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「となりの席のアカシックレコード〜全知全能だけど、空気だけは読めません〜」  作者: 源三郎


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第1章 パンをくわえた全知の転校生

凡田一ぼんだ・はじめの一日は、今日も何も起きないはずだった。


平均的な朝。

平均的な通学路。

平均的な教室。


けれど、その平凡は一瞬で壊される。


パンをくわえて遅刻してきた転校生。

宇宙のすべてを記録してきた、全知の少女。

それなのに、普通の高校生活は何ひとつ知らない。


彼女の名前は、明石コトハ(あかし・ことは)。


これは、全知の転校生と、宇宙で一番平凡な少年が出会う最初の一日である。


凡田一ぼんだ・はじめは、特別な人間ではない。


成績は平均。

運動も平均。

顔は、クラスメイトなら覚えているが、他クラスならたぶん忘れる。


好きな食べ物はカレー。

嫌いなものは、急な予定変更。

それから、約束を破ること。


見た目はどこまでも平凡だが、義理と人情には妙に厚い。

一度引き受けたことは、文句を言いながらも最後まで守ろうとする。


そんな凡田一の朝は、今日も予定通りに始まった。


目覚まし時計が鳴る。

一度で止める。

二度寝はしない。


二度寝をすれば遅刻する。

遅刻すれば怒られる。

怒られれば一日が面倒になる。


だから起きる。


凡田一は、そういう人間だった。


朝食は食パンと目玉焼き。

テレビでは、天気予報のお姉さんが「午後から雲が増えるでしょう」と言っている。

母は洗濯物を干すかどうか悩み、父は新聞を読みながら味噌汁をすすっている。


どこにでもある朝だった。

教科書に載っても、誰も線を引かないような朝。


凡田は鞄を持って家を出た。


通学路も、いつも通り。


角のコンビニ。

赤になる直前の信号。

同じ制服の生徒たち。


その中に、凡田一も混ざっている。

混ざりすぎている。

もし上空から見下ろしたら、自分でも自分を見つけられない気がした。


県立青蘭高校けんりつせいらんこうこう


校門をくぐると、靴箱の前で生徒たちの声が重なっていた。

昨日の動画。

小テストの愚痴。

購買の新作パン。

誰かの寝癖。


世界は今日も、たいして重要ではない話題でできている。


凡田はそれが嫌いではなかった。


何も起きない。

それが一番いい。


そう思いながら、二年三組にねんさんくみの教室に入る。


「おはよー」


「おはよう」


返事をして、自分の席に座る。

窓際から三列目、前から四番目。

黒板も見えにくくない。

先生からも目立ちすぎない。


ちょうどいい席だった。


机に鞄をかけ、筆箱を出す。

一時間目は数学。

小テストがあるかもしれない。


嫌だな、とは思う。

でも、嫌だなと思うだけで逃げたりはしない。


凡田一は、本当にそういう人間だった。


チャイムが鳴り、担任の桜庭レイコ(さくらば・れいこ)先生が教室へ入ってきた。


眼鏡をかけた、冷静沈着な数学教師。

声は柔らかいが、目の奥には妙な鋭さがある。

二年三組では、おおむね「普通にいい先生」として認識されていた。

ただし、その教卓の引き出しが普通ではないことを、生徒たちはまだ知らない。


「はい、席についてください」


桜庭先生が出席簿を開く。


「今日は、みなさんにお知らせがあります」


教室がざわついた。


高校生は、この手の言葉に弱い。

転校生だと期待する者。

面倒な行事だと警戒する者。


凡田は後者だった。


「今日から、このクラスに新しいお友達が加わります」


前者が勝った。


「転校生だ!」

「女子? 男子?」

「先生、かわいいですか?」


桜庭先生は苦笑した。


「静かに。もうすぐ来るはずなんだけど……」


そのときだった。


廊下の向こうから、ばたばたばた、と足音が近づいてきた。


かなり本気で走っている。

少なくとも、転校初日の落ち着いた足音ではない。


足音は教室の前で止まった。


次の瞬間、扉が勢いよく開く。


「遅刻だぁ〜」


教室の入り口で、黒髪の美少女が大きな声で叫んだ。


しかも、パンをくわえたまま。


そのまま彼女は、何事もなかったように教室へ入ってきた。


教室中の時間が止まった。


桜庭先生は出席簿を持ったまま固まる。

男子は口を半開きにする。

女子は「え、何あれ」という顔で目を瞬かせる。


凡田も同じだった。


黒髪の美少女。

新品の制服。

整った顔立ち。

きれいな姿勢。


ただし、パンをくわえている。


情報量が多すぎた。


少女は口からパンを外し、丁寧に一礼した。


「明石コトハ(あかし・ことは)です。転校生が『遅刻だぁ〜』と叫びながらパンをくわえて教室に入る導入パターンを再現しました。観測記録上、この形式は青春物語の開始演出として一定の有効性があります」


沈黙。


誰も笑わない。

誰も拍手しない。


ただ、全員が同じことを考えていた。


この子、何を言っているんだ。


桜庭先生が、かろうじて笑顔を作る。


「ええと……明石さん。まずは、パンをしまいましょうか」


「了解しました」


コトハはパンをハンカチに包み、鞄へ入れた。


凡田は心の中でつぶやいた。


食べきらないんだ。


桜庭先生は深呼吸し、黒板に名前を書く。


明石コトハ。


名前だけなら普通だった。

本人はまったく普通ではなさそうだが。


「それでは、明石さん。簡単に自己紹介をお願いします」


「はい」


コトハは教壇の前に立った。

緊張している様子はない。

むしろ、教室の空気を乱している自覚がまるでなさそうだった。


「明石コトハです。宇宙開闢うちゅうかいびゃく以降の全記録を保管しています。趣味は未定。特技は全事象の参照です。よろしくお願いします」


二度目の沈黙。


後ろの席の男子が、小声で言った。


「設定、濃くない?」


凡田は心の中で同意した。


桜庭先生は額に手を当てる。


「ええと、明石さんは少し独特な表現をする子みたいね。みんな、仲良くしてあげてください」


その瞬間、コトハが先生を見た。


「桜庭先生」


「はい?」


「君が二十年前、魔法戦士まほうせんしレイベルとしてアンドロメダ方面の侵略艦隊を撃退した記録について、補足説明は必要ですか」


桜庭先生の笑顔が凍った。


教室がざわめく。


「魔法戦士?」

「レイベル?」

「先生が?」

「アンドロメダ?」


桜庭先生は出席簿を胸に抱えた。


「明石さん」


「はい」


「そういう冗談は、朝から少し刺激が強いです」


「冗談ではありません。記録番号は」


「言わなくていいです」


「秘匿情報でしたか」


「違います。違うけど、言わなくていいです」


凡田はそっと目を伏せた。


今日は何かが起きる日だ。


しかも、かなり面倒な方向に。


桜庭先生は咳払いし、無理やり話を進めた。


「では、明石さんの席は……凡田くんの隣が空いているわね」


やめてください。


凡田は心の中で即答した。


しかし、心の声は現実に届かない。


「凡田くん、明石さんに学校のことを教えてあげて」


「えっと、先生」


「お願いね」


「まだ何も言ってません」


「お願いね」


圧があった。


普通にいい先生だと思っていたが、こういうときだけ教師の権力を使うらしい。


コトハは凡田の隣まで歩いてきた。

足取りは静かで、無駄がない。

なのに、教室中の視線が彼女を追っている。


彼女は席に着く前に、凡田をじっと見つめた。


「君が凡田一ですね」


「そうだけど」


「君の人生記録は、宇宙開闢以来、最も特筆すべき出来事の少ない記録として分類されています」


「初対面で言うことじゃないよね」


「だから興味があります」


「馬鹿にしてる?」


「いいえ。観測対象として極めて希少です」


「もっと嫌な言い方になった」


コトハは不思議そうに首を傾げる。


「君のような平凡な存在の隣にいれば、私は普通の高校生活を効率よく学習できる可能性があります。協力してください」


「断る」


「断るという返答は予測していました」


「じゃあ聞かないで」


「しかし、君は最終的に引き受けます」


「未来を勝手に決めるな」


「未来ではありません。高確率の推論です」


「もっと嫌だよ」


コトハはようやく席に座った。


その瞬間から、凡田一の隣の席は、普通の隣の席ではなくなった。


一時間目の数学。


桜庭先生は、さっきの件をなかったことにするように、いつもより明るい声で授業を始めた。


「今日は二次関数の復習をします。まず、このグラフの頂点を求めてください」


黒板に問題が書かれる。


凡田はノートを開いた。

普通の問題だ。

たぶん、普通に解ける。


その横で、コトハが手を挙げた。


早い。

早すぎる。


桜庭先生の肩が少し跳ねる。


「明石さん」


「質問があります」


「はい」


「回答形式は、地球標準数学、アンドロメダ標準記法、高次元折り畳み座標系、暗黒物質演算体系のどれを採用すべきですか」


桜庭先生は黒板を見た。

コトハを見た。

もう一度、黒板を見た。


「地球標準数学でお願いします」


「了解しました」


コトハはノートに何かを書き始めた。


鉛筆の動きは速い。

速いのだが、書かれているものは数字ではなかった。


凡田は横目で見た。


文字とも図形とも言えない記号が、ノートにびっしり並んでいる。

見ているだけで頭が痛くなりそうだった。


「何これ」


「地球標準数学に変換しようとしましたが、途中で近隣三十七文明の数学体系が干渉しました」


「普通に平方完成して」


「普通とは、どの文明基準ですか」


「この教室基準」


「なるほど」


コトハは深くうなずいた。


「高校生活は難解ですね」


「難しくしてるのは君だけだよ」


桜庭先生は、コトハのノートを見ないふりをして授業を続けた。


凡田はこの時点で、今日一日分の疲労をほぼ使い切っていた。


二時間目は国語だった。


国語の教諭は、教科書を片手に淡々と本文を読み進めている。


一時間目の数学で起きた文明間干渉に比べれば、ずいぶん平和な時間だった。


少なくとも凡田は、そう思っていた。


隣を見るまでは。


明石コトハは、教科書を机の上に立てていた。


両手で支える角度も、顔を隠す位置も、妙に完璧だった。

まるで「授業中にこっそり寝る生徒」の資料映像を、数千件ほど参照して最適化したような構えである。


そして、教科書の向こうで。


彼女は大きな口を開けて寝ていた。


「寝てる……」


凡田は小声でつぶやいた。


全知が寝ている。


宇宙開闢以来の全記録を保管している存在が、国語の授業中に教科書を立てて寝ている。


しかも、少しだけ幸せそうな顔で。


凡田は、ぼーっと見てしまった。


寝顔だけ見れば、ただの転校生だった。

さっきまでアンドロメダとか高次元折り畳み座標とか言っていたとは思えない。


寝息は静かだ。


教室も静かだ。


国語の教諭の声だけが、黒板の前からゆっくり流れてくる。


だから、最初のサイレンは、やけにはっきり聞こえた。


遠くで、救急車の音が鳴った。


凡田は窓の外を見た。


まあ、街中ではよくある。


次に、消防車のサイレンが重なった。


「ん?」


さらに、警察車両のサイレンが鳴った。


「んん?」


教室の外が、急に騒がしくなっていく。


校門のほうで誰かが叫んでいる。

廊下の窓ガラスが、低い振動でかすかに揺れる。

その直後、学校の上空を何かが通過した。


ごう、と重い音。


自衛隊の飛行機らしき影が、校舎の上を低く横切っていった。


凡田は口を開けた。


国語の教諭は、まだ本文を読んでいる。


クラスメイトたちも、なぜか誰も騒いでいない。


いや、さすがにおかしいだろ。


外は明らかにパニックだった。


救急車。

消防車。

警察。

低空飛行する自衛隊機。


これだけそろえば、普通は学校どころではない。


なのに教室では、国語の教諭が「では、この一文の主語は」と言っている。


凡田は隣を見た。


コトハは寝ている。


大きな口を開けて。

教科書を立てたまま。

とてもよく寝ている。


そのとき、教室の扉が勢いよく開いた。


入ってきたのは、桜庭レイコ先生だった。


数学教師であり、担任であり、今朝コトハに魔法戦士の過去を暴かれかけた人である。


桜庭先生は、国語の教諭に一礼した。


「授業中すみません。緊急の確認です」


声は落ち着いていた。


しかし、その手には数学の教科書があった。


しかも、丸められている。


凡田は思った。


数学の教科書って丸められるんだ。


桜庭先生は迷いなくコトハの席まで来た。


そして、丸めた数学の教科書で、コトハの頭をぽこんと叩いた。


「明石さん」


ぽこん。


「起きなさい」


コトハは、びくっと肩を震わせた。


「はっ。国語的夢境界を観測していました」


「寝ていましたね」


「はい」


「外を見なさい」


コトハは窓の外を見た。


遠くで、またサイレンが鳴った。


自衛隊機らしき影が、もう一度校舎の向こうを横切る。


コトハは少しだけ目を細めた。


「あ」


「あ、ではありません」


桜庭先生は笑顔だった。


笑顔なのに、背後に見えない圧があった。


「少し廊下へ」


「しかし、授業中です」


「授業中だからです」


「教科書は」


「持たなくて結構」


桜庭先生はコトハの襟首をつかんだ。


そして、ほとんど引きずるように教室の外へ連れていった。


コトハは抵抗しなかった。


というより、抵抗する前に運ばれていた。


国語の教諭は、眼鏡を少し上げた。


「では、続きを読みます」


続けるのかよ。


凡田は心の中で叫んだ。


教室の外、廊下の窓越しに、桜庭先生とコトハの姿が見えた。


声は聞こえない。


けれど、桜庭先生が何かを説教しているのはわかった。


コトハは頭をかきながら、何度も小さく頭を下げている。


全知の存在が、数学教師に廊下で説教されている。


しかも理由は、たぶん授業中の居眠り。


いや、外のサイレンと自衛隊機も関係しているはずだ。


凡田は、国語の教科書を開いたまま、廊下を見続けた。


不思議だった。


なぜ、みんなは気づかないのか。


なぜ、国語の授業は続いているのか。


なぜ、桜庭先生はあんなに手慣れているのか。


そのときだった。


コトハの胸のあたりから、小さな白い光がこぼれた。


発光体。


そう呼ぶしかないものが、ふわりと浮かび上がる。


凡田は息を止めた。


白い光は、廊下の窓をすり抜けるようにして教室へ入ってきた。


次の瞬間、教室全体がまぶしい光に包まれた。


「うわっ」


凡田は思わず目を閉じた。


光はすぐに消えた。


ほんの一瞬。


まばたきより少し長いくらい。


恐る恐る目を開ける。


教室は、何事もなかったように元に戻っていた。


国語の教諭は黒板に板書している。

クラスメイトたちはノートを取っている。

誰も驚いていない。


凡田だけが、椅子の上で固まっていた。


外の音が消えていた。


救急車も。

消防車も。

警察のサイレンも。

上空を飛んでいた自衛隊機の音も。


すべて、何事もなかったように静かになっている。


凡田は隣を見た。


コトハは、すでに自分の席に座っていた。


教科書を開き、何食わぬ顔で本文を見ている。


「……いつ戻ったの」


凡田が小声で聞く。


コトハは前を向いたまま答えた。


「先ほどです」


「先ほどっていつ」


「相対的に」


「便利にぼかすな」


「凡田くん」


「何」


「国語の授業中に睡眠へ移行すると、記録保守機能が一時的に自動運転へ切り替わることが判明しました」


「何を言ってるのか全然わからない」


「簡単に言うと、少し寝たら外が騒がしくなりました」


「簡単にしても怖い」


「桜庭先生に、次回から睡眠前に申請するよう指導されました」


「申請すれば寝ていいの?」


「不許可でした」


「だろうね」


コトハは、国語の教科書を見つめた。


「高校生活は、睡眠管理も難解です」


「難しくしてるのは君だけだよ」


凡田は、窓の外を見た。


空は、いつも通りだった。


さっきの騒ぎが嘘みたいに、何も起きていない。


ただ一つ、凡田の中にはっきり残ったことがある。


明石コトハは、寝ても面倒だ。


休み時間。


コトハの周囲には、微妙な距離ができていた。


転校生だから気になる。

美少女だから話しかけたい。

でも、何を言われるかわからない。


その結果、半径二メートルほどの空白地帯が生まれていた。


その空白に、ひとりだけ踏み込む者がいた。


白金歌音しろがね・かのん


二年三組の学級委員長。

成績優秀、容姿端麗、品行方正。

誰にでも優しく、教師からの信頼も厚い。


つまり、完璧な女子生徒である。


歌音は柔らかく微笑み、コトハに近づいた。


「明石さん、学校で困ったことがあったら何でも言ってくださいね」


すばらしい。

これぞ学級委員長。


凡田は素直に感心した。


コトハは歌音を見る。


「白金さん」


「はい」


「君の昨晩の検索履歴には、大変興味深い傾向が」


歌音の手が、コトハの口を塞いだ。


速かった。


数学の授業中のコトハより速かった。


「購買に行きましょう」


歌音は完璧な笑顔のまま言った。


「今すぐ。私が全部おごります」


コトハは口を塞がれたまま、こくりとうなずいた。


凡田は見てしまった。

歌音の額に、うっすら汗が浮かんでいるのを。


この転校生は、学校中の地雷を素足で踏みに行くタイプだ。


そして、たぶん自分は毎回巻き込まれる。


昼休み。


凡田はなぜか、コトハと歌音と一緒に購買へ来ていた。


なぜか、というより、コトハに袖をつかまれたからだった。


「案内をお願いします」


「白金さんがいるだろ」


「君は観測史上最も平凡な案内人です」


「案内人として信用できる評価なの?」


「はい。購買という日常的環境を学ぶには最適です」


「うれしくない」


購買は戦場だった。


焼きそばパンを狙う男子。

限定プリンを確保しようとする女子。

何も考えず流れに押される一年生。


コトハはその光景を見て、真剣な顔をした。


「これは局地的資源争奪戦ですね」


「購買だよ」


「参加者の目に闘争本能が確認できます」


「パンが欲しいだけだよ」


歌音は手際よく、焼きそばパン、カレーパン、クリームパン、そしてメロンパンを購入した。


完全に口止め料だった。


「明石さん、好きなものをどうぞ」


「好き、とは未定義です」


「じゃあ、気になるもので」


コトハはメロンパンを手に取った。


丸い表面。

網目模様。

砂糖の粒。


まるで未知の鉱物を調べる学者のように、彼女はそれを見つめた。


「これは、メロンの形状を模したパンですね。しかし実際のメロン含有量は」


「そこから入らないで」


凡田は言った。


「食べればいいから」


コトハはうなずく。


そして、メロンパンを一口かじった。


その瞬間だった。


コトハの目が、大きく開いた。


教室で魔法戦士の過去を暴きかけたときも、数学で文明間干渉を起こしたときも、

彼女の表情はほとんど変わらなかった。


そのコトハが、今は震えている。


「どうしたの」


凡田が聞く。


コトハはメロンパンを見つめたまま、小さく言った。


「甘い」


「そりゃ甘いよ」


「記録では知っていました。人類の味覚データにも、メロンパンに関する記述は多数存在します。糖度、食感、香り、満足度。すべて参照済みです」


「じゃあ驚くことないだろ」


「いいえ」


コトハは首を横に振った。


その目に、涙が浮かんでいた。


「これは、違います」


ぽろり、と涙が落ちる。


歌音が驚いてハンカチを取り出した。

凡田は何も言えなかった。


コトハはもう一度、メロンパンを見た。


「データで読むより、甘いんですね」


その言葉は、妙に静かだった。


購買の騒がしさが遠くなる。


凡田は、初めてコトハをちゃんと見た気がした。


パンをくわえて教室に入ってきた変な転校生。

先生の秘密を暴きかけた危険人物。

数学を宇宙規模でややこしくする迷惑な隣人。


でも、それだけではない。


コトハは何でも知っている。

けれど、何も体験していない。


彼女にとって、メロンパンの甘さは、宇宙で初めて触れた本物だったのだ。


凡田は小さく息を吐いた。


面倒だ。

絶対に面倒だ。


でも、放っておくのは少し違う気がした。


放課後。


凡田はいつも通り帰ろうとしていた。


今日はもう十分だった。

十分すぎた。


できれば明日は普通に戻ってほしい。


そう思いながら校門へ向かうと、そこにコトハが立っていた。


「凡田一」


「何」


「今日の記録を整理しました」


「日記みたいなもの?」


「近いです。転校初日、遅刻演出は失敗。自己紹介は一部不評。数学は文明間干渉により不完全。購買ではメロンパンにより涙腺反応を確認」


「だいぶ散々な一日だね」


「はい」


コトハは、少しだけ笑った。


ほんの少し。

見逃してしまいそうなくらいの変化だった。


「ですが、私にとっては初めての一日でした」


凡田は言葉を探した。


気の利いたことは言えない。

宇宙の全記録を保管している相手を、どう励ませばいいのかもわからない。


凡田の人生に、そんな場面は一度もなかった。


「まあ」


結局、出てきたのは普通の言葉だった。


「初日なら、失敗くらいするんじゃない」


コトハが凡田を見る。


「失敗してもよいのですか」


「よいっていうか、するでしょ。普通」


「普通」


コトハはその言葉を、確かめるように繰り返した。


「君の平凡な日常は、記録上は退屈です。ですが、体験すると情報量が多い」


「それ、褒めてる?」


「おそらく」


「おそらくなのか」


夕方の光が、校門の向こうの道を薄く染めていた。


いつもの帰り道。

いつもの景色。


でも、今日だけは少し違って見えた。


コトハは校門の外へ一歩踏み出し、それから振り返る。


「明日も案内をお願いします」


「まだ引き受けるって言ってない」


「君は引き受けます」


「だから未来を勝手に決めるな」


「高確率の推論です」


「それもやめろ」


凡田はそう言いながら、たぶん明日もこの転校生に振り回されるのだろうと思った。


何も起きないはずだった日常は、今日、完全に崩壊した。


そして不思議なことに。


凡田はそれを、少しだけ面白いと思っていた。


第1章では、凡田一ぼんだ・はじめと明石コトハ(あかし・ことは)の出会いを描いた。


コトハは全知の存在でありながら、高校生活では完全な初心者である。

パンをくわえて遅刻する登場も、彼女にとっては青春の定番を学習した結果だった。


また、国語の授業中に教科書を立てて寝る場面では、全知の存在が日常の中で眠るだけで

外界がパニックになるという、コトハの異常性をコメディとして見せている。

桜庭先生が数学の教科書で起こすことで、先生が何かを知っている気配も少しだけ残した。


ただし、知識として知っていることと、実際に体験することはまったく違う。


その違いが最も強く出るのが、メロンパンを食べて泣く場面である。


コトハは味覚のデータを知っていた。

けれど、自分で味わうまで、その甘さを本当には知らなかった。


凡田はこの出来事を通じて、コトハがただの変な転校生ではないことに気づき始める。

そしてコトハも、凡田の平凡な日常に価値を見つけ始める。


次章では、コトハが「友達作り」に挑戦する。

全人類の友情データを持つ彼女が、なぜか一番不自然な方法でクラスに近づこうとする。


凡田の日常崩壊は、まだ始まったばかりである。

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