第31章 雨宿りは予測できません
コトハは、もう未来が読めない。
天気も、テストも、購買のメロンパンが残るかも、わからない。
それでも毎朝、隣の席に座っている。
知らない明日は、ちゃんと毎日来た。
そんなある日の、放課後。
雨が降った。
コトハは、傘を持っていなかった。
その日の空模様を、コトハは外していた。
朝、凡田一が「傘いるかもな」と言ったとき、コトハは胸を張って答えた。
「本日の降水確率は、わたしにはわかりません」
「だから持ってけって話だよ」
「不要です。わからないので、賭けます」
「賭けるな」
結果。
六時間目が終わるころ、窓の外は灰色になっていた。
放課後、昇降口を出たところで、雨がきた。
それも、わりと本気の雨だった。
コトハは軒下に立って、空を見上げた。
「……外しました」
凡田はもう部活の連中に呼ばれて、体育館のほうへ行ってしまっている。
白金歌音は委員会。
星宮ミーナ(ほしみや・みーな)はライブの前乗り。
不死川勇気は、たぶん走って帰った。雨でも走る。あいつはそういうやつだ。
つまり、いま、ここには誰もいない。
コトハは、ひとりだった。
ひとりで雨を見るのは、けっこう、初めてのことだった。
以前なら、何時に止むかわかった。
雲の動きも、明日の天気も、十年後の梅雨入りまで知っていた。
いまは、わからない。
ただ、雨が降っている。
灰色の空から、まっすぐに。
コトハは、不明事項記録帳を取り出した。
ページを開く。
「雨。止む時刻、不明」
そう書いて、少し笑った。
わからない、と書けることが、なんだか、悪くなかった。
そのときだった。
「あ」
声がした。
横から。
ふわっと、傘の中に入れられた。
コトハの肩の半分に、雨が当たらなくなる。
見ると、隣に女の子が立っていた。
知らない子だった。
うちの制服じゃない。
紺色のブレザーに、見たことのないリボン。
眠そうな目をしている。
前髪のあいだから、ぼんやりこちらを見ていた。
「雨、嫌いでしょ。半分こしよ」
その子は言った。
コトハは、反射的に照合をかけた。
癖だった。
相手が誰で、どこの誰で、何を考えていて、次に何を言うか。
残った最小限の記録感知で、薄くでも、なにか返ってくるはずだった。
返ってこなかった。
何も。
過去がない。
名前もない。
未来も、いまこの瞬間に考えていることも。
ぜんぶ、空白だった。
ヴォイド、とコトハの中の古い言葉がささやいた。
索引に、この子がいない。
コトハは、生まれて初めて、目の前の人間を「読めない」まま見ていた。
「……なぜ」
声が、少しかすれた。
「なぜ、わたしが雨を嫌いだと」
その子は、首をかしげた。
「知らないよ」
「では、どうして」
「なんとなく」
なんとなく。
百三十八億年分の照合をかけて、コトハが一度も出力したことのない答えだった。
「なんとなく、傘に入れたくなったから」
その子は、もう一度言った。
そして、にこっと笑った。
笑うと、眠そうな目が、少しだけ開いた。
コトハは、固まっていた。
それから、なんとか、口を開いた。
「傘の、半分こ」
「うん」
「これは、青春物語における、好感度上昇イベントです。データに、あります」
「……なにそれ」
「相合い傘。発生確率、低。情緒的効果、大。わたしは、十億件、記録しています」
「で?」
その子は、傘を、くるりと回した。
「いま、好感度、上がった?」
コトハは、真顔で、自分の胸のあたりを、見下ろした。
「……測定、不能です」
「なんで」
「君が、読めないので。わたしの好感度すら、君の前では、数字になりません」
「ふうん」
その子は、よくわかっていない顔で、うなずいた。
「むずかしいね、きみ」
「むずかしくは、ありません。正確なだけです」
「おなじだよ、それ」
コトハは、そこで、ようやく、いちばん大事なことを、聞きそびれていたと気づいた。
「君は」
「ん?」
「君は、だれですか」
その子は、自分の手のひらを見た。
手の甲に、青いボールペンで、何か書いてある。
にじんでいて、半分読めない。
「えーと……『わすれ』……なんとか」
「わすれ?」
「うん。たぶん、わすれがわ。レテ、だったかな」
「だったかな、とは」
「自分の名前、たまに忘れるの」
コトハは、まじまじとその子を見た。
忘川レテ、と名乗ったらしいその子は、特に困った様子もなく、雨を見ていた。
雨は、まだ降っている。
「自分の名前を、忘れるのですか」
「うん」
「昨日のことは」
「覚えてない」
「一週間前は」
「もっと覚えてない」
「……それは」
コトハは、言葉を探した。
全宇宙の言語を持っているのに、こういうとき、うまく出てこない。
「それは、不便ではないですか」
レテは、ちょっと考えた。
考えるとき、彼女は空のほうを見る癖があるらしい。
「ううん」
そして、言った。
「忘れるって、けっこう、楽だよ」
楽。
コトハの記録帳には、その単語のデータが、何兆件もある。
でも、いま聞いたそれは、データのどれとも、違って聞こえた。
「全部覚えてたら、しんどいでしょ」
レテは、傘の柄を、くるりと回した。
しずくが、軒先で跳ねる。
「嫌なことも、ぜんぶ。覚えてたら。ずっと」
「……」
「私は、忘れる。だから、わりと、毎日きげんがいいの」
コトハは、何も言えなかった。
すべてを記録してきた自分の、ちょうど裏側に、その子は立っていた。
雨の音が、急に大きく聞こえた。
「君は」
コトハは、もう一度聞いた。
「うちの生徒では、ありませんね」
「ちがうよ。たぶん」
「たぶん」
「未明。私立未明学園、だったと思う。手に書いてある」
レテは、もう片方の手のひらを見せた。
そこには、『みめいがくえん 2年』と、これもにじんだ字で書いてあった。
「未明学園」
その名前を、コトハは知っていた。
青蘭高校の、昔からのライバル校だ。
学力では青蘭が勝つ。
でも、体育祭も、文化祭も、料理対決も、あの学校はいつも、めちゃくちゃに強い。
理由は、誰も予定を立てないから。
その場の勢いだけで、奇跡を起こすから。
そういう、変な学校だった。
「未明学園の生徒が、なぜ、青蘭の昇降口に」
「えー……」
レテは、空を見た。
「忘れた」
「忘れた」
「でも、ここ、なんか、いい感じがしたから」
雨が、少しだけ弱くなった。
レテは、ぴょん、と軒下から一歩出た。
傘を、こちらへ傾けたまま。
「もう行くね」
「あの」
コトハは、思わず手を伸ばしかけた。
なぜ伸ばしたのか、自分でもわからなかった。
「また、会えますか」
聞いてから、変なことを聞いた、と思った。
会えるかどうかなんて、以前のコトハなら、計算するまでもなく知っていた。
いまは、わからない。
わからないから、聞いた。
レテは、振り返った。
そして、にこっと笑った。
「会えるかは、わかんない」
「……はい」
「でも」
レテは、傘をくるりと回した。
「会ったら、たぶん、わかるよ」
「何が、ですか」
「会ったことある感じ、って」
それだけ言って、レテは雨の中へ歩いていった。
紺色のブレザーが、灰色の雨に、だんだん溶けていく。
コトハは、軒下に立ったまま、その背中を見送った。
肩は、半分濡れていた。
傘を半分こしてもらったほうの肩は、乾いていた。
その差が、なんだか、変な感じだった。
コトハは、不明事項記録帳を開いた。
書こうとした。
いつもの癖で。
名前。所属。記録ID。
でも、ペンが止まった。
書く欄が、ぜんぶ、空白のままだった。
照合が、返ってこない。
この子のことは、記録できない。
コトハは、しばらく考えて、それから、一行だけ書いた。
「忘川レテ。読み取り不能。」
少し考えて、もう一行、足した。
「もう一度、会いたい。理由、不明。」
書いてから、コトハは、自分の胸のあたりに手を当てた。
とくん、と、何かが鳴った気がした。
データには、ない感覚だった。
雨は、いつのまにか、止んでいた。
止む時刻は、最後までわからなかった。
第二部、はじまりました。
全知を失ったコトハにとって、世界はもう「知っている場所」ではありません。
そんな彼女の前に、ぜんぶ忘れてしまう女の子が現れます。
記録する子と、忘れる子。
たぶん、いちばん遠くて、いちばん似ています。
次回、コトハはもう一度、彼女に会います。
ただし、忘川さんのほうは──ぜんぶ忘れています。




