第60章 忘れても、ここにいていいです
「わたしが、君の、記録に、なります」
コトハは、そう言った。
記録する者が、忘れる者を、丸ごと、覚える。そんなことが、本当に、できるのか。
学園は、ハチャメチャ。記憶も、ハチャメチャ。
レテの忘却を、止められなければ、すべての記録が、消える。
――最後の、勝負だった。
明石コトハ(あかし・ことは)は、忘川レテ(わすれがわ・れて)の両手を、握った。逃がさないように。祈るように。ぎゅっと。
「忘川さん。これから、わたしが、君のことを、ぜんぶ、話します」
「ぜんぶ?」
「はい。君が忘れてしまった、君のことを。わたしが、覚えています」
コトハは、ひとつ、息を吸った。そして、語り始めた。
「君は、雨の日の昇降口で、わたしに、傘を半分こ、してくれました」
その瞬間。
暴走しかけていたレテの忘却が、ぴたりと、止まった。崖っぷちで、踏みとどまるみたいに。
「君は、メロンパンを食べて、泣きました。理由は忘れても、あまい、と言って、泣きました」
レテの体からにじみ出していた、白いもやが、すうっと、引いていく。潮が、引いていくみたいに。
「君は、白金さんの卵焼きの味を、手で覚えていました。合唱で、最後のひとことを、自分で歌いました。借り物競走で、絶対に忘れないものは、わたしだと、言いました」
声は、震えていた。それでも、一文字も、間違えなかった。間違えるわけがない。ぜんぶ、この胸に、刻んできたのだから。
「君は、毎朝、わたしの名前を忘れても。あったかい感じだけは、残して。毎日、わたしに、話しかけてくれました」
レテの目から、ぽろぽろと、涙がこぼれた。
「わたしは、ぜんぶ、覚えています。君が、君を忘れても。わたしが、君の記録です。だから」
コトハは、まっすぐ、レテを見た。
「だから、君は、消えなくて、いいんです」
その、瞬間だった。
コトハの胸から、やわらかい光が、あふれた。アカシックレコードの光。星の生まれる前の、いちばん最初の記録の色。
その光が、レテを、包む。
ばらばらに、ほどけかけていたレテの「自分」が、コトハの記録を軸にして、もう一度、ひとつに、編み直されていく。
「……あったかい」
レテが、つぶやいた。
「コトハの、記録、あったかい」
監査官アルシヴは、それを、ただ、観測していた。
端末の警告が、ひとつ、また、ひとつと、消えていく。線香花火が、落ちるみたいに。
『忘却部門・逸脱反応……収束』
『忘却部門・安定化、確認』
アルシヴは、しばらく、画面を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「……逸脱個体が。アカシックレコードを軸に、安定しました。前例の、ない、現象です」
「アルシヴ」
コトハが、振り返る。
「彼女を回収する理由は。もう、ありませんね」
アルシヴは、すぐには、答えなかった。端末を見て。それから、窓の外の空を見て。やけに長い、間があった。
そして、ゆっくりと、端末を、閉じた。
「……規定では。逸脱個体は、回収、または、処分です」
「アルシヴ」
「ですが」
アルシヴは、コトハを見た。その目に、いつかの、あのやわらかさが、戻っていた。メロンパンを口に入れて、「現地名称、メロンパン」と、すこし困った顔で記録した、あのときの。
「以前、わたしは、学びました。──記録できないものが、あっても、よい、と」
そして、続けた。
「今回、もう一つ、学びました。──記録にない者でも。誰かが、覚えていれば。存在して、よい」
端末に、最後の報告を、打ち込む。一文字ずつ、確かめるように。
「忘却部門・逸脱個体。現地存在により、安定。──処分、不要。観測、継続」
「アルシヴ……!」
「ただし」
ぴしゃりと、釘を刺すのは、忘れなかった。
「管理局が、これで納得するとは、限りません。いつか、また、誰かが、来るかもしれない。そのときは──」
「そのときは」
コトハが、うなずいた。
「また、わたしが守ります。何度でも」
アルシヴは、すこし、目を細めた。笑った、のかもしれない。彼の表情は、いつだって読みにくい。
「……あなたは、本当に、変わりました。記録するだけの、存在から」
そして、きびすを返して、歩き出した。堂々と。
――逆方向に。
「アルシヴ。出口は、そっちでは、ありません」
「……経路を、再計算します」
宇宙でいちばん遠くまで行ける男は、最後まで、廊下の出口だけは、見つけられなかった。
さて。
レテの暴走は、止まった。けれど、問題が、ひとつ、残っていた。
学園の記憶は、まだ、ぐちゃぐちゃの、ままだったのだ。
「コトハ。みんなの記憶、戻せる?」
レテが聞く。
「わたしは、アカシックレコードです。みんなの記録は、全部、わたしの中にあります。すこしずつ、返していけます」
そう言って、コトハは、教室を見回した。
不死川勇気が、まだ、自分の名前を忘れたまま、「俺は、誰だァーッ!」と、やけにさわやかに叫んでいる。星宮ミーナ(ほしみや・みーな)が、忘れた歌詞のかわりに、変な即興ソングを口ずさんでいる。白金歌音が、委員長の仕事を忘れたまま、優雅にお茶をすすっている。白河ナギ(しらかわ・なぎ)が、苦労性を忘れて、ぽけーっと、にこにこしている。
コトハは、ひとり、ひとりに、記録を返していった。手のひらから、そっと、本人に手渡すみたいに。
「不死川さん。あなたは、不死川勇気です」
「お! そうだった! 俺は、不死川だ! ……で、誰だっけ」
「もう一回、言います」
ところが、ここで、思わぬ抵抗にあった。
白金が、記録を返されそうになって、ぶんぶん、首を振ったのだ。
「いやです! わたし、いま、すごくしあわせなんです! 委員長の仕事、思い出したく、ありません!」
ナギも、便乗した。
「わたしも! 苦労性、戻したくないです! こんなに気が楽なの、初めてで!」
コトハは、こまった。心底、こまった。
「でも、それは、あなたたちの、大事な記録で──」
「大事だから、つらいんです!」
二人の苦労人が、声をそろえた。妙に、説得力があった。
凡田一が、ため息をつく。
「……記憶、戻すの、手伝うって言ったのに。本人が、拒否してやがる」
結局、コトハは、大事な記録から順に、すこしずつ、ゆっくり返していくことにした。急ぐ理由も、もう、なかったから。
だから、しばらくのあいだ、学園は、半分、記憶喪失のままだった。
不死川は、たまに自分の名前を忘れたし。ミーナの新曲は、即興のまま、なぜか好評だったし。白金とナギは、もうしばらく、しあわせなぼんやり期間を、満喫した。カケルにいたっては、自分が未明の生徒だと思い出すまで、まる三日、かかった。
でも、誰も、不幸じゃなかった。
事実は、ぐちゃぐちゃでも。「すき」「たのしい」「あったかい」は、ちゃんと、残っていたから。
放課後。
コトハとレテは、いつもの、隣の席に、並んで座っていた。何事もなかったみたいに。
「コトハ」
「はい」
「私、たぶん、明日も、コトハの名前、忘れる」
「はい。知っています」
「でも、コトハが覚えててくれるから。私、消えないんだよね」
「はい」
コトハは、すこし笑った。
「君が忘れても。わたしが、覚えています。何度でも」
レテは、ふにゃ、と笑った。それから、コトハの肩に、ぽてっと、頭を預けて。あっという間に、寝た。
その寝顔を見ながら、コトハは、不明事項記録帳を開いた。
そして、書いた。ていねいに、一字ずつ。
「忘川レテ。忘却部門。──でも、わたしの、大切な、友達。」
その下に、もう一行。
「彼女が忘れても。わたしが、ぜんぶ、覚えている。」
そのとき、凡田が、隣に来た。
「お前、また、難しい顔して、書いてんな」
「記録です」
「なんの」
コトハは、すこし迷ってから、記録帳を、見せた。隠すほどのことでもない気がして。
凡田は、それを読んで、ふっ、と笑った。
「……お前、ほんと、いいやつになったな」
「いいやつ?」
「うん。記録するだけの、変なやつだったのに。いまは、ちゃんと、誰かのために、覚えてる」
コトハの顔が、ぼっと、赤くなった。理由は、自分でも、よくわからない。
「……それは」
「ん?」
「凡田さんの記録も。わたし、ぜんぶ、覚えていますよ」
「は?」
「あなたが、いつ、メロンパンを半分くれたか。いつ、わたしをかばってくれたか。──全部です」
凡田は、なぜか、急に、耳まで熱くなって、あわてて目をそらした。
「……き、記録するな、そういうのは」
「しません、と言ったら、嘘になります」
「観測誤差、って言え!」
「事実なので、言えません」
教室に、夕日が差していた。
と、そのとき。例によって。
不死川が、自分の名前をまた忘れて走り回り、ミーナの即興ソングに、思いきり激突した。机が、どみのみたいに、なぎ倒されていく。その勢いに、凡田とコトハが、まとめて巻き込まれ。
二人そろって、教室の壁を突き抜けて、校庭に、転がり出た。
もちろん、無傷。
粉まみれで起き上がりながら、凡田が、空に向かって叫ぶ。
「だーかーらー! なんで、いつも、こうなるんだよ!」
レテが、壁の穴から、ひょっこり顔を出して、のんびり言った。
「ぼんだと、コトハ、なかよし」
「なかよくねえ! 巻き込まれてんだよ!」
コトハは、粉まみれのまま、空を見上げて、ふわっと笑った。
知らない明日が、また、来る。
学園は、ハチャメチャ。記憶も、まだ半分、ハチャメチャ。
でも――笑い声だけは、ちゃんと、宇宙でいちばん、にぎやかに、響いていた。
忘却部門編、これにて、明るく、着地です。
レテの正体は、宇宙の、消す側。コトハの、ちょうど、裏返し。
でも、記録する者が、忘れる者を、丸ごと、覚えることで。
レテは、消えずに、すみました。
「あなたが忘れても、わたしが覚えている」。
この物語の、いちばん最初からの約束が、ここで、宇宙規模の、意味に、なりました。
学園は、ハチャメチャ。記憶も、ハチャメチャ。
でも、事実は消えても、気持ちは残るから、みんな、笑っています。
白金とナギが「記憶、戻したくない」と抵抗するの、書いていて、いちばん、笑いました。
アルシヴも、すこし、優しくなりました。ただし、方向音痴は、一生、直りません。
これで、第二部・完です。
レテの登場から、交流戦、ラブコメ、そして忘却の危機まで。
ひとつの、区切りに、なりました。
管理局は、たぶん、また、来ます。
でも、そのときは、コトハが、何度でも、守ります。
第三部で、また、お会いできたら、うれしいです。
ここまで、本当に、ありがとうございました。




