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1.不思議な旅人(5)

 けれど、その人は、リドの言葉を聞いて、チェナに軽蔑の目を向けたりはしませんでした。

 なんだ、そんな娘ならいじめられてても放っておこう、などと思った様子は、全くありませんでした。

 男の人は、急に厳しい顔をつくり、腰に手を当てて、リドをじろりと見下ろしました。

「ほーお、じゃあ、私は、君がまだおねしょをしてるねしょんべんたれだからって、君のことをいじめてもいいのかな?」

「ぼっ、ぼくが今朝おねしょをしたの、なんで知ってるのさ!」

 リドが真っ赤になって叫ぶと、その人は、しかめつらを崩して笑いだしました。

「あはは、なんだ、ほんとにねしょんべんたれか。ただ、あてずっぽうで言ってみただけなんだが。まあ、気にするなよ、おねしょはそのうち必ず直るからさ。君はまだ小さいんだから、しょうがないさ」

「ぼくは小さくなんかないよ! もう七つなんだ。生まれるのが、あと、たった十日早ければ、本当はもう、今ごろ学校に行ってるとこだったんだよ!」と、リドは真っ赤になったまま男の人を睨みましたが、突然現れたその人が、あんまり不思議で、風変わりで、謎めいているので、それが気になって、もう怒っているどころではなくなり、

「……おじさん、誰?」と、つい尋ねてしまいました。

 男の人は、少し考えて答えました。

「名前は、いくつもある。ここでは、そうだな、エルドローイがいいだろう」


 エルドローイ!

 チェナはうっとりしました。

 なんてきれいな、格調高い、立派な名前でしょう。

 聞いたことのない名前だけれど、ありえないような変な名前というわけでもなく、村ではちょっと誰もつけないようなしゃれた名前だというだけで、格式ある家柄の立派な人たちや、上品で教養ある都会の知識人たちならば、きっと、こんな、古風で典雅な美しい名前を持っていたりするのでしょう。もしかすると、チェナも、旅の語り部の語るいにしえの英雄たちの物語の中で、そんな名前を聞いたことがあったかもしれません。


「ねえ、おじさん、道化師?」

 ちびのマイカが、期待を込めて、急き込むように尋ねました。


 小さな子たちは、こうして何のためらいもなく『おじさん』と呼ぶけれど、その人は、チェナから見れば、おじさんというほどの齢ではないように思われました。

 たしかに見ようによってはずいぶん齢をとっているようにも見えて、年齢はよくわからないのだけれど、一方で、ずいぶん若くも見え、もしかするとまだ二十歳はたちくらいかもしれないという感じさえして、チェナはこの人を『おじさん』と呼ぶ気には、とうていなれません。

 かといって、『お兄さん』というのも気安過ぎてどこかそぐわない気がするし、名前を呼ぶのも、なぜかなんとなく憚られる気がして、チェナは、ただ黙っていることしかできませんでした。


 小さなマイカの質問に、男の人が、からかうように片方の眉を上げ、

「さあ、どうかな」と答えると、子供たちは、いっせいに声を張り上げました。

「道化師に決まってるよ、だって、道化の服を着てるんだもの!」

「そのヘンテコな服は、絶対、道化の服だよね!」


 男の人は、笑って言いました。

「君たちが言っているのは、私が何なのか、じゃなくて、私の服が何の服かということじゃないか。道化の服を着ているからといって、私が道化とは限らないよ」


 子供たちは、言われたことの意味がわからなくて、きょとんとしました。

 が、どうやらこの人は自分は道化ではないと言っているらしいと判断したやせっぽちのシーリンが――この子は、たった六歳なりになかなか考え深い、落ち着いた性質の少女でした――、みんなを代表して尋ねました。

「じゃあ、なんで、そんな服を着ているの?」


 男の人は、何でもないことのように答えました。

「着たいからさ。私はこの服が好きだから、これを着ているんだよ」


 着たいから、その服を着る! 自分の好きな服を着る!

 それは、子供たちにとって、想像したこともないような目新しい考え方でした。

 子供たちはびっくりして、いっせいに、自分が着ている、色あせて継ぎの当たった、茶色や灰色などのくすんだ色合いの服を見下ろしました。

 もちろん、みんな、別にその服が好きだから着ているわけではないのでした。

 だからといって、特に嫌いだというわけでもありません。村では大人も子供もみんな、いつもこういう服を着ているのが当たり前だから、小さな子供たちは、自分がその服を好きかどうかなんて、考えてみることも出来なかったのです。


 とはいえ、それは小さな子供たちのことで、チェナのように少し大きくなりかけた、それも女の子ともなれば、きれいな服に憧れたことがないわけではありません。

 たとえば、前に村に来た旅芸人一座の小さな舞姫が着ていた白いひらひらのドレスに、村中の女の子がそろって憧れたことがあります。でも、自分が本当にそれを着ることができるとは、誰も思いませんでした。だって、その子は旅芸人の娘で踊り子だけれど、自分たちは、そうではないのですから。


 そういえば、あたしたちはなぜみんなこういう服を着ているんだろう、と、チェナは考えました。

 別に、貧乏だからこれしか着られないというわけでもありません。

 たとえば、リドの家は大きな農場なので他の子供たちの家より裕福でしたが、でも、リドは、ただ他の子の服のように擦り切れたり色あせたり継ぎが当ったりしていなくて、たぶんちょっと上等の布で出来ているというだけの、やっぱり同じような、茶色っぽい普通の服を着ています。

 そういう普通の服の他に、もう少しきれいなよそ行きの服を持っている子もいるけれど、色鮮やかな晴れ着はお祭りの日や町へ行く日に着るもので、普段の日に着るものではないのです。


 そう、きっと、村では誰もが普段はこういうものを着るのがあたりまえだから――、ただ、それだけなのです。

 だったら、チェナだって本当は、着ようと思えば、これとは全然違う服を着ることもできるのでしょうか? ……チェナには想像もつきませんでした。


 チェナがぼんやりとそんなことを考えている間に、賢いシーリンは、男の人に言われたことをよく考えて、自分なりに解釈し、服ではなくそれを着ている人そのものを上から下までじろじろと眺め回してしっかり観察してから、慎重に口を開きました。

「それじゃ、おじさん、軽業師?」

 たしかに、その、俊敏そうに引き締まった細身の身体つきは、道化師というよりは軽業師のようでもありました。

 他の子供たちも負けじと、口々に騒ぎ出しました。

「違うよね、お芝居をする人だよ」

「歌うたいでしょ!?」

「奇術師だよね!」

「きっと、楽士だよ!」


 男の人は、ただ笑っていましたが、チェナには、そのどれもが、その人に似つかわしく思えました。

 その、見たことのないほど美しい優しげな顔立ちや甘やかな眼差し、どこか芝居がかった、ちょっと気取った仕草は、娘たちやおかみさんたちをうっとりさせる旅芝居の二枚目役者にふさわしいし、やわらかでいてよく通る甘く明るい音楽的なテノールは歌うたいの声でしかありえないし、細くて長い器用そうな指は、奇術師のようでもあり、繊細な楽器を扱う楽士のようでもあって……。


「違うよ、楽士じゃないよ。だって、楽器を持ってないもの!」

 そう叫んだリドに、男の人は、いたずらっぽく笑いかけ、

「楽器なら、あるよ。ほら」と、からっぽの右手を肩のあたりでひらりと翻しました。

 すると、そのとたん、それまで何も持っていなかったはずのその手の中に、一本の小さな銀の横笛が現れていました。


 もしかすると、男の人は、後ろの背負い袋から、それを素早く取り出したのかもしれません。

 けれど、もしそうだとしても、それはあまりに素早くて、誰の目にも、まるで空中から笛を取り出したようにしか見えませんでした。


 子供たちは、いっせいにどよめきました。

「奇術だ! やっぱり、奇術師なんだ!」

 男の人は、子供たちの驚きぶりを満足そうに眺めわたすと、騒ぐ子供たちを、芝居がかった仕草で、軽く手で制しました。

 普段ならいったん騒ぎ出したら誰にも抑えられないわんぱくたちが、男の人のたった一度の制止の手振りで、水を打ったように静まりました。

 子供たちは、次なる奇術を期待して、目を皿のようにして男の人に注目したのです。


 が、次に男の人が始めたのは、奇術ではありませんでした。

 男の人はおもむろに姿勢を正して気取って帽子を取り、流れるような典雅な動作で、チェナがこれまで見たこともない宮廷風の大仰な礼をしてみせると、長い睫毛を静かに伏せて、笛を吹き始めたのです。

 静まり返った子供たちの上を流れたのは、それはもう、聞いたことのないほど美しい、憧れに胸が痛くなるような、なぜだか泣きたくなるような、不思議なせつない旋律でした。

 普段は絶対おとなしく音楽を聴いたりしない小さな子供たちでさえ、みじろぎもせずに、その音色に聴きほれました。リドなどは、びっくりして見開いたままの、そのまあるい青い目に、涙さえ浮かべているのでした。


 けれど、その曲は、すぐに終わってしまいました。

 我に返った子供たちが、もう一曲、もっと吹いてよ、と、口々にせがみだすと、男の人は、にっこり笑って、再び笛に口をつけました。

 次に始まったのは、打って変わった陽気な舞曲でした。

 賑やかな、華やかな、お祭りの楽しみそのものの愉快な旋律を聞いているうちに、子供たちはもう、うきうきして、じっとしていられなくなって、たちまちみんな、浮かれて飛びはね、男の人の周りをでたらめに跳ね回り、踊り回り出しました。

 しまいには、そんなことをするほど子供じゃないと思っていたチェナでさえ、おしっこで濡れた背中が気持ち悪いのも、おぶっている妹が重いのも忘れて、思わず一緒に駆け出してしまったのでした。

 

 最後までじっと立っていたチェナが踊りの輪に駆け込むのを見て、男の人は、笛を吹きながら目だけでチェナに――そう、確かに間違いなく、チェナに向かって――、笑いかけてくれました。


 ああ、この人は、道化で、役者で、軽業師で、楽士で奇術師で歌うたいで……、たった一人で、今まで見た中で一番大きな旅芸人の一座をすべて引き連れてきたかのよう!


 楽しい収穫祭はとうに過ぎ去り、冬至の火祭りまではまだ遠い、そんな退屈な季節の、唐突な祝祭の訪れに、子供たちは有頂天になって、不思議な旅人の笛の音に合わせて踊り続けました。

※『イルファーラン物語』の登場人物と同名の人物が登場しますが、この世界とイルファーラン物語の世界は『とっても良く似た別の世界』なので、あの世界の彼とこの世界の彼も、『とってもよく似た別の人』です。

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