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2.奇跡の日々(6)

 男の人は、物語を語ったり笛を吹いたりしている時は別として、ほとんどいつも笑っていました。

 けれど、その表情は、一刻一刻、くるくると変わるのでした。

 楽しそうな笑顔、やんちゃな笑顔、澄ました笑顔に気さくな笑顔、温かい笑顔にからかうような笑顔、いじわるな笑顔に、勇気づけるような笑顔――。

 笑顔に、こんなにいろんな種類があるなんて、チェナは思っても見ませんでした。


 そんなふうに、男の人は、いつでもにこにこ笑っていたのだけれど、チェナは、彼がときどき、チェナだけに、とっておきの、特別な笑顔を向けてくれるような気がしていました。

 子供たちみんなと話したり遊んだりしている最中に、少し離れて黙って見ているチェナとふと目が合ったりすると、男の人は必ず、チェナに向かって、とびきり親しげな、とびきり甘い、うっとりするような極上の笑みを、すばやく投げかけてくれるのです。

 もしかすると、本当は男の人は、子供たちのうちのだれとでも、たまたま目が合えばその都度その一人一人にいちいちにっこりして見せてやっているのかもしれず、だから、他の子もみんな、チェナのように、彼が時々自分だけに笑いかけてくれると思っているのかもしれません。

 けれど、いったんはそう思い直してみても、男の人にもう一度笑いかけられると、チェナは、また、やっぱりこの人は自分だけに特別に笑いかけてくれるんだと思わずにいられませんでした。

 男の人がチェナに微笑んでくれるのは、たまたま目が合った時に限らず、他の子より大人に近いチェナが男の人の物語の中で他の子が理解しなかったことを一人だけ理解した時や、また、時々他の子に見えないものが見えるチェナが何か特別なものを見てしまった時のこともあったのです。

 そういう時、彼は、チェナが黙っていても、なぜかそのことを見てとって、『そう、君にはわかったんだね』、『今のが見えたんだね』という、仲間同士の秘密の合図のような、親しげで意味ありげな微笑みを送ってくれ、チェナは、彼が自分を他の子より少しよけいに仲間扱いしてくれているのを間違いなく感じて、身体が内側からぽっと温かくなるような気がするのでした。


 不思議な男の人は、子供たちにいろんな奇術を見せてくれましたが、本当にそれが全部奇術だったのかは、わかりません。むしろ、そうでないと思うのが自然な気がしました。


 ある寒い日には、こんなこともありました。

 暖炉に火を入れようとした男の人が、ほんとうに何気なく、あたりまえのことをするような調子で掌を上に向けたかと思うと、その手の上に、ぽっと、小さな炎の玉が生まれたのです。

 ちょうど、ろうそくの炎がろうそくを離れて、炎だけになってそこに浮いているみたいでした。

 それは一瞬のできごとで、子供たちが、びっくりして、ただもうぽかんと口を開けているあいだに、男の人は、ごく普通に暖炉の前に膝をつき、掌の炎を焚き付けの枯れ葉に向けてふいっと放つと、後はまた普通に火箸で火をかき立てて立ち上がりました。

 そして、子供たちが驚きのあまり口もきけずにまじまじと自分を見ているのに気づいて、一瞬、あれっ、という顔をしました。

 それから、ああそうか、という顔になって、言い訳するように言いました。

「おっと、ここの人たちは、こういうことはしないんだったね。うっかりしてたよ」


 その一言で子供たちは我に返り、口々に騒ぎ出しました。

「おじさん、今の、奇術?」

「魔法だよね! おじさん、ほんとは魔法使いだったんだ!」

「ばか、魔法なんてあるもんか! 何か仕掛けがあるんだよ」

「違うよ! 絶対、魔法だよ! そうだよね?」


 子供たちに詰め寄られた男の人は、しまったなあというような苦笑を浮かべて、宥めるように答えました。

「魔法といえば魔法だが、と言っても、君たちが思ってるような特別なものじゃないんだよ。こことは違うあるところでは、別に魔法使いでなくても、誰もが、このくらいのちょっとした魔法を使うんだ」

「うそだい、そんなばかな話、あるもんか!」と、生意気屋のヤーシェが叫ぶと、男の人は、しかたなさそうに肩をすくめて答えました。

「本当だよ。私は、前に、そこにもいたことがあるんだ。そこがこことあんまりよく似た世界だから、ここではみんな魔法を使わないのを、うっかり忘れてしまったのさ」

 それまで黙って聞いていたシーリンが、考え深いまなざしをひたと男の人に据えて、

「その、『あるところ』って、どこ?」と、鋭く追求しました。

「別の世界だよ。ここと、とってもよく似た。……よく似てるというか、ほとんどここと変わらないな。でも、別の世界なんだ。そう、そことこことは、ちょうど、同じ一枚の地図の上にそれぞれちょっとだけ違う色や模様のついた薄紙を重ねたようなものだ。同じ地図だから、地形も地名も同じだけれど、その上で営まれる人々の暮らしや歴史という薄紙のほうがほんのちょっとだけ違っていて、重ねて見るとやっぱり別のものなんだ」

「『別の世界』って何?」

「こないだ、見せてやったろう? ここでない、いろんな世界を、いくつも。ああいうのが別の世界さ。別の世界の中には、ここととってもよく似ていてほとんど区別がつかないようなところも、全然違うところもある。世界は、ひとつではないんだ」


 男の人とシーリンのやりとりがさっぱり理解できないので、しびれをきらしたやんちゃ坊主のトゥッタが、ふたりの間に割ってはいって叫びました。

「おじさん、今の魔法、もう一度、見せてよ!」

 男の人は、首を横に振りました。

「だめだよ。もうおしまい」

 子供たちがいっせいに不満の声をあげると、男の人は、肩をすくめて言いました。

「魔法だのなんだの、今のはみんな嘘だよ。あたりまえだろ? あれは、ちょっとした奇術さ。仕掛けがいるから、一度しかできないんだ。もう材料がないんだよ」


 子供たちが、

「なあんだ……」と口を尖らせると、男の人は笑って言いました。

「まあ、まあ、そんなにがっかりするなよ。今日は奇術はもうおしまいだけど、かわりに、とってもすごい魔法使いが出てくる、魔法がいっぱいのお話をしてあげよう」


 子供たちは、たちまち歓声をあげて、暖炉の前に腰を下ろした男の人の回りに思い思いに座り込みました。

 そんな時、子供たちはよく、男の人の膝に上がり込んだり、足もとに寄りかかったりして纏わり付きます。

 気紛れで残酷で、チェナが時には怖いとさえ思い、心ならずもへつらってみせたことさえある子供たちも、そうしてみれば、みな幼く無邪気で、ようするに、まだ、ちびすけなのでした。

 なまいきでいじわるなリドでさえ、こうしてぽかんと口を開け、目を輝かせてお話に聞き入る様は、バラ色のまるいほっぺたなんぞ、ぽちゃぽちゃふわふわとして甘いお菓子のようで、いかにも幼い子供なのです。

 あたりまえだ、なんといってもまだたったの七歳なんだから……と、チェナは思わず微笑みました。


 男の人のお話はいつものようにおもしろく、その声は音楽のように美しく、暖炉の燃える部屋は暖かく心地よく、チェナは、この時がいつまでも続けばいいと思いました。

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