3.地下にようこそ。
町の喧騒から遠のいた路地裏。
その入り組んだ道を、ヴァネッサは迷うことなく歩いていく。
着いたのは、酒場の看板の掛かっている建物だった。
酒場の中に入ると、ゴロツキのような男たちの視線が突き刺さる。
マーティンたちはフードを深く被っているので、この二人組は何だと訝しがられているのだろう。
どうして伯爵が下町の酒場にやってきたのかとマーティンは思ったが、ヴァネッサは椅子に座ることなくカウンターの給仕に声をかけた。
二言ぐらい話すと、給仕は奥の扉を開けてヴァネッサを案内する。
「おいで」
と、振り返る紫の胡蝶蘭に誘われるがまま、マーティンはその後について行く。
正直この時点で嫌な予感はしていたのだ。
それは扉の先にあった階段を降りるたびに、ひしひしと追いすがってくる。
これ以上降りたら、マーティンの大切な何かが壊れてしまうのではないかと。取り返しがつかなくなってしまうのではないかと。見てはいけないものを目にして、自分は耐えられるのだろうかと。
そんな不安に足取りが重くなるが、時折向けられる紫の胡蝶蘭からは逃れられなかった。
「さて、着いたわね」
地下に降りると、そこには重たそうな扉があった。扉の前にゴロツキのような二人が扉を守るように立っている。
ヴァネッサはその男たちに招待状のようなものを見せると、おもむろにフードを取った。
濡羽色の髪が宙に舞うが、男たちはただ眉をひそめただけだった。
「さて、行くわよ」
ヴァネッサが再び振り返る。
その顔には、クロアゲハのような目元を隠す仮面をつけていた。
マーティンも目元に白い仮面をつけている。それはさながら蚕の成虫のようで、人間に飼われないと生きていけないことを示しているようでもあった。
「――ここは?」
仮面の下で、マーティンは目を丸くする。
男たちが開いた扉の向こうに広がっていたのは、想像していたよりも衝撃的な光景だった。
地下だとは思えないほど明かりの灯された室内には、多くの人の声が行きかっている。
「もしかして、違法賭博場?」
マーティンの声は震えていた。
この国では人身売買もそうだけど、特別に許可されている場所以外での賭博は禁止されている。もしこんなところに出入りしているのがバレれば、貴族といえども法の裁きからは逃れられないだろう。後ろ指さされるだけならまだしも、貴族として相応しくないと貴族籍を剥奪されてもおかしくはない。
実際、マーティンはありもしない噂のせいで公爵家を勘当されるところだったのだ。証拠がなかったため不問となっていたが、噂だけでもひとつの貴族を貶めることは可能だ。今回は借金のこともあり、公爵家にとって分が悪かった。
じり、とマーティンは後ずさる。
ここにいるのが見つかれば、噂が本当になってしまう。
ヴァネッサにも迷惑をかけてしまうし、それだけは避けたかった。
怯えるマーティンをよそに、クロアゲハが楽しそうな笑みを浮かべる。
その笑みを見て、マーティンは成金令嬢のとある噂を思い出していた。
叔父夫婦を家から追い出したスパングル伯爵家は、それから数年もたたないうちに瞬く間に財を築き上げていった。そのほとんどが投資による利益だったのだが、陰でこんな噂も流れていた。
――違法に金銭を稼いでいるのではないか。
もしそれが本当だったとすれば。
酒場や扉の前で、彼女が自然に振舞っていた理由に理解が追い付いてしまう。
まさかそんなことがあっていいものかと思いたいが、マーティンはヴァネッサと会話を交わすのは先日が初めてだ。彼女のことをよく知っているわけではない。
ヴァネッサは並ぶ卓を眺めながら、ゆっくりと歩いている。
そんな彼女にちらっと視線を向ける者がいるが、ほとんどが目の前の卓と、高く積まれたチップにしか興味を示していない。そしてディーラーも含めてすべての人が仮面で顔を隠している。
「あなたは、ザカリー・ヘイズについて、どう思っているの?」
ヴァネッサが、給仕からワインを受け取りながら問いかけてきた。給仕は白くのっぺりとした顔全体を覆う仮面をつけている。
銀のおぼんに乗ったワインが、マーティンの前にも出される。誘われるようにそれを手に取ると、給仕は満足したように去って行った。
マーティンはグラスに口をつけることなく、そっと周囲を見渡す。
地下にはディーラの声や客の声。ルーレットなどのゲーム音。それから会場中に流れている緩やかな音楽のせいで、この会話は他人に聞かれる心配はなさそうだった。
ヴァネッサが口にしたのは、マーティンに借金を負わせた友人の名前だった。
彼はなぜかマーティン名義で借金をしていた。理由は分からない。不名誉が上乗せされた理由も。
「いまも、友人だと思っているのかしら?」
「……もちろんだよ」
「裏切られたのに」
言葉に詰まる。
確かに名義を勝手に使って借金を作っていたことは事実だった。
だが、それは裏切りに値するのだろうか。
もし本当にお金に困っていたのなら……ちゃんと言ってくれれば、マーティンは気にせずにお金を貸していただろう。
「ザカリーは、優しい人なんだ」
マーティンの言葉に、ヴァネッサが眉をひそめる。
ザカリーと話すようになったのは、数年前――救貧院からの帰り道だった。
マーティンは寄付だけではなく、救貧院や孤児院をたまに訪問していた。寄付するだけなら誰にでもできるが、たまにそれをいいことに私腹を肥やす人がいるので、定期的に視察をすることにしている。こういうところがやりすぎだから体面を考えろと父から言われていた理由なのかもしれない。
救貧院からの帰り道、馬車に乗ろうとしたところ、近くで子供が石に躓いて転んだ。
すかさず近寄って助け起こそうとすると、なぜか前方にもうひとつ大きな影ができた。
顔を上げると、同世代の貴族の子息が、マーティンと同じように子供を支えようと手を伸ばした。お互いに目を丸くしてから、ハハッと笑いを洩らす。
子供は膝を軽く擦りむいただけで、他は問題なさそうだった。
頭を下げて去っていく子供に手を振ると、マーティンとザカリーは名乗ってから挨拶をした。
それが、友人としての第一歩だった。
ザカリーはそれぐらい優しい性格の持ち主だったはずだ。
社交界で陰口を言われているマーティンのことをかばってくれたこともあるし、一緒に街に出たときに、強盗に遭いそうになったときに助けてもらったこともある。
だから今回のことは、きっと何か理由があってのことだと、マーティンは思っていた。
「――つまり、あなたは、ザカリー・ヘイズのことを恨んではいないのね」
「恨むわけないよ。ザカリーには色々助けてもらったのだから」
「……ほんと、お人好しなんだから」
どこか呆れたような、でも嬉しそうにヴァネッサが微笑む。
紫の胡蝶蘭は、ひとつの卓に視線を向けていた。
品定めをするような視線に、つい問いかけてしまう。
「ゲームをするのかい?」
「ここは賭博場よ。ゲームがあるのなら、楽しまないと。……まあ、私たちが楽しむのはただのゲームではないのだけれど」
違法賭博場に来ただけでも問題なのに、ゲームに手を出してしまえば、もう後には引けなくなる。
クロアゲハの隙間から覗く紫の胡蝶蘭が見つめる先に視線をさまよわせると、大きな音を立てて卓を叩く男の姿があった。
「どうなってるんだ! イカサマなんじゃないのかっ。イカサマだろ!」
ルーレットの卓だった。
ルーレットにイカサマも何もないと思うけれど、こういう地下の賭博場ではどうなっているかは分からない。
積まれていたチップが音を立てて崩れて、ディーラーが目元だけを覆う白い仮面の下の笑みを貼り付かせたまま言う。
「チップを回収します」
淡々とした声だが、どこか冷たさを孕んでいる。
ガシガシと頭をかいた男が、獅子の仮面をメガネのように片手で抑えると、それからイライラした声で「黒だ」といった。
ディーラーがホイールを回す。
ボールがくるくる回り、落ちたポケットは「赤」だった。
「くそっ。さっきから負け続きだ。なんでだ。二分の一なのに。やっぱり、操作してるんだろ。そうに決まってるっ!」
正確にいうと緑があるので二分の一ではないのだが、単独の番号にかけたりするよりも当たる確率は高いはずだ。それなのに、この男は負け続けているらしい。イカサマを疑いたくなるのも無理はないだろう。
それにしても、マーティンはどこかで聞いたことのある声に首を傾げた。
「いまから、面白いものを見せてあげるわ」
その様子をつまらなそうに見ていたヴァネッサが、一度も口をつけていないワイングラスを持ったまままた歩き出す。
獅子仮面の男はまだディーラーに文句を言っている。そろそろ追い出されたりしないのだろうかとマーティンは気にかかったが、ディーラーもたいして気にしていないようだった。
ヴァネッサが獅子の男の後ろを通り過ぎようとしたとき、何かに躓いたのか、上半身が横に倒れそうになり慌てて男の座っている椅子の背もたれに両手をついた。
彼女の手から離れたワイングラスが、男の頭に乗っかり、なかのワインが彼の髪や仮面を汚していく。
「おい、何なんだ、おまえ! 弁償だ!」
「あら、失礼しました。お怪我はありませんか? よろしければこちらをお使いください」
ヴァネッサが、取り出した白いハンカチで獅子の男の髪を拭こうとする。
その腕を掴んで阻止した男が、ハンカチを奪うようにして自分の髪を拭き、それから獅子の仮面を脱いでその下を――。
「ざ、ざかっ――」
名前を呼びそうになり、慌てて手で口を押さえる。
獅子の仮面の下から出てきたのは、友人であるザカリー・ヘイズの顔だった。
だから声に覚えがあったのだ。
マーティンの声に反応したザカリーが視線を向けてくるが、それを遮るようにしてヴァネッサが立った。
「申し訳ございませんでした、獅子様」
「謝罪じゃなくって、誠意を見せろ。俺のことを誰だと思ってるんだ?」
「……私たちには仮面があります。それなのに、あなた様の名前を聞くだなんて恐れ多いですわ」
しおらしいヴァネッサの言葉に、ザカリーの声色が明るくなる。機嫌がよくなったようだ。
「どこの誰だか知らないが、初めて見る顔だな。気に入った。俺の家名を知ったら、おまえみたいな小娘は震えあがるぞ。なんたって俺は、ディーヴィス公爵家の次男なんだからな」
「まあ、あの公爵家の!?」
わざとらしいヴァネッサの声を聞きながらも、マーティンは先程から衝撃に次ぐ衝撃を受けていた。
「公子様は、よくこちらにいらっしゃるのですか?」
「ああ。すべてのゲームのルールを知っているぞ。必勝法もな。知りたいのなら、教えてやってもいいが……」
「まあ、嬉しいですわ。実は私、ここに来たのが初めてなんです。友人から招待状を貰いまして。……でも、実際に来てみたらわからないゲームが多く、どうしたらいいのか迷っていたのです。……あ、でも」
「どうかしたのか?」
「その、本当に公爵家の方なのか、確信がほしいのですが」
背後からだとよくわからないけれど、ザカリーの顔色がさらに明るくなる。先程よりも声のトーンも上がっていて、目の前にいる女性を意識しているのがわかる。もしかしたらヴァネッサは上目遣いでもしているのかもしれない。
「それならこれを見せてやる」
浮かれた声でザカリーが取り出したのは、首から下げていたネックレスだった。
それを見たヴァネッサが息を呑むように言葉を止める。
「公爵家の印章のついた宝石だ。どうだ。十分な証明になるだろ」
「……いま、思い出しました。社交界で噂になっていましたね。公子様がこういうところに出入りしていると。まさか、本当だなんて思いませんでしたわ」
「それはお互い様だろ。おまえもここにいるということは興味があるということだ」
「ふふ、そうですわね。私、ゲームが大好きなんです。だから、勝てるゲームしかしないんですよ」
「ははっ、ここのゲームはそう甘くないから初心者は勝てないだろうけどな。俺はついついいろいろ挑戦したくなって、痛い目も見ているが、それも成長のためだ」
「まあ、勇ましいんですねぇ。……あれ、でも噂では借金があるって」
声を潜めるヴァネッサに、ザカリーが鼻を膨らませながら胸を張る。
「なんだ、それは知らないのか? 俺は、あの伯爵令嬢と婚約したんだ。資産だけならそこらの貴族よりも持っている、成金の……名前は、何だっけか?」
「スパングル?」
「ああ、そんな名前だった!」
ザカリーが手を叩いて喜ぶ。
「いくら借金をしても、ギャンブルで負けても、あの女がいれば俺は無敵なんだ」
「……あら、あまりにも浅ましい人」
ヴァネッサはもう演技をしていなかった。
ザカリーの手から謎のネックレスを奪い取ると、それを改めて見る。
「おい、盗人がいるぞ。早く返せよ」
「……これで、確証を得ることができたわ。盗人は、あなたの方だということが」
ひらりと手で弄んだネックレスが、マーティンの目の前にぶら下がる。
それを手に取ってよく見てみるが、ネックレスに着いた宝石に刻まれている紋章は、どこからどう見ても偽物だ。
偽造したのだろうが、本物に比べると印章の形が数ミリ単位で違う。それ以外にも、本物と見比べたら間違い探しが容易にできる。
「偽物だ。どうして、こんなものを」
「理由は後で本人から聞きましょう。もう証拠は揃ったのだから、私たちがここにいる必要はないわ。ゲームはそろそろお開きよ」
マーティンの手を引いて、ヴァネッサが歩き出す。
出入り口に向かう二人の背中をザカリーが追いかけてきていたが、気にせずに彼女は突き進んでいく。
出入り口の扉を抜けると、そこにはさっきまでいなかったはずの人たちがいた。
警備隊の制服を着た者が多いが、騎士の制服を着た者もいる。
「スパングル伯爵令嬢、ご協力感謝します」
「こちらは証拠よ。好きに使ってもらっても構わないわ」
ネックレスを、警備隊の隊長と思われる人に渡す。
ヴァネッサは再びマーティンの手を引くと歩き出した。




