもがなんらかの必然性を以て存在している。背負ってみたものをなんでも無駄と決め付けて切り捨てるのでは、もったいない。削ることはいつでもできる。もてるのなら、持ち続けなさい」
「……そいつは」
「きみは自分を持っている。自分で自分を必要としている。その思いを忘れているだけだ、折れるな曲がるな挫けるな。自分が汚れたなどと信じるな。身をまとう泥は見方を変えれば勲章だ。きみは道を逸れたかもしれないが、まちがいはしなかったのだよ。きみの歩んだ道にも無駄はひとつたりとも存在しない。人生に無駄は無い。あるとすれば、結末の時に人生そのものを無駄にしてしまう可能性があるのみだ」
「重たい言葉だぜ」
「適当に生きるなということさ。『適度に適当』などクソ喰らえだろう?」
「そだな。大人ぶった、やな言葉だ」
ようやく、紅林も笑う。玖珂は、開け放っていた両の扉に両手をかけた。
「さあいきたまえ。ここはじきに閉める」
「おう」
「ではまたな」
それきり二人の間に言葉はなく、ごろごろとキャスターを転がしてトランクを三月の車に乗せた紅林は、助手席の律希にシートベルトをするように促して、車を出した。雑木林の敷地を出たところで、部隊の人間が運転する車両が紅林たちの前後についた。
「で、お嬢さんよ。どこで降りる」
「三月さんの病院まで」
「あいよ」
二人を乗せた車が、あぜ道を通って病院への往路を行く。
ほどなくして病院へついた紅林は三月の病室へ向かうと、そこに残ることとした律希と別れ、また一人で病室からトランクを引きずって車まで戻った。ここでは玖珂としたような会話は一切なく、沈黙の内に離れる時が訪れ、その静かな空気を引きずったままに紅林は研究所へ向かった。
途中、道の脇にあったコンビニへ寄ってトイレを借りたが、またトランクを引きずって出てくるとそこからはもう脇道へそれることなく、まっすぐに研究所へ向かう。
+
東海地方大竜地脈第三組成研究所。
通い慣れた場所は今日に限り、ものものしい雰囲気に包まれた異質な空間となっていた。無機質な灰色に囲まれた中庭へごろごろとトランクを引きずりつつ、紅林は周囲を見回す。姿こそ見えないものの、囲まれていることは容易に想像された。
瞳に集めた魔力で発動していた〝空間把握〟を紅林は解除する。
「魔力が視認できる範囲にはいないみたいだが、まあ、狙われてるだろうな」
物陰にいた場合でも、人体から発せられる魔力と空気中の魔力の濃度差を見ればある程度の判断はつく。魔力の濃い場所は、人がいる可能性が高い。
しかしこの場においてはそのような愚を犯す者はいないらしく、術式で魔力自体を操作し濃度を変えないようにしているのか、すぐに狙える位置をとっていないのか、とにかく伏兵の位置をここから見つけ出すのは困難極まる事柄のようだった。
……見つけたところで、起こることには変わりないのだが。自嘲気味に笑って、紅林はトランクに腰を下ろした。
「予定時刻五分前に到着か。遅れれば危ういと説明したはずだぞ」
「一時間前に来ちまうほど楽しげな集まりじゃねぇからな」
下ろした途端に、佐野が現れる。さほど広くもない中庭だ、見逃していたとは思えないのだが、かといって向こうもいま着いたばかりとは思えなかった。
「別段、計画に支障はないが。多少なりとも心象は悪くなるぞ、紅林」
「結構だ。俺の方から好かれたいとも思ってねえんだよ、ビジネスライクにいこうぜ」
「まあ、むしろ、そうあるべきだろうな」
佐野の服装は以前と変わらず、真正面から紅林と向き合っている。腰、あるいは腋に拳銃を携えているかだけが気がかりであるが、そこは確かめてみるまでわからない。持っていると仮定して対処したほうがいいだろうと判じ、紅林はトランクに腰かけたまま話を続ける。
「さて、紅林。そろそろ出発だが」
「まあ待てよ、あと五分あるんだろ? 別れを惜しませてくれよ、この場所と」
四角く切り取られた秋の空を仰ぐと、なぜか、水気を頬に感じた。狐の嫁入り、だろうか。
紅葉でも観に行けばよかったか、とどうでもいいことに思いを巡らす。佐野は黙って、腕時計を見ていた。あと四分と十秒である。細かいことを気にしている彼に、声をかける。
「佐野」
「なんだ」
「ギジュツってのは、なんのためにあると思う」
「……また問答か。して、それはどちらのことを言っている」
「両方さ。お前らが飛躍的に進歩させようとしている、既存の力に頼らない方と。手放すには惜しいがいつまでも使えないから徐々に離れていく方と。どっちも、なんのためにある?」
ふり仰いでいた青の天から灰色の下界に視線を下ろし、紅林は佐野を中央に捉えて言う。佐野はしきりに腕時計を見ながら、やがて紅林に己の解答を向けた。
「好奇心は人に痛い目をみせる、ということを学ぶためだ」
「ずいぶん、ネガティブな考え方だな」
「究極的に言えば、人は技術・偽術に頼らずとも生きてゆける。だが好奇心が、快適さを生む結果を生みだしてしまい、そこへ甘んじた結末が今の人の世だ」
「原始に帰れってのか?」
「そうは言わん。どうせ繰り返しになるだけであろうことは明白だからな。それこそ無駄な過程というもの」
「無駄か」
「試さずともわかることにわざわざ過程の手間暇を割くことは無駄だろう。先を考えるのなら、今と向き合うべきだ。この考えが至ったひとつの道が、M2プラン」
「ホントに無駄かは試してみないとわかんねぇだろ。M2プランにしたって、成功するかはわからねぇ」
「人に意見を問うなら相手の話をしかと理解しろ、紅林。俺が言うのは、繰り返しが不毛ということだ。M2プランは、失敗した場合そこから学び取り次に生かせるものがある。だが回帰し再度繰り返すことはわずかな差異を生んだとしても、本質的な変化を見ることは難しい」
「そのわずかな差が大事なんだよ。間違えたら、間違えたとこまで戻らなけりゃ。先の式には進めねぇ」
「視点の差、だな。よりマクロ的かミクロ的かという。だがお前、最初から己の考えを言いたかっただけのようだな。ならば最初からそう言え」
呆れたように、皮肉った笑みを浮かべる佐野は腰かけたままの紅林から離れる。十歩離れたところで立ち止まり、腕時計を眺める。
「あと二分だ」
「じゃあもうひとつ話そう。お前は、先になにを求める」
「大多数が平穏無事な未来を」
「……ぱっと出てくる解答じゃねぇよそれ」
「仕方がない。俺の行動の根底にあるものは常にこれなのだからな。ゆえに兵隊の汚れ仕事もこなす。俺と一部をのぞいた大多数が平穏無事であるために、そうあるように、今と未来を欲する。俺にとっては戦いも研究も同じこと」
他者に奉仕することで得られる安定こそが佐野の信条の結果なのだ。紅林に、私的な感情で行い他者を顧みない研究は意味がないと語った彼は、むしろ他者に寄りすぎた生き方のように思われる。
だが本人がそれでいいのなら、他者が是非を問うことはできないのだ。逆に紅林は、指摘された時に抗う言葉を持てなかった。本当は、どう言われようと、佐野の言葉を屁理屈と断ずることもできたはずなのに――つまりは、ここに集約される。
自分の思いを口にしたはずが、その内側に自分はいなかったということだ。だから、佐野に言い返す言葉が出てこなかった。空虚な言葉と、虚ろな中身。どこからか手段と目的を履き違えていた紅林には、自分を出す言葉がなくなっていたのだ。このことが歯がゆい紅林は佐野の強さを妬み羨み、そんな自分の性根を醜く思いながらも、問いを重ねる。
「いいのかそれで」
「なにがだ」
「お前はいいだろうよ。大多数の中にいないことを自ら選ぶんだから。でも、お前の基準で選ばれるその他の〝一部〟ってやつはどうなるんだ」
「努力して変われ。淘汰されるべき無駄なものはどうあってもどこかに存在する。さして働かずに生きる蜂は二割に上る。知っているなら、変わるべきだろう。変われぬなら、そこまでだ」
「他人に要求するのか。自分の水準を」
「……求められている内が、華だと思うがね」
ちらりと紅林の顔色を見て、佐野は腕時計から目を離した。
言葉の端々に、紅林に向いていると思われる語があった。
けれどそれでも、紅林はもう己を見失わない。佐野の言葉に揺れることはなく、真っ向から対峙する。その様に感じ入ったのか、呆れ果てたのか。佐野の目の奥で揺れる光があった。光はかげり、またたきの間に消え去ったが。紅林の目に残ってちらついた。
「刻限だ。問答は、終わりか」
「ああ。俺の結論で終了だ。〝繰り返しにも無駄は無い〟」
「そうか。残念だ」
佐野は嘆息を長く続け、紅林は最後の一言を口にする。
「……六年前のやり直しだ」
トランクから立ち上がり、静謐な空気が溢れだすようなその中身を、ゆっくりと周囲に晒す。
「俺は、ACOから離反する」
銃声が響く。




