アクシデントと顔合わせ
春が訪れ、私も彼も進級した。
私は二回生に、彼は四回生になった。
彼は研究室に籠もることが多くなり、私はどのゼミに入るかを悩み始めた。
「タカトさんはどうやってゼミ決めたの?」
「僕は人工知能を研究したくて大学を選んだから、研究室は入学前から決まってたんだ」
「な、なるほど」
「ゼミが始まるのは来年からだし、今年いっぱいは、大学で何がしたいかとか、どんな職種に就きたいを悩んだらどうかな。それこそ、院へ進むのも悪くないからね」
「うん。でも院へ進むのは、どうかなぁ。私そんな研究するタイプじゃないし……」
「選択肢の一つとして、考えてみて。二人で何かを研究するのは、きっと面白いと思うんだ」
目から鱗が落ちた気分だった。
言われてみれば、研究は別にずっと一人でやるものではない。もちろん、一人で黙々と進める研究もあるけど。
だけど彼に言われて、二人で何か研究するのは、楽しそうだと興味を惹かれた。
「タカトさんの研究って、人工知能についての研究?」
「そうだね。今は探索戦略の学習について研究してるよ」
「難しそう……面白い?」
「興味があることだからね。面白いよ」
「人工知能って学習するんだよね?」
「そう。教えたら教えた分だけ学習するんだ」
「そっか。……うん、いろいろ考えてみるね」
何かが閃きそうで、閃けなかった。残念。でも、きっかけは掴んだような気がするから、いろいろ考えて、何かに繋げたいな。
講義が終わり、彼の研究室がある棟へ向かう。
研究棟は、私が普段過ごす棟と違い、あまり人通りは無い。皆、研究室で思い思いに過ごしているからだろう。
なんとなく、院へ進んだときのイメージを描く。こんな感じが日常になるのかな? なんか思ってたより、悪くないかも。
何を研究するかはさておき、研究室で研究することについては前向きに考えられた。ついでに、二人で研究するところまで考えると、知らず顔が緩みだす。
なんか、悪くないどころか、すごく楽しそう……かも……。
「三島さん」
妄想に浸っていると、私を呼ぶ声がした。振り返ると、講義で何度か顔を合わせたことがある男性が立っていた。
「何か?」
問い返すと、その人は無言で階段を登ってくる。
ここは研究棟だから、講義は無いはずなのに、どうしてここに居るんだろう?
「三島さん、まだ彼氏と別れてないの?」
はっきりしっかりとした文字の浮かぶ顔が、不思議で仕方ない、みたいな声で問いかけてくる。ところどころ掠れた線ながらも特徴の無い文字は、恐らくややぼんやり顔をしているんだろうなと予想させた。
「別れてませんし、別れるつもりもありません。そしてあなたには関係ありません」
私は眉が吊り上がるのを感じながら、極力真っ直ぐに相手の目があるだろう辺りを見て答えた。この! 怒りを! 察して!!
「俺、本当に三島さんが好きなんだ。講義で一緒になると、いつも俺を見てくれるだろ。目があっても嫌な顔一つせず、会釈までしてくれる。グループワークも誘ってくれるよな。三島さんも俺のこと、憎からず思ってくれてるんだろ? だから、早く彼氏と別れて、俺と付き合ってよ」
吊り上がったはずの眉が、元に戻るどころか下がり始めるのを感じた。顔が強張る。震えそうになる足を必死に叱咤し、真っ直ぐ立つ努力をしなければならなかった。
この人は何を言ってるんだろう? こわい。意味がわからない。
誰かと顔を合わせたら会釈くらいするし、座席が近ければグループワークにも誘う。別にこの人が特別なわけじゃない。偶然そこに居たから、会釈して声をかけただけ。
どうして、私と相思相愛だと思い込んでるんだろう?
あぁ、私はまた、間違えてしまったんだろうか。
人の瞳を見れば何を考えているかわかる、と聞いたことがある。だけど私には、その瞳を見ることすらできないのだ。
瞳から感情を読み取ることはできない。顔に浮かぶ文字から読み取れるのは、この人が真剣な顔をしてるだろうということだけ。
こわい。こわい。すごくこわい。
その瞳には何を映しているのだろう。平常心? 激情? それとも狂気?
こんなときはどうするのが正解なんだろう。わからない。
今、ここに一人なのが恐ろしくて心細い。この人の顔が見えたら、少しは違ったんだろうか?
見えなくて怖いなんて、思ったこともなかったのに。
「三島さん、返事してよ」
丸みを帯びた文字が表すのは、楽しいという感情。
この人は、今、楽しいの? この状況が? なぜ?
「わ、私が好きなのは、タカトさんだけ!」
もっと大声で叫びたいのに、小さくて震えた声しか出ない。こわい。
丸みを帯びた文字だったはずなのに、文字はみるみる角張っていく。怒ってる?
「なんでだよ! 俺のことが好きだって言えよ! あいつと別れろ!!」
大声に思わずびくりと体を竦めると、私の手を掴もうとしたのか、腕が伸びてきた。反射で振り払おうとしたら、がくんと視界がブレる。
「え」
スローモーションのように、角張った文字が間延びする様子を眺めながら、あぁ、階段を踏み外したんだなと冷静に判断する自分が居た。
ふわりと一瞬の浮遊感の後、あちこちをぶつけながら、階段を転がり落ちる。ガン、と強かにぶつけた頭は、一瞬目の前に星が飛んだ。
いっっっっっったぁ…………!
視界がチカチカする。全身痛い。きっと青アザだらけになってる。
……とりあえず、起き上がらなくちゃ。
体を動かすとやっぱり痛い。あちこち痛い。じんじん痛いだけでなく、ヒリヒリ痛いところもあるから、たぶんところどころ擦りむいてる。起き上がることもできず、自分の体を抱きしめて痛みに耐える。
「だ、大丈夫?!」
そんなわけないでしょ。満身創痍です。
私が落ちる原因になった人が、慌てて駆け降りてきたらしい。隣に座り込んで私を観察してるようだ。
だいじょばないよ。痛いよ。
「っ、っ!」
文句を言ってやりたいけど、痛くて声が出ない。悔しい。大声で罵詈雑言を投げつけてやりたいのに。痛い。
せめて睨みつけてやろうと顔を上げて、絶句した。
「………………!」
「やっぱり痛いよね? 歩ける? 保健室行く?」
何やらいろんなことを言われてるが、その全てが耳を素通りしていく。
私へ懸命に声をかけるその人は、痛みを堪えるような面持ちで私を見ていた。
その顔には、ありありと心配そうな表情が浮かんでいた。
「……あなた、だれ?」
声を振り絞った私の言葉を聞いたその人は、驚いた顔になった。
「俺がわからない? 頭を打ったからかな……」
今度は、思案する顔になった。
なんで? タカトさんじゃないのに、顔が、わかる??
混乱していたら、バタバタと階段を駆け降りる音と、彼の声が聞こえた。
「ユイちゃん!」
そちらへ顔を向けると、見慣れた彼の姿があった。来てくれた。嬉しい。
「タカトさん!」
立ち上がれないから懸命に腕を伸ばすと、駆け寄った彼が抱きしめてくれた。大好きな体温と匂いに、強張っていた体から力が抜けていく。
「何か大きな声がして、別れろとか聞こえてきたから、もしかしてと思ったんだ」
もっと早く来れば良かった、と沈痛な声で囁く彼に胸がいっぱいになる。
「来てくれて嬉しい。ありがとう。心配かけてごめんね」
ぎゅっと強く抱きしめてくれる彼に、私も精一杯抱きつく。背中を撫でる温かな掌が、私の胸を安堵で満たしていく。
「それで、きみは誰?」
私の側で座り込んでいる人物へ、彼が問うた。私は思わず彼にしがみついてしまう。
「お、俺は、ちょっと声をかけただけで、こんなことになるなんて……彼女が勝手に転がり落ちたんだ!」
「……へぇ。そうなんだ」
聞いたことないくらい、低くて冷たい声が響く。このままだとたぶん、きっちり処断してくれるんだろうなって思う声。
でも、できればもう、この人と関わりたくないんだよね……。
「タカトさん。いたい」
「あ、そうだよね。早く行こう」
一刻も早くその場から離れたくて、彼の袖を引くと、案の定すぐに移動してくれた。私を抱えた彼を茫然と見つめるその人は、ただそこに座り込んでいた。
ついてきたりしなくて、本当に良かった。
彼に運ばれて保健室を訪れ、学校医の先生に打ち身や擦り傷の処置をしてもらう。
「階段を踏み外した? 気をつけないと。女の子なんだから、傷が残ったらたいへんよ」
あちこちの処置をしながら、学校医の先生は私の心配までしてくれた。その顔は、心から心配してる表情だった。
……やっぱり顔、わかる。でも、なんで?
後頭部には大きなたんこぶができていて、本当に心配された。しっかり冷やすようにと袋に入った氷をもらい、幹部に当てながら保健室を後にした。
心配した彼に抱きかかえられながら、自分で後頭部に氷の入った袋を当てる自分の姿を想像して、なんとも複雑な気持ちになりつつ、どうしようもないと諦めた。
そのままいつもの自習室へ入り、椅子に座らせてくれた。ここなら人目も気にしなくて良いし、しばらくじっとしていられそうで良かった。
ほっと息を吐いた私に、探るような声で彼が問う。
「良かったの?」
たぶん、あの人を放置して良かったのかということだと思う。彼には私が落ちた理由も、きっとお見通しなのだ。
「うん。できれば、もう関わりたくないし」
「ユイちゃんが言うなら、その通りにするけど……納得はしてないからね」
不服そうな彼の声は、だけど私の意思を優先してくれるつもりなのが伝わってきて、嬉しくなった。
「ありがとう。ちゃんと処置してもらったし、頭もこうして冷やしてるし、大丈夫だよ」
笑いかけると、彼は仕方ないなぁと言うような顔で、一つ息を吐いた。そんな顔も物憂げで好き。
やっぱり彼の顔が一番好き。……て、そうじゃなくて。
「タカトさん、あのね、落ち着いて聞いてほしいんだけど」
「どうしたの?」
「あの……私もしかしたら、人の顔、わかるようになったかも」
「そう。……………………えっ?」
ガタン、と椅子から腰を上げかけた彼が、珍しく取り乱している。わかる。びっくりするよね。
「それは、つまり。僕以外の顔がわかるってこと?」
「うん。階段から落ちて、頭打ったからかな?」
「ショックで認識が切り替わった……? いや、どちらかと言うと正常な認識ができるようになった?」
さすが人口知能を研究してる人は着眼点から違う。まぁ何言ってるのかさっぱりわからないけど。
「顔はわかるようになったんだけど、名前がわからなくなっちゃって。正直、今日このあとお姉ちゃんに会うのも不安」
思わず眉が下がってしまう。あれだけ整った文字だ、きっと恐ろしく整った顔に違いない。
「……そうか。お姉さんの顔を見るのも、初めてなのか」
驚いた彼の声に、たしかにこの歳まで姉の顔も知らないなんて、かなりレアケースだなと思う。
「きっとお姉ちゃんは喜ぶだろうし、お父さんとお母さんもすごく喜ぶと思うんだけど……これを伝えて良いか、悩んでて」
目線が下がるにつれ、俯いてしまう。戸惑いと、どうしようもない不安。
「気にかかることを、全部教えてくれる?」
こちらへ伸びてきた手が、私の握りしめた両手を包む。温かくて大きな手。さっき振り払った手とは全然違う、大好きな手。
「私が見えてる顔は、このままずっと見られるのかなって。もし一時的なものだとしたら、ガッカリさせちゃうんじゃないかと思うと、伝えて良いのかな……って」
するすると、心に引っかかってることが引き出されてしまう。彼の前では、心に留めておくなんて、できやしない。
「ユイちゃん」
彼の呼びかけに、のろのろと顔を上げると、優しい笑みがこちらを見ていた。
「ユイちゃんが不安に思う気持ちもわかるけど、ユイちゃんのご家族なら、それが一時的なものであれ、そうでなくても、受け止めてくれるんじゃないかな?」
包まれた掌から、彼の体温が伝わる。私より高い体温が少しずつ移り、不安で冷えていた指先を温めた。
「……うん。そうだよね。とりあえず、お姉ちゃんに伝えてみる」
ありがとうが伝わるよう、手を開いて彼の指と絡めると、安心させるように頷いてくれた。
彼が付き添ってくれて、無事に帰宅した。正直、初めて見る文字ではない人の顔で溢れた通学路は不安でいっぱいだったし、とても心強かった。お姉ちゃんに階段から落ちたことも話さないといけないし、心配してくれたんだと思う。
帰宅したお姉ちゃんの顔を見て、私は本当に驚いてしまった。
そこには、容姿端麗としか表現できない顔があった。
本当に私と姉妹なんだろうか。なんだか鏡で見る自分の顔と、随分違うような……でもなんとなく、パーツは同じような気もするから、たぶん配置のバランスってやつなんだと思う。そうだと思いたい。
なるほどお姉ちゃんが言ってた、バランスが整ってたら〜というのは、このことか。
ぼんやりとお姉ちゃんの顔を見て惚けている私をフォローするように、彼がお姉ちゃんに説明してくれる。
「ユイちゃんが今日、大学で階段から落ちました。僕がついていながら、申し訳ありません」
深く頭を下げる彼に驚いてしまう。
「タカトさん、待って、私のせいだし! タカトさんは全然悪くないの、私が踏み外して、勝手に落ちたの」
あたふたとしていたら、じっとこちらを見ていたお姉ちゃんが一つ息を吐いた。
「それは、ユイが私の顔をじっと見てることと関係ある?」
さすが鋭い。鋭すぎる。ドキドキしながら口を開く。
「あのね、驚かないでほしいんだけど。実は、階段から落ちて頭を打ってから、人の顔がわかるの」
ガタン! と勢いよく立ち上がったお姉ちゃんが座っていた椅子が倒れた。
「……本当に?」
美人は唖然とした顔も美人なんだな、なんて、今まで文字でしか知らなかったことを理解する。
「でも、これがずっと続くかわからないし、もしかしたらすぐわからなくなるかもしれないんだけど、でも今はわかるってことは、伝えようと思って」
最後まで言い切る前に、お姉ちゃんが素早くスマホを取り出し、どこかへ電話をかけはじめた。
「あ、お母さん? うん、私。お父さん帰ってきた? それならすぐこっち来て。そう、いいから。あー、違う、トラブルとかじゃなくて。でもとにかく早く来て。すぐに。ユイが私の顔、わかるって」
電話越しに何やら叫び声のようなものが聞こえてから、すぐにプツリと切れた。
「ということだから、二人はすぐに来るって。タカトくんも早くご家族に連絡して。顔合わせするなら今しかない。ユイに顔を見せてあげて」
とても真剣な顔をしたお姉ちゃんが彼に告げるから、私は驚いてしまった。
「わかりました」
彼もそれに当然のように答えるから、またも驚いてしまう。
「えっ?」
そのまま彼は本当にスマホで連絡し始めてしまうし、私が二人を見比べてる間に、お姉ちゃんが私の腕を掴んだ。
「何してんの、ユイ。顔合わせだよ。準備しなきゃ」
リビングに彼を残したまま、私はお姉ちゃんに部屋へと引き込まれ、あれよあれよと言う間に身支度を施されてしまった。
「うん、我ながら完璧。こんなこともあろうかと、用意してて良かったわ」
身綺麗になった私を眺めながら、満足そうに頷くお姉ちゃん。お姉ちゃんの部屋に私サイズのワンピースがあったことに戸惑いつつ、私一人ではできなかった身支度をしてもらったことに感謝しかない。
「ありがとう、お姉ちゃん」
振り向いて直視するには眩しい容姿端麗な顔を見て言えば、満面の笑みを浮かべたお姉ちゃんが、サムズアップした。
「任せなさい! 私、ユイのことあれこれするの、好きなんだから」
その声には心からの慈しみのような柔らかさがあった。あぁ、私はお姉ちゃんの妹で良かった。
リビングへ戻ると、彼は何やらスマホ操作していた。ご家族と連絡取り合ってるのかな?
手早く出かける準備まで終わらせたお姉ちゃんが彼に声をかける。
「おまたせ。全部投げちゃってごめんね。そっちは?」
「問題ありません。両親も兄も、すぐに支度して出ると言ってます。店を押さえてありますから、そちらへ移動しましょう」
私が目を白黒してる間にも、サクサクと話が進んでいく。手際が……良すぎる……!!
「ユイちゃん、すごく似合ってる」
私の傍へ来た彼が目を細めて言う。なんだか、気恥ずかしい。
「ありがとう。タカトさんは? 着替えるの?」
「さすがにこのままってわけにもいかないから、店へ向かう途中で一旦離脱して着替えるよ」
自分の服を摘みながら彼が言うけど、今のままでもおかしくないと思うんだけどな……? と首を傾げていると、お姉ちゃんが笑った。
「ユイが綺麗な格好してるのに、タカトくんが普段着だと、カッコつかないでしょ」
照れくさそうに彼が頷くのを見て、なるほどと納得した。
家を出て、彼に教えてもらった高級ホテルへ向かう。移動手段はなんとタクシーではなく、ハイヤーだった。
エントランスで輝く黒塗りに慄く私へ、彼が噛んで含めるように顔を覗き込んで言った。
「今日あんなことがあったばかりで、心配なんだ。僕は少し離脱するし。お願いだから、僕の用意した車に乗ってほしい」
彼の瞳に揺れる隠しきれない不安に、私は頷くしかない。だってあんな顔されたら、高級感に耐えられません、なんて言い出せない。
「ありがとうタカトくん、有り難く使わせてもらいます」
私の肩を叩いたお姉ちゃんが、彼へ力強く頷いた。
黒塗りを見る瞳が輝いてるように見えるのは、普段なら乗ることがない高級車への期待とかでは無いと信じたい。というか、顔がわかるだけで、こんなにも人が考えてることがわかるようになるの? わりとショックだ。
私とお姉ちゃんをハイヤーに乗せて、彼は別の車で着替えに行くようだった。少し心細くなってしまい、思わず彼の袖を掴むと、優しく頭を撫でられた。
「すぐ追いつくから、待ってて」
「……わかった」
こくんと一つ頷いた私に、彼はほっとしたように笑った。
ハイヤーの運転手さんに促され、そのままお姉ちゃんと、人生で乗ったことないような高級車に乗り込む。シ、シートがふかふかぁ……!
ドアが閉まる衝撃もほとんどなく、私がこれまで乗ったことないような高級車のすごさを目の当たりにする。
「須藤様よりお窺いしております。お気になることがございましたら、遠慮なく仰ってください」
さすがハイヤーの運転手さんは驚くくらい丁寧で、物腰柔らかい。
私の戸惑いを伝えてくれてるのか、ミラー越しでもこちらへ目線を寄越すことはなかった。今の状態でミラー越しに目が合ったりするとパニくる自信があったので、正直ほっとした。彼の心配りに感謝である。
揺れも無く静かに走る車に、人生初の高級車への興奮は最高潮だった。
すごい……タクシーに乗ったときもすごいと思ってるのに、ハイヤーってこんなに違うの? もう、すごい以外の感想が出ない。
「頼りになる彼氏で良かったね」
よほど私の目が輝いていたのか、お姉ちゃんが堪えきれないように笑った。私は照れながら頷いて、誤魔化すように外の景色へ目を向けた。
ホテルのロビーへ到着すると、お父さんとお母さんが居た。予想してたとおり、整った顔の二人が立っているのを見ながら、なるほど彼が撮影かと思ったと話していたことを思い出す。お父さんもお母さんも、普通に美人だ。
二人から抱きしめられて、髪型が崩れない範囲で何度も頭を撫でられた。私が顔を認識できるようになったことをとても喜んでくれて、ずっとこのままかわからないと不安を打ち明けると、笑ってくれた。
「私たちの顔がわかってもわからなくても、ユイちゃんはうちの娘よ。もしまたわからなくなっても、今見てる顔をときどきでも思い出してくれたら嬉しいわ」
にっこり笑うお母さんと、力強く頷いてくれるお父さんに、泣きそうになった。私は、本当に家族に恵まれている。
「それにしても、こんな急な話なのに、こんなトントン拍子に進んでびっくりした」
あまりにスムーズに話が進んだこの集まりについて口にすると、三人が顔を見合わせた。バツの悪そうな顔でお姉ちゃんが口を開く。
「あのね、ユイ。言ってなかったけど、我が家の認識として、ユイはタカトくんと結婚するだろうと思ってたから、遅かれ早かれ、顔合わせはあったのよ。それが今日になっただけ。タカトくんからもお願いされてたし。タカトくんもご家族に顔合わせについては打診してたみたいだから、これだけスムーズに集まることができたってわけ」
私の知らないところで、私の将来についての段取りは準備されていたらしい。連携プレーがすごすぎる。
少しして彼が到着し、店へ案内された。そこはフレンチレストランの個室で、何やらラグジュアリーな空間にただただ圧倒される。
知らない場所で落ち着かない気持ちを落ち着けるため、隣の彼へ目線を移すと、ぴしりとフォーマルな服装に身を包んだ姿に、ほぅ……と見惚れてしまう。かっこいい。
そわそわしてた心が、ドキドキし始める。目が合うとにっこり笑いかけられて、ますます胸が高鳴る。
個室へ案内されてから間もなく、彼のご両親とお兄さんが到着した。
彼のお父さんはダンディで優しそうな人で、彼のお母さんは眩いくらいに美しい人だった。彼ももしかしたら、私みたいに、祖父母似なのかもしれないと思ったくらい、ご両親と似てるところをあまり見つけられなかった。
お兄さんは、想像してた五倍くらい美人で、まさに眉目秀麗が服を着て歩いてるような人だった。彼と違ってお母さん似のようだけど、お父さんとお母さんの良いとこ取りハイブリッドみたいな顔だ。すごい。なんかもうそれ以外言えない。
顔の良い人たちが集まった空間は、なんとも言えない圧迫感があったけど、隣に彼が居てくれるだけで、頑張れた。たぶん人によっては喜ぶ空間なんだろうけど、私はやっぱり、彼の顔が一番好きなんだなと再確認した。隣を盗み見るたびに、なんだかほっとするし、胸が温かくなった。
顔合わせは問題も無く、スムーズに進んだ。
緊張のあまり料理の味がわからなかったことと、顔面偏差値の暴力に目がチカチカしてしまったこと以外は。
見慣れぬ顔に落ち着かなくなると、彼の顔を見て心を落ち着けた。最初はなぜか浮かない顔をしていた彼が、私が彼を見て安堵するのを繰り返していると、少し嬉しそうになっていた。
理由はよくわからないけど、彼が嬉しそうだと私も嬉しい。つられて顔が緩むのを感じた。
そろそろお開き、という空気になったところで、ノックの後すぐにドアが開いた。まだ何か料理が出てくるんだろうか?
「突然申し訳ない。どうしても一言挨拶したくて」
そこにはおじいちゃんが立っていた。
静かにお店のスタッフさんが椅子を運んできて、席を整える。にこにこと笑うおじいちゃんが着席するまで、我が家の面々も、彼の一家もただ呆気に取られていた。
「私はユイちゃんが我が家の一員になることを、心待ちにしているよ」
真っ直ぐに私を見て笑うおじいちゃんは、目元が彼によく似ていた。なるほど、彼はおじいちゃん似だったんだ。色素の薄いグレーっぽい瞳は、同じ色をしている。
「よ、よろしくお願いしましゅ」
噛んだ。こんな重大な場面で。恥ずかしい。
赤くなる顔を隠すように、ぺこりと頭を下げる。なんでよりによって今噛んだの。ここで噛むとかもう羞恥の極み。
「こちらこそ、よろしくね」
隣から伸びてきた手が、私の手を握る。良かった、流してくれるみたい。いや、大人な彼が揶揄うとは思ってないけど。
顔を上げると、たくさんの優しい顔がこちらを見ていた。それは彼との関係を祝福してくれる人がこんなに居るということで、途方も無い幸福に胸がいっぱいだった。
一人ひとりの顔を目に焼き付ける。
もしかしたらこのまま、ずっとこの顔を見続けることができるかも知れない。でも明日起きたら、もうわからなくなるかも。
どちらにしても、今この場で私たちを祝福してくれた人たちの顔を、忘れたくないから。いつでも思い出せるように。
泣き笑いのようになってしまった私を見た彼が宥めるように、その大きな手で私の手を撫でてくれた。
最後にみんなで並んで写真撮影をして、解散となった。
彼のご両親もお兄さんも、私に優しく声をかけてくれたし、おじいちゃんはいつもどおり優しかった。
お兄さんにクリスマスのお店についてお礼を言うと、輝く笑顔で頷いてくれた。ユーモア溢れる面白い人だし、良い人だけど、顔面偏差値の暴力がすごくて、なんとなく薄目になってしまう。
笑顔が(物理的に)眩しいって、本当にあるんだなぁと遠い目になったのは秘密だ。
そんな私たちの様子を見た、私の両親とお姉ちゃんは、とても嬉しそうに笑っていた。
「ユイちゃんが真っ直ぐに目を見つめたい人ができて、本当に良かったわ」
お母さんの言葉はとても温かくて、隣で頷くお父さんの顔は、とても優しかった。
思わぬアクシデントにより、生まれて初めて人の顔がわかるようになった。その流れのまま、彼のご家族との顔合わせまで済ませてしまった。
この状況がいつまで続くかわからないけれど、改めて思うのは、やっぱり私は、彼の顔が一番好きだということ。
両家一堂に会する場面で、あちらを見てもこちらを見ても整った顔が並ぶ顔面偏差値の暴力の中、私の心を落ち着かせてくれたのは、見慣れた彼の顔だけだったのだ。
整った顔は、美しいとは思うけれど、文字で見ていた時と同じで、美術品のようだなぁとしか思えない。
あの顔面偏差値の中で見れば、彼の顔はたしかに目立つタイプではないけれど。誰よりも綺麗な瞳をしているのだ。
そもそも私だって、目立つ顔ではないのだし。一家揃って並ぶと余計に、私のパッとしない感じが際立ったのでは? 大丈夫?
もし今見えてる顔が、またわからなくなって。もう人の顔が見えなくなったとしても。
今日顔合わせで見たみんなの顔は、生涯忘れることは無いだろう。
あの温かくて優しい人たちに祝福される幸せを、ずっと大切にしていきたい。