1.不思議な旅人(3)
その時、背中に生温かいものが伝わってきました。
運の悪いことに、背中に紐でくくりつけられて寝ていたおしっこたれの小さな妹が、また、おねしょしたのです。
妹のリュリュは、もう二歳の誕生日をとうに過ぎたというのに、大きくなるのは身体ばかりでいまだにおむつが取れず、まだ歩くのも下手、言葉も遅く、甘えん坊で、ひっきりなしにおんぶをせがみ、その上、しょっちゅう、チェナの背中でおもらしをします。
妹がこんなふうだから、チェナは、就職も家の仕事もせずに子守りをしながら遊んでいられるのではありますが、時々、うんざりします。
といって、チェナは、この妹を、放り出すわけにはいきません。
チェナには、もう一人、生まれたばかりの妹がいるのです。
チェナは、何年か前に父を亡くしました。
その後、再婚した母は、歳の離れた異父妹を二人産んだのですが、しばらく前に下の妹を産んでから、ずっと体調が優れず、その上、この、下の妹というのが実に夜泣きのひどい赤ん坊で、寝不足に悩む母は、せめて日中になんとか少しでも横になりたいと言うのです。
そんなわけで、まだまだ手のかかる上の妹は、こうしてチェナが外に連れ出して面倒を見ておくことになったのでした。
「待って、リド。リュリュが、おもらしした。おむつ換えるから、ちょっと待ってて」
あたりまえのように申し出るつもりだったのに、なぜだか哀願の口調になってしまう自分が情けなくて、チェナは、言ったとたんに、もう涙が出そうになりました。
それを見たリドは、残酷そうに瞳を輝かせて叫びました。
「だめだ! チェナは今、檻の中にいるんだから、出られないんだ。目を開けたから、もう一度、最初からだよ!」
そして、唄を、また最初から歌いはじめました。
他の子供たちも、リドの顔色をうかがいながら、追随して歌い出しました。
他の子供たちは、大半がまだ幼くて、リドがやっていることの意味もよくわからないまま、ただ、何でもかんでもリドに言われたとおり、まねをしているだけなのです。
チェナは、しかたなく、そのまま目を閉じてしゃがんでいましたが、背中では目を覚ましたリュリュが泣き出し、濡れたおむつから、チェナの服の背中に、おしっこがじんわりと染みてきました。
早くなんとかしたくて、チェナは必死で、骨の在りかを当てました。骨は今度もまた、リドの手の中にあったのでした。
ところが、まだ心が幼くて自分がどんなにチェナを困らせているかよくわかっていないリドは、まだチェナをいじめる気で、今度もこっそり骨を隣の子に渡して、いじわるく笑って、騒ぐのです。
「外れだ、外れだ! ラドジールが来るぞ! チェナをさらいに来るぞ! チェナはラドジールに喰われるぞ!」
小さな子供たちも、わけもわからず口まねをして、チェナを囃し立てました。
チェナは、途方に暮れて、子供たちを見上げました。
こうして、子供たちの輪の真ん中にしゃがみこんでいると、ぐるりと立ち並ぶ子供たちが、まるで牢獄の鉄格子のように見えて来るのでした。
(あたしは永遠に檻から出られず、ここに閉じ込められて、そのうち、しゃがんだまま、骨になってしまうんだ。背中におしっこが染み込んで、おしっこ臭い骨になるかもしれない……)
そんな空想をすると、ますます自分がかわいそうになってきて、膝に顔をうずめてぎゅっと目を閉じると、閉じた目の端に、涙が一粒、滲んできました。
そうして、ふと、思いました。
魔物に喰われるのは、痛いんだろうか。苦しいんだろうか。
それはもちろん、痛いだろう、苦しいだろう。
でも、自分がなぜ、何のためにここにいるのかもわからずに、こうして意味もなくただ生きているのと、どっちが辛いだろうか――。
こんなふうに、どこへも行けずに、ここにこうしてうずくまっているなら、いっそ、ひと思いに、魔物にさらってもらったほうがましかもしれない。そうすれば、少なくとも、ここからは逃げ出せる――。
そうだ、もしかすると、魔物は、思いがけずやさしいのかもしれない。最初の素早い一咬みで獲物を眠らせ、苦しませることなく喰らいつくすという、ヴェズワルの毒蜘蛛のように。獲物の耳元で死を囁く魔物の声は、もしかするとお砂糖のように甘く、魔物の最初の慈悲深い一咬みは子猫を咥える母猫のように注意深くやさしくて、あたしは痛みを感じる暇もなく安らかな眠りに落ち、そのまま、すっと、この世から消えて、どこにもいなくなれるのかもしれない……。
チェナは、ぼんやりと、魔物の甘い牙を夢見ました。自分が、本当にそれを待っているような気がしました。
その時。
「こらこら、ぼうや、ズルはいけないよ」
突然頭の上に降って来た、よく通る明るいテノールの声に、リドが飛び上がって振り向きました。
チェナも、背中で泣いていた妹も、他の子供たちも、ぎょっとして、いっせいに声のする方を見ました。
すると、いつの間に現れたのか、リドのま後ろに、ひょろりと背の高い、とても奇妙な服を着た若い男の人が立っているのでした。