1.不思議な旅人(7)
チェナがぼうっとしている間に、男の人は、また周囲に群がってきた子供たちに、いたずらっぽく秘密めかして、誘いかけていました。
「さあ、私が猟師だってわかったかい? わかったら、明日、猟師小屋に遊びにおいで」
「でも、子供だけで森へ行っちゃだめだって、母さんが……」
「だからさ、お父さんやお母さんに内緒で来ればいいんだよ」
「だって……。怒られるよね」
「怒られるのが怖いのかい? お母ちゃんの言いつけをなんでも守る、いい子ちゃんは誰かな? お母ちゃんの前掛けの紐を握って遊ぶ、おっぱい臭いちびすけちゃんは誰かな? まさか、君たち、森が怖いんじゃないだろうね?」と、からかうように目を光らせて挑発されて、むきになった子供たちは、
「怖くなんかない、行くよ!」と、口々に叫びました。
けれど、すぐに、怖がり屋のカチヤが、気弱な声を出しました。
「でも……、森で迷子になったら、森の魔女に捕まって仔鹿に変えられちゃうって」
子供たちが、たちまちざわめき出しました。
「違うよ、取って喰われちゃうんだって」
「しーっ! 魔女なんて言っちゃだめだ。〈森の花嫁〉と呼ばなけりゃ怒るんだよ。〈森の花嫁〉は耳がいいんだ。今も聞いているかもしれないよ!」
神隠しにあって気が触れた猟師小屋の娘は、その後、〈森の花嫁〉と美称される魔女となって、髪を振り乱した年老いた狂女の姿で今も森をさまよい続け、森に迷い込んだ子供を獣の仔に変えて連れていったり、村でお産があると産屋のまわりをうろついて赤ん坊を攫ったりすると言われ、母親たちは、その名前を、よく、子供を脅すための作り話に使っているのです。
チェナも、小さいころはその話を信じていましたが、少し大きくなってから、生まれてすぐに産屋から〈森の花嫁〉に攫われたとされる赤ん坊が、実は死産だったり、あるいはわけあって産声も上げぬうちに始末されたりした悲しい子供たちであるらしいということに、うすうす感づきました。が、それに気づいたことは、黙っていました。大人の世界には、悲し過ぎてそのままの形で口に出してはならないこと、おとぎ話の形でしか子供たちに語れないことがあるのを、チェナは、もう、知っていたのです。
その他にも、大人は、子供に知られると都合の悪いことはすぐにこの森の魔女のせいにするので、小さい子たちは、〈森の花嫁〉を、たいへん恐れていました。
ところが、男の人は、心外そうに、こう言い出しました。
「〈森の花嫁〉は、子供を取って喰ったりはしないよ。〈森の花嫁〉はね、夫君である〈森の王〉が森を見回って集めてくる親をなくした獣の赤ん坊たちを、みんな分け隔てなく自分の乳で育てている、そういう、やさしい女なんだ。子供が好きなんだよ。だから、もし君たちが森で迷子になっていたら、狼に襲われないようにこっそり守ってくれるだろうし、君たちが夜になっても帰れなければ、その時は仔鹿や仔兎に変えるかもしれないが、それも君たちのためを思ってのことさ。かわいそうな迷子が夜になって凍え死んだり崖から落ちたり獣に喰われるのを見るに忍びないから、〈森の王〉に見咎められないように獣の仔に変えて連れて帰って、他の養い子と混ぜて面倒を見てくれるんだ」
「おじさん、なんでそんなこと知ってるの? 〈森の花嫁〉と、会ったこと、あるの?」
「ああ、前に来た時にね。夕焼け雲のような髪とハシバミ色の瞳をした、とてもきれいなひとだったよ」
「ざんばら髪で牙を生やした鬼ばばあじゃないの?」
「それは、君たちを怖がらせるための作り話だろう。……少なくとも、ここではね」
言われてみれば、たしかに、村の男たちが冬場の副業として昔から作り続け、湖畔の保養地の土産物屋に卸している木彫りの〈森の花嫁〉像は、髪の長い、美しい女の人の像でした。
では、母親たちは、〈森の花嫁〉について、子供たちには自分が知っているのとは違うふうに語り聞かせ続けてきたのでしょうか。
だとしたら、それは、もしかすると一部は嫉妬からなのではないかと、チェナはふと思いました。延々と繰り返す日常の堅固な円環を断ち切り、誰もがそこから逃れられないはずの辛く哀しい現実のすべてを身勝手に振り捨て、脱ぎ捨てて、ここでないどこかへ、永遠の異界へと飛び立ってゆき、いつまでも若く美しい姿のままで今も村の男たちの心に生きている、猟師小屋の娘への。
きっと、だから彼女は、女たちに魔女と呼ばれるのです。
子供たちは、初めて聞く新しい情報にとまどいながら、顔を見合わせました。
「でも、鬼ばばあじゃなくたって、仔鹿に変えられるのはやっぱり嫌だよ」
「だって、人間には戻れなくて、そのまま鹿や兎になっちゃうんでしょう?」
「それに、森で迷って夜になると、〈森の花嫁〉に会わなくても、〈森の王〉に、木に変えられてしまうよ。もうすぐ満月だもの!」
緑の衣を纏い、蔦の冠を頂いた〈森の王〉は、緑の葉の生い茂るねじれた木の杖を持っていて、満月の夜には、森を見回りながら、その杖で森中の木を一本一本指し示して数を数えるのだといわれています。
人間が木を切り過ぎたりして、森の木の数が〈森の王〉の心づもりの数より減っていると、朝が来るまで森中を歩き回って、何度でも木を数え直し続けるというのです。
だから、樵は、木を一度にたくさん切り過ぎないように気をつけるし、木を切った後に苗木を植えたりもします。けれど、苗木はすぐには育たないので、森の木の数は、やっぱりいつも減り過ぎていて、だから〈森の王〉は、満月の夜ごとに、一晩中、木を数え続けます。
そんな夜にうっかり森に紛れ込んでしまった人間は、何度数えても木の数が正しく合わないので心が混乱して気が触れたようになってしまった〈森の王〉に、木と見間違えられて、緑の杖で数えられてしまうのです。
〈森の王〉の緑の杖には不思議な力があって、その杖で指し示され、木として数えられてしまった人間は、たちまち本当に木になってしまい、そのまま、永遠に、森から出られないのでした。
そうならないために、特別の事情があって、満月の夜や、また、大事をとって昼間であっても満月の前後に森に入る時には、『これから私たち何人が、かくかくしかじかの正当な理由で森に入ります』ということを、あらかじめ、〈森の王〉に申告しておけば良いのですが、その申告にあたってはちょっとした祈りの儀式が必要で、子供たちはまだ、誰もその正確な作法を知りませんでした。
けれど、男の人は、笑って請け合いました。
「大丈夫。君たちが行きも帰りも道に迷わないよう、猟師小屋まで、木の幹に、ずっと目印をつけておくよ」
「目印なんかつけたら、大人に見つかっちゃう」と、賢いシーリンが心配すると、男の人は、
「いいや、私の目印は、子供にしか見えないんだ」と、なんでもなさそうに答えました。
男の人は、自分の姿も子供にしか見えないのだと言いました。
つまり、こうして一緒にいるところをもし村の大人に見られていても、その相手に彼の姿は見えておらず、彼がここにいることや、これから森に行くことを、村の大人は誰も知らないのだと。
男の人は、自分のことは大人には絶対に内緒だといいました。
「どうして内緒なの?」と リドが尋ねると、男の人は、にやっと笑って言いました。
「ばかだなあ。内緒にしとかなきゃ、秘密で森に来られないじゃないか。秘密じゃなくちゃ、おもしろくないだろ? だから、いいかい、私が森にいることは、絶対に、私と君たちだけの秘密だよ」
それから子供たちは、男の人に促されて、振り返り、振り返り、しぶしぶ家路につきました。
チェナも、何度も振り向きました。
黒々と静まる森を背にして村はずれの草地にすらりと佇む背の高い男の人は、晩い秋の金色の夕映えを一身に集めて、眩く光り輝いていました。真紅の衣装の全身に金の光を纏わりつかせて、鮮やかにほほえんでいました。
チェナは、この不思議な光景を、きっと一生忘れないだろうと思いました。
今回で第一章『不思議な旅人』が終わり、次回から第二章『奇跡の日々』に入ります。