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2.奇跡の日々(5)

 それから寝台は、ありとあらゆる世界を飛び回りました。

 ダイヤモンドを砕いたように鋭く輝く細かい雪がちりちりと音を立てて舞い、空には巨大な光のカーテンが揺れる極寒の地を。

 見渡すかぎりの緑の平原や、雪を頂く山の上を。

 そして、どこまでも続く無人の荒野に広がる、いつの時代のどの国のものともわからない巨大な建造物の崩れかけた廃墟の上を。――それは、あまりに大きいので、まるで人間のではなく巨人たちの都市の遺跡のようでした。


 それから、また、今度は遺跡ではなく、ちゃんと人間が住んでいる奇妙な大都市の上空も、寝台は訪れました。

 そこには、イルベッザの石造りの塔に似た、けれど、もっと大きくて高くて、鏡のように滑らかな表面が七色に輝く四角い塔が立ち並び、見たことのない甲虫のような乗り物がすべるように行き交い、大地のすべてが灰色の継ぎ目のない石畳で覆われているのでした。

 どうやら、世界がひとつではなかっただけではなく、文明もまた、ひとつではなかったのです。

 その町はまだ、本の挿絵で見たイルベッザの塔を連想させたし、また、チェナたちと似たような姿の人々が、色鮮やかではあるけれどよく見ればだいたい同じような造りの服を着て歩き回っているのも小さく見下ろせたけれど、その後、寝台が経巡った異国の町並みの中には、もっと奇妙な、チェナの知っている町や村とは少しも似たところがなくて、まったく想像することもできなかったようなものが、いくつもあったのでした。


 そして寝台は、どんどん空高く上がり出し、雲を突き抜けて、そのまま太陽に向かうかと思われ、あまりのまぶしさに閉じた目をやっと開けると、今度は、果てしない夜空の真ん中に、ぽつんと浮んでいたのでした。

 目が痛くなるような漆黒の闇の中に、幾千の星々が、瞬くことなく冷たく輝いていました。

「あれが君たちの星だよ」と、男の人に指さされて寝台の下のほうを見下ろすと、青と緑に輝く巨大な半球が、眼下に広がっていました。

 その、緑と青の織りなす模様のほんの一部が教科書で見た『世界地図』にそっくりなことにチェナが気づいた時には、もう、その青い宝石のような星はどんどん小さくなってゆくところで、すぐに見えなくなりました。


 あたりは一面の夜空でした。

 どこまでも続く、その夜空を、巨大な銀の箱船――子供たちが知っている船とは全然違う形だけれど、あれは『船』だよと、男の人が言ったのです――が音もなく渡っていくのを、子供たちは見ました。

 その後は、また、いつまでも、どこまでも、闇。

 別に寒くはないのに、なんだか、凍えそうな気がしました。


 突然、弱虫カチヤが叫びました。

「もう帰る! 帰ろうよ!」


 それは、子供たちみんなの気持ちでした。

 あまりにも暗く広大な夜空の中で、子供たちは、自分の心が闇の中に溶け出して消えてしまうような気がしたのでした。


 カチヤが叫んだとたん、寝台は、一瞬ぐらりと揺れ、子供たちはあわてて互いにしがみつきあいました。

 揺れはすぐに止まって、おそるおそる目を開けると、そこは、チェナたちの村の上空でした。

 初めに空からそこを見た時は、ただただ驚きでいっぱいで、自分たちの村がどんなふうかなどと考えもしなかったけれど、こうして再び見下ろすと、自分の生まれ育った――そして、ついさっきまで世界のすべてのように思っていたその村が、あまりに小さく、あまりにみすぼらしく、あまりに取るに足らなくて、チェナはなぜだか、ふいに胸が詰まりました。


 寝台は、猟師小屋の屋根に向かって、しずしずと降りてゆきました。

 上から見ると、小屋の屋根は破れてなどいなくて、もとのままだったのに、寝台が、突然、すとん、と急降下したかと思うと、そこはもう、なぜか部屋の中で、天井を見上げても、穴など、ありませんでした。


 それから、部屋の中に低く浮かんだ寝台はそっと、静かに、床に降り立ちました。

 不思議な空の旅は終わりました。


 そういえば、空を飛んでいる間、寝台は、わざと身を乗り出しさえしなければ別に誰も落ちそうにならないほど大きくなっていたような気がするのに、床に降り立ったとたん、また、元通り、全員が乗るとはみ出すくらいの小さな寝台に戻っていて、実際、たちまち何人かが床に転がり落ちました。

 落ちた子供たちは大笑いしてそのまま床に寝ころがり、落ちなかった子供たちも真似してわざと転げ落ち、そろって床に寝そべって、大冒険の興奮が冷めやらぬままに、ひとしきり笑い続けました。


 チェナだけが、寝台に座り込んだまま、茫然と涙ぐんでいました。

 チェナの村は、チェナが生きてきた世界は、こんなに小さくって、チェナの星は、あんなに広い広い、果て知れぬ闇の中に、たった一滴の青い雨粒のように頼りなく、ぽつんと浮かんでいたのです――。


 あれは幻だったのでしょうか。それとも本当のことだったのでしょうか。

 この日以来、チェナは、ずっと、心のどこかでそのことを考え続けたけれど、ずいぶん後になって、すっかり大人になってからも、答は出ませんでした。 


 その後、子供たちは、何度も空の冒険旅行をせがんだけれど、男の人は、

「あれは一回きりだよ」と、あっさり言って、二度とは連れていってくれませんでした。

 猟師小屋の寝台は、それから、子供たちが揃って乗り込んでも、その上で飛びはねてみても、ずっと、ただの寝台のままで、いくら命令しても嘆願しても、もう、空を飛んではくれませんでした。


 けれど、また別の日に、男の人は、大きなハンカチを広げて奇術を見せてくれました。

 気取った手つきでふわりと広げたハンカチの中から、いきなり、見たことのないほど大きな色鮮やかな蝶の群れがわっとばかりに飛び出して、青や緑の不思議な光沢をまき散らしながら狭い部屋の中に満ちあふれ、ひらひらと、きらきらと乱舞する様は夢のように美しく、子供たちは歓声をあげて、蝶をつかまえようと手を伸ばし、部屋中を走り回りはじめました。


 ひとしきり部屋の中を飛び回った蝶の群れは、やがて、男の人が広げているハンカチに向かって、いっせいに、吸い寄せられるように戻り始めました。

 その、ハンカチの中に、チェナは、あの、空の冒険旅行で訪れた不思議な密林を見た気がして、思わず声を上げました。

 まるで、その四角い布は空中に突然現れた魔法の窓で、窓を開けたらそこがあの密林だったとでもいうように、広げたハンカチの奥に、たしかに密林の光景が広がっていたのです。

 あの時嗅いだのと同じ、むせ返るような緑の匂い、熟れ過ぎた果実の腐る匂い、そして、むっとする湿気と熱気が、襲いかかるように部屋の中になだれ込んできました。


 子供たちは、蝶を追うのに夢中で、差しのべた手の先の一匹の蝶の他には何も目に入らず、蝶たちが密林の奥に吸い込まれるように帰っていくのを追って、そのまま一緒に、幻の密林へと駆け込んで行きました。

 最後の一人が茂みの奥に消えると、男の人は、再び、さっとハンカチを振りました。

 すると、ハンカチの中の密林は消え失せ、子供たちはもう、どこにもいませんでした。

 何もかも忘れて夢中で蝶々を追いかけるほど幼くなかったチェナだけが、小屋の中に、ぽつんとひとり、取り残されていました。

 男の人はチェナにむかって芝居っ気たっぷりに笑いかけ、もったいぶった気障な仕草で一礼すると、何の変哲もない布きれに戻ったハンカチを何気なく畳んで、あたりまえのように、どこか懐の辺りに仕舞いこんでしまいました。


「みんなはどこへ行ったの!?」

 チェナがあわてて尋ねると、男の人は澄まして答えました。

「遠いところへ。あの子らが、こないだからどうしてももう一度あのジャングルへ行きたいと、あんまりせがむから、行かせてやったんだ。みんな、あそこで、夢の蝶々と楽しく遊んでいるよ。今のところはね。まあ、そのうち、豹か何かと出くわすかもしれないが」


 ヒョウというのが何か、チェナは知りませんでしたが、男の人の口調と表情から、何か危険なものであるらしいのはわかりました。

 チェナは思わず男の人に駆け寄り、胸元に――のつもりでしたが、男の人はすごく背が高かったので、実際にはおなかの辺に――詰め寄って叫びました。

「みんなを返して!」

 男の人は、縋りつくチェナを見下ろし、口の端を吊り上げて、にやっと笑いました。

「君は、あの子たちにいじめられてたんじゃないのかい?」

「そ、そうだけど……、でも、返して!」


 それを聞くと、男の人は、くつくつと笑いながら、再びどこからともなく取り出したハンカチを、さっと広げました。

 一瞬、熱く湿った密林の匂いがして、翻ったハンカチが男の人の手の中に戻った時には、小屋の床に、子供たちが茫然と座っていました。

 子供たちは、皆、何が起こったか全然わからないという顔で、不思議そうにきょろきょろしているのでした。

 チェナは思わず子供たちに駆け寄り、一番手近にいたリドを、物も言えずに抱きしめました。

 リドはびっくりして、

「なっ、なにすんだよっ!」と叫びましたが、チェナの腕を振り払おうとはしませんでした。

 ただ、赤くなって口を尖らせ、腕の中でそっぽを向いただけでした。

 男の人は、それを見て、静かに笑っていました。

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