4.めぐる季節(2)
その時、焚き火の方で歓声が上がりました。
さっき聖劇で使われた張りぼてのドラゴンが、金属板の鱗を取り払われた残骸のような姿で、再び広場に担ぎ込まれてきたのです。
小鳥のようなエルミンカは、焚き火のむこうに他の友達を見つけて、チェナに手を振って駆けて行き、チェナは、ずっと隣で大人しくしていたリュリュの手を引いて、焚き火のそばに戻りました。
〈おさな子〉に斃されたドラゴンは、毎年使われる金属板の鱗を取りはずした後、火祭りの大焚き火に投げこまれます。
これは、ドラゴンの脱皮と、炎による再生を象徴すると言われています。
災厄の象徴であるはずのドラゴンを、なぜわざわざ『再生』させる必要があるのか、よくわからないのですが、とにかく大昔からそういうことになっていて、だから、〈火祭りの大焚き火〉と通称される焚き火の正式の名は、〈再生の火〉というのです。
この火にドラゴンを投げこんだ時の火の粉の舞い上がり具合で翌年の作柄が占われ、また、ドラゴンが燃える炎に願をかけると願いが叶うとも言われて、大人も子供も、しばし無言で首を垂れ、火の粉を上げて燃え盛る巨大な焚き火を前に、それぞれの願いを胸中で唱えます。
チェナは、あの人にもう一度会いたいと願いました。
会えたらどうすると考えていたわけでもなかったけれど、ただ、せめて、もう一目だけでも、会いたかったのです。
その夜、チェナは、あの人の夢を見ました。
夢の中で、美しいあの人は、あの時と同じようにチェナの頭をなでて、
「幸せにおなり」と微笑むと、くるりと背を向けて去ろうとしました。
その後ろ姿に、チェナは、やっとのことで、あの時言えなかったひと言を投げました。
「待って! 行かないで」
エルドローイは振り向いてくれたけれど、チェナは、何も言えませんでした。
ただ、どうしていいかわからなくて、おずおずと手を差し延べました。
エルドローイは、やさしい目をして、けれどきっぱりと首を横に振り、
「君はいい子だ。世界のどこかに、君の居場所がきっとあるよ」と、言い聞かせるように言いました。
チェナが、唇を噛み、涙を堪えながら、黙ってエルドローイを見上げていると、エルドローイは、しょうがないなという風に、ふっと笑いました。
「それじゃあ、約束しよう。君がこれからこの世界のどこかで長い幸せな一生を送り、やがて年老いて、あるいは暖かな部屋で何人もの子供や孫たちの涙に囲まれて、あるいは凍てつく荒野でただ独り、その生涯を終える時、きっと私を呼んでおくれ。その時、私は、もう一度、君に会いに行くよ。
そうしたら、君は、いくつもの愛と悲しみと生きる歓びに彩られた君の人生の長い長い物語を、私に聞かせておくれ。もしも、その時、君がもう、口がきけなくなっていても大丈夫。私は、君の人生の物語を、死の床に横たわる君の乾いた頬に刻まれた皺の一本一本から、胸の上に組まれた皺深い手の儚い温もりから、読みとることができる。だから、必ず、人生の最後の瞬間には、心の中で、私を呼んでおくれ。どの世界の、どこの国にいても、すぐに会いに行くよ」
そうして、もう一度、祝福するように手を伸ばしてチェナの頬にそっと触れ、チェナにやさしく頷きかけました。
「チェナ。君は、物語を失うんじゃない。君は、本当の物語の中に足を踏み出すんだ。君はこれから、君だけの、長い長い物語を生きる。君は物語に――世界でたったひとつの物語になるんだよ。君が織りなす物語を、楽しみにしているよ」
そう言うと、エルドローイの姿は、空に吸い込まれるように、すっと薄れて消えて行きました。
目覚めた時、チェナの頬は、あの時は流せなかった涙で濡れていました。
古い年でも新しい年でもない特別な冬至の一夜が明けると、翌日は、着飾った村人たちが贈り物を携えて互いの家を訪問しあう新年の第一日でした。
町に働きに出たり、よその村にお嫁に行った人たちも大勢帰ってきていて、あちこちで楽しい団欒が盛り上がり、子供たちは、訪ねたり訪ねられたりした親類や近所の大人たちから小さなおもちゃやお菓子を両手に持ちきれないほどもらっては、後でそれを自分の寝台の上に全部広げて目を輝かせて検分し、兄弟姉妹で見せびらかし合ったり取りかえっこをしたり、時には奪い合って喧嘩したりして、大騒ぎして楽しむのです。
チェナもリュリュも、まだお乳しかのめない下の赤ん坊でさえ、両手一杯、お菓子をもらいました。
けれど、チェナには、もうひとつ、妹たちとは違う特別の贈り物がもたらされました。
それをもたらしたのは、去年、近くの町の大きな薬問屋にお嫁に行った親戚のお姉さんでした。
チェナを小さいころからかわいがってくれていたこの人が、新年で里帰りしていて、チェナの家を祝賀の客として訪れ、新年の挨拶と贈り物の交換の後で、こう言ったのです。
店で手伝いの子供を探している、町で探せばいくらでも見つかるだろうが、小さい時からよく知っているチェナに来てほしい、と。
条件も良く、親戚のところだから安心だと、親たちも喜びました。
チェナがためらっていると、すっかり垢抜けて堂々たる商家の若奥様になったお姉さんは、
「すぐじゃなくていいのよ」と、やさしく微笑みました。
「でも、あたし、のろまだし……」と、チェナが下をむくと、彼女は、
「わかってるわ。あなたはたしかに、他の子より仕事を覚えるのに時間がかかるかもしれないけど、でもね、ひとつの仕事をまじめにこつこつ続ければ、そのうち必ず覚えられるわ。ちょっとくらい要領が悪くても、何かをするのに人より時間がかかっても、根気があって辛抱強くて、心根が素直でやさしいのが一番よ。あなたみたいにね」と言って、夢の中であの人がしたように、そっと手を伸ばしてチェナの頬に触れ、温かく微笑みました。
その微笑みが、チェナを勇気づけてくれました。
それに、チェナは、こんな自分でも、これまでのように何かしている最中にうっかり人に見えないものを見て気を取られてしまうことがなくなった分だけ、これからは、今までほどしょっちゅうぼんやりしてしまわずに済むのではないかという気がしていたところでした。
チェナは、心を決めました。
チェナには、自分がどこへ行きたいのか、何をしたいのか、そもそも、何かしたいことがあるのかさえ、あいかわらず全然わかりませんでした。
けれど、それを探すために、とりあえずどこかへ行って何かをしてみてもいいかという気には、なれました。
人生の終わりの時に、あの美しい人に誇れるような自分の物語を、チェナは、これから一生かけて探しに行こうと思いました。
あの人のことを考えると、チェナの胸は、やっぱりまた鈍く痛んだけれど、その痛みにはどこか不思議な甘さもあって、チェナは、自分がこの淡い痛みをこれからずっと宝物のように大切に胸の奥深くに抱いて生きて行くのだということを、もう知っているような気がしました。
その後、〈雪の月〉、〈氷の月〉と続く長い冬の間に、母の体調も戻り、下の赤ん坊の夜泣きの回数も減り、やがて、凍て付く空に薄青い光ばかりが溢れる〈青の光月〉が過ぎるころには、あれほど幼かったリュリュも急にしっかりして手がかからなくなり、雪解け水が野を走る〈水の月〉の初めに、チェナは、迎えの馬車に揺られて村を出ました。
こうして、チェナの子供時代は終わりました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
このお話には、『葬送の浜辺』という姉妹編のようなお話がありまして、年明け頃から、そちらも連載予定ですので、またお付き合いいただけるとうれしいです。