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3.〈夢見乙女〉の伝説(2)

 昔々のその昔、こことは違う別の世界で吟遊詩人であったエルドローイは、果てしない放浪の旅路の果てに世界の秘密を探り当て、ついに世界の中心の聖なる森に辿り着いた。

 死すべき人間の手が未だ触れたことのない古い古い伝説の森に、ただひとり、彼は分け入り、月の夜、決して晴れることない神秘の霧の奥深く隠された秘密の湖を、精霊たちの操る見えない小舟で押し渡った。

 湖の真ん中の小島に降り立った彼は、ひとけもなくうち捨てられた白い神殿を見出した。

 壁も天井も半ば崩れ去って廃墟と化した神殿の床には、一面に奇妙な幾何学図形が描き出されて、ちらちらと淡い光を放っていた。

 まるで蜘蛛の巣めいたその紋様は、石の床に刻まれた細い水路だった。

 神殿の中央に、純白の大理石で丸く囲った泉水があって、そこから静かに溢れ続ける清らかな水が、縦横に走る幾筋もの水路をひたひたと潤しながら、あたりに満ちる幽かな月明かりを反射していたのだ。

 あちこちが崩れかけた廃墟の中で、そこだけが時の流れも知らぬげに、泉はこんこんと湧き続けている。


 そんな奇妙な神殿の、泉水の更に中央に、ちょうどその湖の小島を模したかのように、きららかな水晶の棺が、ひっそりと置かれていた。

 棺は、半ば水に漬かる形で泉水の中に安置され、誰の手も触れていないはずなのに塵ひとつ被ることもなく、崩れかけた天井の一角から折しも射し込む月の光に真っ直ぐに照らし出されていたのだ。


 それは、奇妙な、水の祭壇だった。

 きらめく水滴に飾られて水面みなもに浮かぶ水晶の棺は、床に描かれた奇妙な図形の真ん中で、月夜の湖を漂う透明な小舟のようにも、夜露に濡れた蜘蛛の巣に囚われた儚い蝶のようにも見えた。


 さらさらと水は流れ、月影が揺れる。

 水面で揺れる月影に見入っていると、自分が、世界が、ゆらゆらと揺れているような気がしてくる。まるで、ゆりかごに乗っているように、あるいは、母の胎内にいるように。

 そう、やっとたどり着いた、こここそは、まさに、世界のゆりかご、世界の子宮。

 時間になる前の時間とまだ生まれていない者たちの気配を潜めた厳かな静寂が、見えない水のように神殿を満たし、立ちつくす彼を押し包む。


 エルドローイは、踏み石伝いにそっと棺に歩み寄って、傍らの石段に跪き、棺を覗き込んだ。

 月の光を浴びて、まるで水底にいるように、少女が眠っていた。

 世界を産み出す母なる処女、何千年もその場所でひっそりと夢を見続けてきたはずの伝説の乙女は、思いがけない幼な顔の、華奢で小柄な黒髪の少女だった。

 ほんの子供のようにちっぽけで、もしかすると、そう特別に美人ではなかったかもしれない。

 けれど、少女を一目見たその時から、彼は、その場所を、一歩も動けなくなった。眠れる乙女から、一瞬も目を離せなくなった。

 ああ、この乙女の、瞳は何色なのだろう。あえかに紅いその唇から零れるのは、どんな声だろう。目を開けて恋人と見つめ合う時、どんなふうに微笑むのだろう――!


 乙女の、閉ざされたまぶたの下の瞳を、ただ一目見るためになら、死んでもいいと思った。

 ただ一度、その声で名前を呼んでもらえるものなら、ただ一度、微笑みかけてもらえるものなら、世界など、どうなってもいいと思った。


 澄んだ水底に月影が描き出す網目模様が、ゆらゆらと伸び縮みして、水晶の棺の側面にも映りこんでいる。白い壁にも水の反映が躍って、神殿中がゆらめく光で満たされている。

 棺を見つめて動かないエルドローイの横顔にも、光の網目模様がまとわりつく。にえを絡めとる罠のように。

 棺を覗き込んだそ瞬間から、彼は、乙女の棺と同じ一つの蜘蛛の巣に捕らわれたのだ。


 湖の小島に眠る乙女の棺の傍らで、彼は、竪琴をつま弾きながら恋歌を歌った。

 やるせない衝動のままに、物も食べず、眠りもせず、昼も夜も、ひたすら歌い続けた。

 憧れの想いがいっときも止まらずに胸の奥から湧き上っては溢れ続け、熱く切ない恋歌になって喉を流れ出し迸るのを、堰き止めようなどと思うことさえ出来ず、ありえないはずの目覚めを、ありえないと知りつつ乞い希って切々とかき口説き、時に優しく、時に激しく、限りなく甘く、また狂おしく、尽きることなく愛を囁き続けた。


 崩れかけた高い丸天井から、夜は月の光が、昼は日の光が、幾筋もの線を斜めに描いて神殿に射し込み、ゆっくりと移ろいながら、乙女の棺と彼を照らした。

 雨が降り込めば雨に濡れ、明け方には露に濡れ、嵐の日には稲妻にときおり白く照らし出されながら、彼はひたすらに歌い続けた。


 どれだけの時が経ったのか、わからない。

 この不思議な場所では、時間の流れ方が普通とは違うのが当然のような気がしたし、彼自身もまた、自分でも知らぬ間に、普段の彼とは何か少し違うものに――うつつの肉身を半ば離れた、例えば夢の中の自分のようなものになりかけていたのかもしれない。

 月と太陽が、時間と風が、歌い続ける彼の上を営々と通り過ぎた。月の雫と陽のかけら、星の瞬き、雲の影、風と夜露、雨と稲妻、静かなもの、激しいもの、熱いもの、冷たいもの、輝くもの、昏いもの、儚いもの、勁いもの、過ぎて行くもの、そして永遠なるもの――それらすべてが、彼の歌に宿った。


 この世のすべての歌うたい達が羨望する甘く華やかな黄金の声と類稀なる才能に恵まれて音楽の神の愛し子と讃えられてきた彼――世界中の王侯貴族が彼を自分の宮廷に抱えるためなら彼と同じ重さの純金を積むだろうと言われながらも己の内なる詩神だけを己が主と定めて放浪を続け、己の紡ぐ楽の音をより高めるためだけに人生のすべてを捧げてきた彼が、その、世に並ぶものなき黄金の歌声を、初めて己が内なる詩神にではなく、ただ一人の乙女のために全身全霊で捧げ尽くしたその時、歌の翼は高くはばたき、彼の内なる詩神は、彼と一体になった。

 歌っているのは、もう、彼ではなく、彼の内なる詩神そのものだった。

 内なる詩神の声が、そのまま、彼の喉を衝きあげて溢れてくる。

 その時、彼は、何もかも忘れた。

 乙女の姿さえ、視界から消え失せた。

 ただ、己が内から我知らず溢れ出し、見知らぬ高みへとひたすら駆け上がり続ける歌だけで、世界はまるごと満たされた。

 魂のすべてをかけた恋歌は、ついに、死すべき人間には許されないはずだった至高の領域にまではばたき、ふいに、ひとつの壁を超えた。


 そうしてはじめて、溢れ続けて止まらなかった彼の歌は収束に向かい、ひとつの楽曲が完結した。

 伴奏の竪琴の最後の一音が微かに震える祈りとなって見果てぬ高みに消えて行く、その軌跡を見送るように、彼は、茫然と天を仰いで瞑目した。


 やがて我に返った彼が、自分の成し遂げてしまったことにいくぶん慄き、ほとんど怯えながら、おずおずとまぶたを開け、乙女の棺に目を戻した、その時。

 清らかな睫毛が、二度、三度、微かに震えて、乙女は、ふいにぽっかりと目を開けた。


 彼は息をのんだ。

 初めて見るその瞳、焦がれ続けたその瞳は、髪と同じ黒――すべての光を吸い込む宇宙の常闇のような、深々とした漆黒だった。


 彼の恋歌は、眠れる乙女の夢の奥底深く何重にも封印されて隠されていた彼女自身の魂を揺るがし、ついに、乙女を目覚めさせてしまったのだ。

 それは、これまで、どこの世界の誰にもできなかった、できるはずのなかったことだった。

 力づくで棺を叩き割り、無理やり抱え起こしたり身体を揺さぶったりして乙女を起こそうとしたものはいたが、それらの粗暴な試みは、世界を滅ぼすことはできても、乙女を目覚めさせることはなかった。

 歌で、言葉で呼びかけて、乙女を起こしてしまったのは、後にも先にも彼だけだ。


 夜の湖のような乙女の瞳に、彼が映った。

 ふたりは一瞬、見つめ合い、乙女のあえかな唇が、小さく開きながら、何か言おうとしたように見えた。


 エルドローイ、と……、乙女が自分の名を呼んでくれようとしたのだと、彼は、そのとき、とっさにそう信じ込んだけれど、後になって思うと、愛しいひとの唇を漏れかけた最初で最後のその一言は、『さようなら』だったのかもしれない。今となっては、あの時の乙女の唇の動きを思い出そうとしてみても、あまりに長いこと、繰り返し繰り返し、その光景を心に思い描き続け過ぎたので、本当のことは、もう、思い出せない。

 いずれにしても、乙女の声は彼の耳には届かず、そして乙女は、その、たった一言を、言い終えることができなかった。

 唇を開きながら、同時に乙女は、その細く白い手をおぼつかなげに持ち上げ、彼も思わず、棺に向かって手を差し延べていた。ぎこちなく差し延べられたふたりの指先が、水晶の壁を隔てて触れ合った瞬間、乙女は、光の屑になった。同時に、棺は砕け、世界は光の渦となり、また、闇となった。

 そうして、そこに生きていたものたちの誰ひとり気づくいとまもないままに、ぷっつりとすべてが途切れ、途絶えて、ひとつの世界が、かき消えた。


 けれど、彼は消えなかった。

 気がつくと彼は、荒涼たる死の星の地表に立っていた。

 その、生きているものの気配もない石くれだらけの荒野には、数えきれない透明の棺だけが、延々と、整然と、並べられていた。

 どの棺の中にも、一人づつ、乙女が横たわっていたが、彼の足下の棺は空で、ただ、いくばくかの細かい塵のようなものが、棺を満たす液体の中を頼りなく漂っているだけだった。

 その塵も、見たと思う間に、螢のようにふっと消えていった。


 空には、色の違う二つの月が遠くかかり、見たこともないほど大きく鮮明な無数の星が、見たことのない星座の形に並んで、瞬くこともなく、凍りついたように冴え冴えと輝き渡っていた。

 暑くも寒くもなかった。空気がないのはわかったが、なぜか、苦しくはなかった。


 そこで、彼は、大いなる声を聞いた。

 彼は死を願ったが、『声』は、それを許さなかった。

「生きよ。生きて、愛せよ。永遠に」と、『声』は言った。

「それが、おまえに与えられた罰だ」と。


 そして彼は、今のようなものになった。


 夢見乙女は不老不死だが、夢の中の誰かに無理やり起こされたり、夢の中で、たまたま自分が眠っていることに気づいて自ら目覚めてしまったりすると、その瞬間、もともとの寿命に応じて死ぬ。

 あるいは、空から降って来た星のかけらが当たって棺が割れたり、棺の中の環境を維持する装置が、どうしても確率をゼロにはできない偶然の事故で壊れたりして、眠ったまま死んでゆくこともある。

 いずれにしても、乙女が死ぬと、その乙女の創っていた世界が、一瞬にして消える。

 彼が、彼の世界と一緒に消えなかったのは、罰だ。

 なぜなら、その世界の夢見乙女を起こして世界を消したのは、彼だったから。

 ひとつの世界を滅ぼした、その償いのために、彼は、新たに夢見乙女となるべき子供を探索し、この星へ連れてくるという役割を負った。


 それ以来、彼は、ただ一人、時を超え、世界を超えて、さすらっている。

 彼は、世界から世界へとさまよう、永遠の旅人となったのだ。

 彼に見出された子供らは、みな、彼に連れられて、いくつもの大地を遠く旅して回る。

 夢見乙女の星は、この地上のどこでもないところにあるし、別のどの世界でもないところにあるから、この地上のどこからも、別のどの世界からも同じように遠く、そこへ行くには、どの世界のどこからも、いくつもの世界を果てしなく経巡って、あてもなく旅をしなければならない。夢見乙女の星には、あてもなくさすらうことでしか近づけないのだ。

 けれどやがて時が至れば、どんな道順を辿ったかにかかわりなく、彼らは夢見乙女の星に辿り着き、少女たちは、大いなる声に召されて永遠の眠りにつく。

 そして彼は、また、次の子供を求めて旅立つのだ――。

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