ある男の狂気〜あるいは狂喜〜
※注意
未完です。
本編のネタバレ及び謎解明のヒントとなるお話です。
それでもいい、という方のみご覧下さい。
・・・・・・ちょー恥ずかしいですね。
セレブを護送するSPのごとく、ミーのバイト先から家への送迎をしたキムは、器用に身体を折り畳んで一息ついていた。
ミーも向かい側に座り、なんともなしに黙っていた時だ。
「……ミー、今日…スる?」
キムが紡いだまっすぐな言葉に、一瞬ミーは首を傾げて、意味を理解すると顔を赤くし、小さく首肯する。
これを告げる度に返ってくる同じ反応に、
(本当にかわいいなぁ)
とキムは思った。
今日行うと、今週に入って三回目になる。
キムは床に座ると、足を立て、手でミーを招いた。
恥じらいながらも、抵抗せず大人しくミーはキムのそばにやってくる。
足を開き、その間をポンポンと叩けば、意を汲んだミーが背中を向けて座る。
すぐに閉じ込めるように腕を回し、キムは右のテールを出した。
密着した体勢に、これも毎度身体を強張らせるミーにクスリと笑いをもらしながら、キムはテールでミーの前に差し出した右腕の前腕を浅く切る。
3㎝程の赤い線が生まれ、数秒するとじわじわと滲み出す。
と、ミーのまとっていた匂いが、人間のそれからヘキサのものへと変化した。
残念に思うとともに、常に自制心を刺激する甘さが薄れた事にキムはホッとしつつ、
「……じゃあ、召し上がれ」
まるで食事を提供する料理人のようにそう言った。
「……いただきます」
律儀に手を合わせたミーは、両手でキムの腕をそっと支え、躊躇いなく血の滲んだ傷口に口をつけた。
温く湿った感触に、キムは思わず息をつめる。
心に広がるのは甘い歓喜と快感だ。
左手でミーの頭を抱き、自分の頭をミーの肩に乗せる。
緊張しそうになる身体から、力を抜こうと努める。
ミーの柔らかな唇が傷口を這い、時折血を吸い上げ、垂れるそれを舌が舐めとる。
肌から伝わる官能的な感触に、彼女の人間の香りがもたらすモノとは異なる欲を覚えるのだ。
そんな自分を自覚しつつ、キムはミーに伝わる事がないように細心の注意を払う。
ミーがキムに怯え、逃げ出すような事だけは避けなければ。
危機感のないミーは、過度なスキンシップを気にする素振りは見せないけれど、少しでも欲を含んで見つめるだけで、ひどく怯えてしまうのだ。
彼女に血を提供するきっかけとなった事件の際、数回そうさせてしまった経験から、キムはミーに対する自身の態度に非常に気をつけていた。
(……あぁ、でも)
と、キムは静かに嘆息する。
抗えないほどに、惹きつけられてしまうのだ。
否、抗う気などない、ともすればミーの意思さえ無視して縛りつけたくなるほどに。
艶かしく動いた舌の感触に、わずかに身体を跳ねさせたキムは、目を閉じて回想する。
あの日に起こった本当の出来事を。
彼女が知らない、空白の時間をーーーー。
事件の起きたあの夜。
彼女を極上の獲物として狙っているヘキサアイズと話し合いたいと言ってきた愛しくも愚かなミーに、キムは絶対に守ると決意してついていった。
キムの特殊能力は、とにかく鋭い嗅覚、そしてその匂いに対する分析能力だ。
普通の人間なら一種類にしか感じられない匂いでも、ミーなら個体別に識別できたり、時間の経過具合や、その物質の状態まで推測できたりする。
さらに、ヘキサになった時点で強化された能力のさらに強化版なため、その範囲はかなり広い。
嗅覚に関しては、キムはへたな動物よりすごいと言えるだろう。
それを自覚していたキムは、だからこそ、ミーを守れると自負していた。
たとえ不届きなヘキサアイズーーリリがミーを襲おうとも、事前に防げる自信があったのだ。
リリと一度対面した際に、その特殊能力が嗅覚ではない事は判明している。
よって、リリの索敵範囲外からキムが二人の様子を探る事が可能な距離に潜み、キムはじっと見守っていた。
そこまではよかったのだ。
大切なミーが、敵だとはっきり分かっているリリの近くにいると思うだけで心配であり、むやみに触れるリリに純粋に殺意が湧く。
だだし、殺気に気づかれてはいけないため、必死に押し殺して様子を窺っていたのだが……。
キムがいたのは、樹々に囲まれた公園とそばの道路とを区切る草むらで、その背後にはまだ夜浅い時間帯ゆえか、そこそこの交通量があった。
歩道にもまばらに人影があるが、それを暗闇のなかでは定かではない。
ヘキサであるキムには認識できるが、普通の人間にとって光源と呼べるものは、行き交う車のランプくらいだった。
「ハルちゃん、危ないからお母さんとちゃんと手つないで」
「は〜い!」
若い女性の声が、キムの左斜め後方から聞こえてくる。
それに応えたのは幼い元気な声で、どうやら母子が歩道を通っているらしかった。
キムの耳はそれを捉えているものの、まだその意識はミー達の方に向けられている。
「ねーおかーさん、おとーさん、今日はやく帰ってくるかなー?」
「どうかなぁ。遅くなるって聞いてないけど…。ハルちゃん、もう暗いから、もうちょっと小さい声で話そうね」
「うんー!」
母子の会話がキムの真後ろを通り過ぎ、
「はい、ここ渡るよー。ちゃんと右見てー、左見てー、大丈夫ですか?」
「だいじょーぶです!」
「じゃあゆっくり渡りましょう。お母さん、ルカちゃんもいるから、ハルちゃん先に行ってて」
「わかったー!」
どうやら向こう側へ渡ろうとしたらしいーーーーその時だ。
「ーー待ってハルちゃん!車来るよ!止まってハルちゃん!あぁ、ルカちゃんをどうしたら…!ハルちゃん待って!!!」
あまりにも切羽詰まった悲鳴に、キムは思わず振り返った。
闇を見通すその瞳に映ったのは、こちら側の歩道で今にもベビーカーを放り出して走り出そうとしている女性。
その視線の先には横断歩道のストライプが数m伸び、向こう側の歩道からわずかに離れた位置に、小さい人影。
そして、その人影に猛スピードで向かってくる一台の車。
横断歩道のすぐ横はT字路になっている。
母子はちゃんと安全確認をしていたが、そこからいきなり飛び出して来たのだろう。
子供が歩道に着くには距離が遠く、母親であろう女性が助けるにはもっと遠く、車のスピードは子供の歩くそれよりも、圧倒的に早い。
状況は、絶望的だった。
あと数秒で、凄惨で残酷な事件が起こってしまうのは、誰の目にも明らかだった。
キムの体は、彼が意識するよりも早く動き出していた。
ヘキサアイズの身体能力は、人間の数倍、特殊能力なら数十倍にもなる。
元々ゆったりした口調に見合わず俊敏に活動できたキムの足は、母親よりも早く子供のもとへ辿り着き、寸前で抱き上げて歩道へ転がり込んだ。
そのわずか数秒後を、爆音を立てて車が走り去っていった。
体を起こし、咄嗟に抱き込んだ子供の様子を窺う。
「………………」
こぼれそうなほどに目を見開いたまま、かっちりと固まっていた。
ケガがなかった事に安堵して、キムはいつの間にか詰めていた息を吐く。
「ハルちゃん!ハルちゃん大丈夫!?すみません、あなたも大丈夫ですか!?」
涙声で、慌てて母親が走ってくる。
キムは子供を抱っこしたまま立ち上がり、母親に近づいた。
両手を伸ばしてきたので子供を渡し、何度も頭を下げてくる母親に、大丈夫の意味を込めて首を横に振る。
向こう側に置いてきた子供の事を指摘すれば、母親はハッと顔を青くして、また横断歩道を駆けていった。
キムはヘキサのスピードで母親に気づかれないように元の草むらへと戻る。
数秒、様子を窺っていれば、子供は火がついたように泣き出し、母親はキムの事を探すようにしばし周囲を見渡していたが、やがて子供をあやしながらどこかへ行った。
図らずも一人の子供の命を救ったキムだったが、ふと、自分の紫の瞳を見られただろう事に思いあたる。
ヘキサアイズの存在は、基本的に徹底守秘であり、それに関する規約も存在する。
故意に破った訳ではないが、灰原への報告が必要かもしれないな、と考えたキムの鼻が、ある特徴的な香りを捉えた。
(蕩けるような甘さ……ミーの、血!?)
瞬時に駆け出そうとしたキムは、その足をすぐに止める事になる。
「う、ぐぅ……あ、あぁぁ…………」
呻きながら身体を二つに折り、口を手で抑えて必死に耐える。
湧き出し口内を満たす唾液をゴクリと飲み干せば、急速に引きずり出された欲を自覚する。
(食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい…………甘い)
あらゆる思考を塗りつぶし、食欲が脳を染め上げる。
キムを、ヘキサアイズを狂わせる、極上の獲物の香りだ。
ミーに決して知られてはいけない、見せてはならない、キムの姿がそこにある。
ーーヘキサアイズは、実のところ人間が主食なわけではない。
普通の人間の食べ物だけで、死ぬまで生きていく事は可能だ。
しかし、人間を美味に感じるのもまた事実であり、一度食べてしまえば、麻薬と同じで一生食べる事がやめられない。
故に、純血ヘキサアイズも感染ヘキサアイズも、できる限り人間を食べないようにしていたりする現状がある。
しかし、キムを含めミー以外の誘拐された五人は、実験の一貫で人間を食べさせられてしまっていた。
そのようなヘキサアイズには、《協会》が経営する血液バンクなどから血液を配給され、なんとか禁断症状を抑えているのだ。
禁断症状は麻薬と同じか、あるいはそれ以上の危険さがある。
一度甘美な味を覚えてしまうと、脳の報酬系がそれを求め、さらに元々人間を食糧だと認識する本能を刺激して、所構わず〈狩り〉を行い、獲物を貪り始めるのだ。
キムの今の状況は、その禁断症状と同じだった。
本来、血の匂いを嗅いだだけで、禁断症状が起こるはずがない。
しかし、本人も知らないミーの特異点は、その部分において異常だったのだ。
そもそも、ヘキサであるミーが人間瞳時に『人間』の香りがする事が普通ではない。
しかも、その香りだけでかなりの自制心を要求するほど、ミーの匂いはキムを惹きつけていた。
鋼鉄レベルの自制心で、日々ミーへの食欲と闘っていたキムに、禁断症状を起こさせるほどの匂い。
"極上"と評する意味は、そこにあるのだ。
キムの視界には、ミーの腕に顔を寄せるリリの姿が見えていた。
つまり、ミーは出血している。
捕食されかけている。
助けなければ、そう考える事すらできないほど、キムの思考は血の香りに支配されていた。
ーーと、不意に力が抜け、キムは思わずその場に膝をつく。
頭を染めていた強烈な食欲が消えている事に気づいた。
冷や汗をびっしょり流し、荒く息をつきながらも、キムは状況を把握しようと、ミーの方へ視線を向ける。
先ほどとは異なり、ミーの黒いテールがリリの両手とテールを捕らえていた。
どうやらミーがヘキサに変化した事で、"極上"の匂いが途絶えたらしい。
そのミーの青く光る眼が、冷たい色をしているのを見て、安心するとともに、キムは情けなさにぎりっ、と拳を握る。
絶対守ると宣言したくせに、人を助けるためとは言え目を離し、その間にミーにケガをさせ、あまつさえその血の匂いに食欲を覚えて動けなくなるなど、本末転倒にも程がある。
あの瞬間だけなら、リリよりもキムの方が遥かに危険だった可能性が高い。
わずかに震える身体を叱咤し、起き上がってミーの下へ歩き出そうとする。
その時、
「アタシ、ミーちゃんのそーいう呑気なとこ、大っ嫌い!!!」
そう叫んだかと思と、リリは自身のテールをミーに向かって振り下ろそうとした。
キムは瞠目する。
「っミー……!!!」
叫んだつもりだった声は、直前の禁断症状のせいか掠れてほとんど音にならなかった。
縋るように手を伸ばした遥か先で、ミーは悲しそうにそっと目を伏せる。
ーー刹那。
切り裂かれたのは、オレンジ色のリリのテール。
慄くように悲鳴を上げたリリが繰り出した左足も、黒いテールがあっけなく切り落とす。
噴き出す血がミーに降りかかり、顔を紅く染めた彼女の口が、妖艶な笑みを描く。
ぞくり、と腰に痺れが走る感覚に、キムは動揺した。
あんなミーの表情など、見た事がない。
眉をひそめ、それでも緩慢に足を踏み出して、二人のもとへ行こうとした。
片脚を失って倒れたリリにつられるように、ミーが膝をつく。
その瞬間、手をつき上体を起こしたリリが、ミーの左腕に噛みついた。
遠目に見ても、歯が肉を突き破っているとわかるほど深く、強く。
それにミーは絶叫し、リリはミーの両手を振り切って、必死に逃げようと這いずる。
「ミー……!!」
今度こそ飛び出した声と共に、キムはフラつきながらもミーのそばに駆けた。
よろめいた背中を寸前に支え、顔を覗き込めば、目を閉じている。
痛みで気絶したのか、とキムは咄嗟に考えた。
しかし、その瞼はすぐに開かれた。
青光の瞳と紫光の瞳が、数秒、じっと見つめ合う。
大丈夫か、と問おうとしたキムは、突然襲った衝撃に、公園の端までぶっとばされた。
ほとんど直線に飛び、公園を囲む樹木に背中から衝突したせいで、肺から空気が押し出されて、一瞬息が止まる。
地面に落ち、激しく咳き込みながら、必死に息を整えようとする。
うまく現状が理解できないまま、キムはミーの安否を気にして周囲を見渡した。
そしてーーーー彼は見たのだ。
圧倒的な捕食者の姿を。
それは、目にしたキムが、思わず自分の視力と常識を疑う光景だった。
一人の少女が、立っている。
見慣れた後ろ姿、服装、キムの大切な存在。
先程リリに捕食されかけた、ミー。
彼女の腰から、黒いテールが八本伸びていた。
一本は、リリの口の中に。
二本はリリの両手を片方ずつ拘束し。
二本はリリの背中の腰に。
おそらく尾孔に差し込まれている。
一本はリリの残った右足を固定し。
残った二本は先端を薄く鋭く尖らせ、切り裂ける状態で、宙に待機している。
テールに拘束されている事で、宙づりになっているリリは必死にもがいているが、ほとんど身動きはできていない。
口にテールが入っているためか、声をあげることもままならず、生理的にか恐怖にか、涙を流しながら、ミーを睨みつけていた。
そのミーはというと、冷たい青く光る眼でリリを見つめ、何事かをリリに言う。
と、リリは驚愕したように瞠目し、より激しくもがき始める。
それにミーは薄く笑った。
普段の彼女からは想像もつかない、思わずキムがひやりとする程の、酷薄な笑顔。
(あれはミー、なのか……?)
ふとそんな疑問が浮かんだ。
それほどまでに、キムの知るミーからかけ離れた表情をしている。
キムがうずくまって動けないまま、事態は進んでいく。
ミーの姿をキムは横面から見ていた。
その腹が裂けた……ように、彼には思えた。
目を見張り、よくよく見てみると、服を切り裂いて、何か牙のような物がズラリと並んでいる。
それはわずかに開閉し、どこかサメの口を連想させるような。
それを正面から見てしまっただろうリリは、半狂乱に首を振り、ボロボロと泣き続けている。
そんなリリの様子を全く気にかけていない素振りで、ミーは刃の形に変形させたテールを、軽く振った。
と、リリの残っていた右脚が根元から切り落とされ、また大量の血が零れだす。
その断面にあいていたテールの一本を覆うようにかぶせて、血を受け止める。
落とされた脚は、もともと拘束していたテールに持ち上げられて、ミーの腹へと近づいていく。
(ーーまさか)
キムの脳裏に、ありえない考えがよぎった。
それを否定する思考も同時に覚えたが、彼の予想は当たってしまう。
リリの女性らしい細い脚ーーそれも靴を履いたまま、服もついたままのーーが、ミーの腹に飲み込まれていく。
あの並んだ牙が途中で開閉し、肉を裂き、骨を砕き、脚を咀嚼しながら、体内に取り込んでいく。
ーー捕食だ。
喰らっている。
他に表しようがないほど、キムの精神に突き刺さる光景だった。
横から見えるあの牙の列と、おそらくそれが取り囲む捕食器官、そんな何かがミーの腹にはあるのだろう。
口を連想させたのではなく、あれは『口』そのものなのだ。
衝撃的なそれに目が釘付けになる。
まるまる一本、片脚が消えていった。
不意に気になってミーの顔を見たキムは。
(ーーっ!!!…………あぁ)
湧き上がって胸を詰まらせる感情に、甘いため息を吐いた。
獲物を捉える様は、正に狩人。
それを貪り食らう様は、正に獣。
血に濡れたくちびるが描く笑みは、正に魔性。
そしてーーーー今、キムの腕に口をつけ、恥じらいに顔を赤らめるその様は、正に乙女。
自身を平凡で頼りないと時折こぼすミーだが、こんなにも異なる表情を見せる彼女が平凡であるはずがない、とキムは誇らしげに思う。
週に数回行うため、ミーが血を摂取する量は少ない。
つまり、それはこうしている時間はわずかという事であり、キムは一瞬でも惜しいと、ミーの髪に触れる。
優しく頭頂からうなじへと辿り、しなやかな感触を楽しむ。
自身の頭をミーの肩に埋め、鼻先を首に擦り付けるのも好きだ。
そうすると、ミーはくすぐったいのか、恥ずかしいのか、身をよじり肌をほんのり染めるけども、血を飲む事はやめはしない。
それがキムの行為を受け入れてくれる証のように思えて、非常に気分が高揚する。