3.〈夢見乙女〉の伝説(4)
子供たちは驚いて、小さな悲鳴を上げました。
エルドローイは、表情を消して、静かに問いました。
「チェナ。私と来ると、もう二度と、この村へは帰れなくなるんだよ。お父さんやお母さんにも、ここにいる子供たちとも、二度と会えないんだ。それでも来るかい? 本当にいいのかい?」
そんなの全然平気だと、チェナは思いました。本当に、何とも思わなかったのです。そんなことは、たいした問題ではないような気がしました。村は退屈でみすぼらしく、この村で過ごした幼い日々の思い出――父が生きていたころの幸せな思い出の数々さえ、今となっては急に色あせて見え、生まれ育った村も、家族も、今はただ、脱ぎ捨てるべき古い服のように思えました。
どうせ自分は、このままここにいても別に何の役に立つでも誰に必要とされるでもないのだから、それならどこへでも自分の行きたいところに行っていいだろうと、チェナは思いました。たとえ、それが、この世の外へであっても。
取るに足らないチェナ一人がこのままこの世から消えたからといって、この村は、昨日までと何も変わりやしないし、世界はこのまま、何も変わらず続いていくでしょう――。
村に、家族に、特に不満が有るわけではありませんでした。
新しい父を、チェナは別に嫌いではありません。亡き父のように完璧ではないけれど、普通の、気のいい人です。継父のほうも、不器用ながらチェナに親愛の情を示そうと一生懸命になってくれて、最初の頃など、何とかチェナの歓心を買おうと、無理をして高価な砂糖菓子をみやげに買ってきてくれたことさえありました。
妹たちが生まれてからは、彼は幼い我が娘たちに夢中で、いまひとつ馴染まないだけで特に反抗するわけでもない無口なチェナに対してはほとんど関心を失ってしまったように見えるけれど、それを悪く言う気も、別にありません。すでに父親に甘えるような年でなくなってから突然成り行きで父娘になったチェナより、自分の作った家庭の中に自分の血を引いて生まれてきた幼い赤ん坊の方がかわいいのは、自然な、あたりまえのことだと思います。だからといってチェナを邪魔にするわけでもなく、時々思い出したようにチェナに気を遣ってくれたりする彼は、本当に、なかなか良い人なのです。
母のことは、もちろん、大きくなった今では照れくさくて言えないけれど、本当は大好きです。幼い頃に母のひざで遊んだこと、母の胸に顔を埋めて甘えたことなどを思い出すと、涙が出そうになることさえあります。
彼女が勝手に再婚を決めた時は、しばらく口をきかなかったこともありました。父の残した家で父の生前と変わらない暮らしを母と二人で送っていれば、まるで、父が本当はまだ生きていて、ただちょっと出かけているだけのように思っていられるはずだったのに、亡き父とは比べ物にならないようなつまらない男との再婚によって、チェナのそんな気持ちを台なしにしてしまった母が、心のどこかで許せなかったのです。でも、今では、母の再婚も仕方のないことだったと思っています。
新しい家族も、悪くはありませんでした。
妹たちだって、かわいいと思います。
下の赤ん坊はまだ猿のようでうるさく泣くばかりだし、リュリュは甘ったれのわがままのだだっこの泣き虫のおしっこたれで、チェナを甘く見て、全然言うことなんか聞きやしないけれど、それでも、乳臭い赤ん坊が歯のない口をもごもごさせて何か呟きながら小さな手足をぎこちなくばたつかせたり、甘ったれのリュリュが小さな桃色のぴとぴとした手で首に抱きついてきたりすれば、どうしたって、かわいく思わずにいられません。
でも、それだけのことです。
別に、嫌いとか憎いとかいうことはないし、喧嘩したわけでも、つらく当たられたわけでもなく、それなりに楽しく過ごしたひとときもなかったではないけれど、それだけのことで、別に、この先会えなくなったって、どうってことはない気がします。
自分がいなくなった後もあの人たちにはなるべく幸せに暮らして欲しいとは思いますが、そんなに心配はいらないでしょう。
母も継父も、それはもちろん悲しんでくれるでしょうが、継父はもともと、最近ではチェナのことはほとんど眼中にないし、母だって、もう親の手を離れる年頃のチェナより、まだまだ手のかかる幼い妹たちのほうに余計に心が向いているのは当然だから、いつまでもチェナのことで嘆いてばかりいるわけにもいかず、日々の暮らしの忙しさにまぎれて、すぐに忘れてくれるでしょう――。
そんなことすべてが、今はもう、まるで他人事のように思えました。
これから待っているすばらしい運命に比べたら、これまでのチェナの、この村での、ささいなことで喜んだり悲しんだりして生きてきたありふれた人生のすべてなど、取るに足らないごみくずのようなものに思えました。
「かまいません。連れていって下さい」
小さな声で、けれどきっぱりと、チェナは答えました。
そう言い切れる自分が、とても強くなったような気がしました。
うろたえ騒ぐまわりの子供たちが、みんな、無知でちっぽけな、哀れむべき存在に見えました。
今まで、自分よりずっと幼い、何も知らないこんな子供たちにいじめられて涙ぐんだり、なんとか取り入ろうとして卑屈にご機嫌を取ってみせたりしたことさえあるというのが、すごく馬鹿馬鹿しく思えました。
なんでみんな、こんなみすぼらしい、くすんだ村にしがみつこうとするんだろう。この美しい人が案内する色鮮やかな別世界を一緒に垣間見たというのに、みんなにはなぜ、あの素晴らしさが分からないのだろう――。
気がつくとチェナは、ひっそりと微笑んでいました。
エルドローイは、一瞬、痛ましいような奇妙なまなざしを見せ、それから、
「では、おいで」と、チェナに手を差し出しました。
差し延べられた手に向かって、チェナは足を踏み出しました。
子供たちが、はっと息を呑みました。
けれど、その時、チェナに寄り添って立っていた妹のリュリュが、ふいに、引き止めるようにチェナの手を握ったのです。
「お姉たん、行たないで」
チェナは驚いて、小さな妹を見下ろしました。
何も分からない赤ん坊だと思っていたのに、今までの話をそれなりに理解していたのでしょうか、チェナを見上げるリュリュの瞳には、見捨てられるのを恐れるような必死の色がありました。
チェナは、はっと胸を衝かれました。
チェナはこの妹を、それなりにかわいがって面倒を見てもきましたが、たまにはうんざりしたり、いじわるな気持ちになることもありました。突き放しても突き放してもまとわりつかれると余計にうっとおしくて、意味もなく邪険にしたこともありました。
それなのにリュリュは、こんな目でチェナを見るのです。温かくて湿っぽい小さな手にせいいっぱいの力を込めて、必死にチェナの手を引っ張るのです。
ああ、この子だって、お母さんにもっと甘えたいのに、赤ん坊のせいでそれができなくて、きっと寂しい思いをしているんだ、と、チェナは思いました。
そういえば、このリュリュが、おんぶばかりせがんで自分で歩こうとしなくなり、チェナの背中でしょっちゅうおもらしまでするようになったのは――それは、もとからそうだったのだけれど、それがますますひどくなったのは――、下の赤ん坊が生まれてからではなかったでしょうか。
母が再婚して、この妹が生まれた時、チェナはもう十二にもなっていたのに、やっぱりなんとなく母を取られたようで寂しくて、父母の見ていない隙に、ゆりかごで寝ていたこの子のほっぺたをこっそりつねってみたりしたことがあったのを、チェナは急に思い出しました。
ましてやこの子は、まだこんなに小さいのです。どんなに寂しいことでしょう。
(それなのにあたしは、この子に、あんまりやさしくしてやらなかった。時々、邪険にした。叩いたこともある。それでも、この子は、こんな縋るような目をして、あたしを引き止めてくれる。あたしを必要としてくれる。そう、それは、いつまでもじゃないかもしれないけど、少なくとも、今は、この子には、あたしが必要なんだ――)
チェナは、茫然と立ち止りました。
リュリュの一言が引き金となって、子供たちが、いっせいに騒ぎ出しました。
「そうだよ、チェナ。行かないで」
「行っちゃだめだよ」
「行っちゃ嫌だ!」
口々に言いながら、生意気ヤーシェが、賢いシーリンが、年子の兄弟ティートとトゥッタが、そして弱虫カチヤに小さなマイカまでが、次々と立ち上がって、まるで守ろうとするかのようにチェナの周りにすっと寄り集まりました。
チェナは、動けませんでした。子供たちに取り巻かれたまま、何も言えずに、男の人を見つめて、立ちつくしていました。
突然、子供たちの群れの中からリドが飛び出し、男の人に駆け寄りました。
「チェ、チェナを連れていくなら、ぼくを倒してからにしろっ!」
顔を真っ赤にしてそう叫びながら男の人に飛びかかろうとしたリドの小さな拳は、空中に振り上げられたまま、相手に届きませんでした。
男の人は、突進してくるリドの身体を途中で軽々と押し止めると、荷物のように無造作に顔も見ずに脇へどけ、それから、ふと気を変えた様子でおもむろにリドに向き直って、リドの頭の上に手を伸ばしました。
高い位置から無表情で見下ろされ、上からぬっと大きな掌をかざされたリドは、何をされるかと思わずひるんで、子犬のように逃げ腰になりかけましたが、男の人は、そんなリドを見下ろして、急に目を細めてふわりと笑い、さも可愛くて可愛くてしかたないという風にリドの金色巻き毛をくしゃくしゃと掻き回しただけでした。
そしてそのまま、拍子抜けしてぽかんと口を開けているリドを放っておいて、チェナに目を戻しました。
男の人は、やさしい目でチェナと子供たちを見つめながら、
「そうか……。いいよ。わかった」と呟き、チェナのほうに静かに歩み寄りました。
子供たちは、気圧されたように道を空けました。
チェナの前で立ち止まった男の人は、そっと手を伸ばしてチェナの髪に触れ、言いました。
「君はいい子だ。幸せにおなり」
寂しいようなほっとしたような顔で、それだけ言って、男の人は、いつかのようにチェナの髪をなでてくれました。
そして不思議な旅人は、チェナが何にも言えないうちにくるりと背を向けて、そのまますたすたと、森の奥へ向かって歩き出しました。
小屋の裏手の〈森の王〉の祠の横を無造作に通り過ぎ――、その長い脚で異界との境界を軽々と踏み越えて、旅人は歩み去りました。
その、背の高い後ろ姿が、祠の先を何歩か歩いてふっと消えたというものと、そんなはずはない、見間違いだったんだ、木に隠れただけだというものと、後になって、子供たちの意見は分かれます。
チェナは長いこと、リュリュのやわらかい小さな手の温もりを掌に感じながら、旅人の去った後を、じっと見つめて立ちつくしていました。
子供たちもその回りに身を寄せ合って、長いこと、黙って森を見ていました。
しばらくたって、我に返った子供たちが、誰言うともなく、そろって小屋の中を覗いてみると、小屋は、最初から誰も住んだりしなかったように、すっかり元通りに片付いていました。
男の人は、小屋の備蓄食料にはもともと手をつけていなかったようだし、薪はちょうど使った分だけきれいに補充され、使う前とそっくり同じ形に積み上げられていて、しばらくの間でもそこで人が暮らし、大勢の子供たちが毎日訪れては遊んでいたというのが嘘のように、昨日まであんなに親しげだった小屋からは一切の温もりの気配が消え失せてしんと冷えきり、まるで、昨日までとは違う、別の場所のようでした。
ここで過ごした楽しい日々の、すべてが夢だったのだとでもいうように、子供たちの手には、何ひとつ、残されませんでした。
金の光を纏った旅人は、去ってしまいました。




